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日光街道   (下間久里~杉戸)


平成28年7月30日(土) ☀|☁  下間久里~杉戸  13.5㎞
前回の続きのため東武スカイツリーラインの大袋駅から街道に出てスタートである。晴れ後曇りという予報だが、大袋駅を下りると雲一つない快晴である。気温があまり上がらないことを祈って先に進む。

大袋駅 下間久里香取神社 上間久里香取神社 道標
大袋駅は、大正15年(1926)に開業した駅であり、駅名は開業当時の村名である大袋村から命名されている。 街道に出ると間もなく右手に下間久里の香取神社がある。
香取神社の創建年代は不詳であるが、下間久里村の鎮守として祀られており、県指定無形民俗文化財の 「下間久里の獅子舞」 が行われている。
境内には、稲荷社、三峰社、天神社などの境内社がある。
越谷市立北中学校を過ぎてY字路を左に入ったところに上間久里の香取神社がある。
香取神社の創建年代は不詳であるが、明治6年(1873)村社香取神社となり、明治40年(1907)上間久里八反田に鎮座する天神社を合祀した。
境内には天満宮と御嶽社の境内社、天照皇大神碑、稲荷大明神碑などがある。
街道に戻ると直ぐ先で国道4号線に合流し、せんげん台駅入口の手前に国道4号線の道標がある。
日本橋から30km、春日部まで5kmとある。旧道の里程とほぼ同じと思われる。

戸井橋 会之掘川 大枝香取神社 歓喜院
せんげん台交差点の先に新方川に架かる戸井橋がある。
新方川は、古くは千間掘りと呼ばれ、農業用水路だった。
戸井橋を渡ると右手に流れる会之掘川に沿っ国道4号線を進んで行く。
かつては水田地帯の農業用排水路として使われていたが、春日部市市街地に近い上流部では宅地化が進んだことにより、水質は汚濁している。
街道を進むと武里駅入口交差点の手前左手に大枝香取神社がある。
香取神社の創建年代は不詳であるが、古くから 「五穀豊穣の神」 として崇められ、明治42年(1909)には神社合祀政策によって近隣の神社を合祀し、大枝全域の鎮守様・氏神様となったという。
大枝香取神社に隣接して真言宗豊山派の歓喜院がある。
歓喜院の創建年代は不詳であるが、武里観音として知られており、境内には、かつて日光街道沿にあったという安政4年(1857)の普門品供養塔、寛永4年(1627)の宝篋印塔などがある。

西光寺 庚申塔など 女帝神社 建御雷神社
武里駅入口交差点を左折すると右手に浄土宗の大畠山西光寺がある。
西光寺の創建年代は不詳であるが、参道脇には大畑村講中と刻まれた庚申塔、弘法大師像があり、境内には宝暦4年(1754)の普門品供養塔、寛政10年(1798)の観音像などがある。
武里駅入口交差点を右折すると女帝神社へ向かう途中の覆屋に延宝元年(1673)の地蔵菩薩、正徳5年(1715)の庚申塔、宝暦12年(1762)の石橋建立供養塔が安置されている。 庚申塔などが安置された覆屋の左手の道を進むと女帝神社がある。
女帝神社の創建年代は不詳であるが、平方村は組ごとに鎮守とする社を祀っており、女帝神社は南の里の鎮守として祀られてきた。
祭神は、伊邪那美命と神功皇后を祀っており、いずれも女神である。境内には、かつて日光街道にあったと思われる石造物がたくさん安置されている。
街道に戻って正善小入口信号を過ぎると右手に建御雷神社の社標があり、その奥突当りに建御雷神社がある。
建御雷神社の創建年代は不詳であり、元は雷電社と称していたが、明治初年に現在の社号に改めたという。
境内には、嘉永5年(1852)に築造されたという富士塚、三峰神社の境内社がある。

称名寺 地蔵堂 稲荷神社 森泉家
備後信号交差点の手前右手に浄土宗の一行山称名寺がある。
称名寺の創建年代は不詳であるが、境内には、男根形と女陰形を刻んだ金精石神があり 「忍信生誉」 と刻まれている。また弘法大師像、日光街道沿いに長屋門の豪邸を持つ森泉家の墓がある。
備後信号交差点を過ぎるととんかつとんQの向かいに地蔵堂があり、寛文13年(1673)の地蔵菩薩碑と地蔵菩薩立像が安置されている。 地蔵堂の直ぐ先右手のパチンコさくら備後店の角を右に入ると稲荷神社がある。 街道を進むと右手に称名寺に墓があった森泉家の立派な長屋門が見える。
広大な敷地から察するに相当な地主であろう。

