宝暦元年(1751)に千住宿で開塾した寺子屋「群雀堂」の二代目塾主、正木大助の生涯についての碑である。
 父昌房が千住に移住し、地域の子供たちの教育を行うようになった由来を記している。その末子として宝暦12年(1762)元旦に生まれた大助は幼いころから学問に秀で、12歳にて塾主を継ぎ、母や姉の死や貧苦を乗り越えてますます勉学に力を入れ、これを慕って学ぶものが日に百人余りを越えていたということや、66歳で剃髪した後も、多くの人々の尊敬を受け清白とした生活を送っていた様子などが述べられている。
 大助は天保12年(1841)12月、80歳にして死去するが、死去間近には幕府代官中村八太夫が、その評判を聞いて見舞い、大助の死後、老妻は扶持米を支給され、息子建には銀五錠の褒章が与えられたことも記されている。
 この事績碑は、塾主三代目を継いだ息子正木建の撰文によるもので、嘉永5年(1852)に建立されたものである。寺子屋教育の様子を物語る貴重な資料である。

氷川神社内に合祀される高正天満宮の縁起を示す碑である。千住四丁目の名主高梨氏の系譜、高正天満宮の由来について詳しく述べている。
 千住四丁目の名主高梨信平は地域の子供たちに読み書きなどを教えていた。縁故を頼って屋敷内に住むことになった正木昌房に、老齢の信平は子弟教育を託し、代々信奉していた菅原道真の像を譲った。正木氏はそれよりこの像を家神として祀り、子弟教育を家業とするようになった。
 昌房の孫、正木建はこの菅原道真像を個人で祀るより、氏神社内で祀ることを思い立ち、高梨氏と正木氏とに関わるこの神を高正天満宮と号することにしたという。
 正木氏は、昌房以来、代々寺子屋「群雀堂」の経営にあたり、二代目塾主、大助(正木櫟蔭)の代には大いに発展し、来塾するものが毎日百人ほどもいたという。
 元治元年(1864)に建立されたこの碑は、三代目正木建の撰文によるものであり、天満宮の由来はもとより、寺子屋開塾に至る経緯が伺われる貴重な資料である。

尾張屋長吉と刻まれた常夜燈

嘉永5年(1852)の正木櫟蔭事績碑

元治元年(1864)の高正天満宮縁起碑

三管塚

氷川神社拝殿

手水舎

拝殿に掛かる氷川社の扁額

水盤

境内社拝殿

拝殿に掛かる猿田彦大神・稲荷神社・高正天満宮の扁額