備後一里塚跡 善巧寺 藤塚香取神社 大落古利根川
森泉家から程なく右手に昭和45年(1970)に建てられた備後一里塚跡碑がある。
ここは江戸日本橋から数えて8里目の一里塚である。
街道が大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)に近づいたところに浄土真宗本願寺派の正覚山善巧寺がある。
善巧寺の創建年代は不詳であるが、境内には親鸞聖人の旅姿像がある。
善巧寺の先の藤塚橋T字路を右に進んで大落古利根川を渡ると藤塚香取神社がある。
香取神社は、天正6年(1578)現在の佐原市の香取大神を東国寺開山の光誉上人が分霊を勧請し創建したのが始まりと云われる。
境内には、天満宮、稲荷社などの境内社がある。
この先も街道の近くを流れているのが大落古利根川である。
大落古利根川は、その名のとおり徳川家康江戸入府以前の利根川であり、文禄3年(1594)に会之川が羽生市上新郷で、元和7年(1621)に浅間川が久喜市高柳で締め切られ上流を失ったものである。その後排水路となり、「大落」 とは農業排水を落とすという意味だという。

大神碑 東武野田線 大下稲荷神社 八坂神社
街道をどんどん進んで春日部市緑町に入ると左手の看板黒馬堂の隣に石碑が2基建っている。
2基ともに明治時代の浅間大神碑と御嶽大神碑である。
春日部市緑町から粕壁東の境を東武野田線が通っている。
東武野田線のガードを潜った辺りが粕壁宿の南口にあたる。
東武野田線ガードをくぐると間もなく左手に東町大下稲荷神社がある。
稲荷神社の創建年代は不詳であるが、境内には文政2年(1819)の稱名百万遍供養塔、馬頭観音がある。
一宮交差点手前の横断歩道橋のところに八坂神社がある。
八坂神社の創建年代は不詳であるが、明和7年(1770)の火災で社殿が焼失し、明治以降は須佐之男命を祭神として祀っている。神仏分離以前は牛頭天王を祀っていたことから、今でも 「天王さま」の通称で呼ばれている。境内には、徳祐彦霊神碑、猿田彦大神碑などがある。

東八幡神社 東陽寺 かすかべ大通り 粕壁宿脇本陣跡
一宮交差点の先右手に東八幡神社の参道がある。
東八幡神社は、誉田別尊(第15代応神天皇)を祀る古社で京都 「男山」 に鎮座する 「岩清水八 幡宮」 から分霊を歓請し、氏神としてお祭りしたものと伝えられている。
境内には、大杉神社、弁財天、雷電神社、浅間神社などの境内社がある。
一宮交差点から街道に入ると右手に曹洞宗の医王山東陽寺がある。
東陽寺の創建年代は不詳であるが、寛永年間(1624-43)に僧熊巌が中興開山したと伝えられている。元禄2年(1689)3月27日、松尾芭蕉が 「奥の細道」 の旅で東陽寺に宿泊したと云われており、境内には芭蕉の弟子曽良の日記の一節を刻んだ石碑などがある。
東陽寺の先は粕壁宿の中心地であるが、都市化によって宿場の面影は全くない。
天保14年(1843)の調査では本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、問屋場1ヶ所、家773軒があり、日光街道23宿のうちの6番目の規模であったという。
街道左手の金子歯科医院前に粕壁脇本陣跡がある。
文化会館前交差点の付近には、かつて水路があり、三枚の板石の橋が架けられていたため、この辺りは三枚橋と呼ばれた。中宿(仲町)の蓮沼屋庄兵衛が勤めたが、天保元年(1830)に現在地で旅籠屋を営んでいた高砂屋竹内家が勤め、嘉永2年(1849)から幕末まで本陣になった。明治9年(1876)6月、同14年(1881)7月、明治天皇の東北巡幸の際、高砂屋は御昼食所となった。

碇神社 シャッター画 粕壁宿本陣跡 田村家
街道を右手入ると大落古利根川べりに碇神社がある。社殿は林の中にあり、一見して神社があるとは分からない。
境内には、埼玉県指定の天然記念物で推定樹齢600年のイヌグスの木がある。かつて碇神社付近には下喜蔵河岸という船着場があり、イヌグスは古利根川を通る帆掛舟の目印になっていたという。
街道沿いの商店のシャッターには、宿場の面影が描かれており、現在30ヶ所近くあるという。 街道右手のディスカウントチケットショップの前に粕壁本陣跡がある。
古くは、関根次郎兵衛家が勤め、その後、現在地の関根助右衛門家、見川家、小沢家、竹内家の順に4度移転した。日光山法会など、公用の通行者が多い時には、最勝院・成就院が宿泊施設として利用されることもあった。
街道を進むと右手に旧家田村家があり、家の前に道標が建っている。
道標には、「南西いハつき 北日光 東江戸右之方陸羽みち」 と刻まれている。

ミセと蔵標柱 千手観音堂 永嶋庄兵衛商店 普門院
公園橋西交差点角にミセと蔵標柱が建っている。中宿(仲町)と呼ばれたこの辺りには、江戸時代に米問屋など蔵造りの商家や旅籠屋などが多く立ち並んだ。粕壁宿の商家は、間口が狭く奥行きの長い敷地で、街道の並びには商業空間としての 「ミセ」 を、その奥には生活空間としての 「オク」 がつくられた。街道の北側の商家は古利根川沿いまで蔵を連ね、舟を乗りつけて荷を上げ下げされた。 公園橋西交差点を渡ると左手に山中千手観音堂がある。
江戸時代の俳譜師増田眠牛は、千手観音を背負ってこの地方を行脚していたが、粕壁宿の米問屋伊勢平の家に止宿するようになり、、伊勢平が好意で建てた観音堂で生活し、眠牛はこの地で一生を終えた。眠牛を慕う人々は、その観音堂の境内に墓標を建て、千手観音を祀って信仰したという。
千手観音堂の直ぐ先右手に永嶋庄兵衛商店がある。
永嶋庄兵衛商店は、慶長年間(1596-1615)に米穀問屋として営業を始め、現在に至っている という老舗の米屋で屋根瓦には鍾馗様が乗っている。
街道は新町橋西交差点を右折して行くが、かすかべ大通りの突当り手前右手に真言宗智山派の八幡山普門院がある。
普門院は、慶長12年(1607)僧尊雅が創建したと伝えられている。
境内には、如意輪観音、宝篋印塔、六地蔵尊の刻まれた石塔などがある。

最勝院 成就院 高札場跡 上喜蔵河岸跡
かすかべ大通りの突当りに真言宗智山派の華林山最勝院慈恩寺がある。
最勝院の創建年代は不詳であるが、この付近は粕壁でも寺町と呼ばれており、5つの寺院が集まっている。
最勝院の本堂西側には、南朝の臣として後醍醐天皇に仕え、元弘の乱などに功を成した春日部重行を葬った墳丘がある。
最勝院に隣接して真言宗智山派の愛宕山成就院大日寺がある。
成就院の創建年代は不詳であるが、江戸時代から粕壁宿内の多くの檀家を抱えた寺院の一つである。墓所には、粕壁宿の問屋・差配役を勤めた美川喜蔵の墓がある。
山門は立派な楼門で一対の仁王像が安置されている。
街道に戻って新町橋西交差点を右折すると左手に高札場跡・浜島家住宅土蔵標柱がある。この十字路は、明治22年(1889)の岩槻新道が開通してからのもので、それ以前は日光道中と寺町通が分岐する三叉路で幕府からの触書を掲示する高札場が設置された。
通りの向かいにある黒壁の土蔵は、戦前まで佐渡屋の屋号で米穀商を営んでいた浜島家の土蔵(国登録有形文化財)である。
新町橋手前に上喜蔵河岸跡標柱がある。
新町橋の上流には、上喜蔵河岸と呼ばれた船着場があり、石垣の一部が現存している。
江戸時代、粕壁宿では共同で河岸を利用し、古利根川の水量が多い6月中旬~8月中旬(旧暦)には、小型の高瀬船などで米や生活物資を運搬した。

新町橋 八坂香取稲荷神社 仲蔵院 小渕一里塚跡
新町橋は、江戸時代には大橋と呼ばれ、古利根川に架かる唯一の橋であった。
長さ16間(約29m)、横3間(約5m)の板橋で、高覧が付いていた。架け替えにあたっては、幕府が費用を負担し、往来を妨げないように仮橋が架けられた。
新町橋を渡った先のY字路交差点を左に曲がると右手に八坂香取稲荷神社がある。
八坂香取稲荷神社は、八坂・香取・稲荷の合祀社である。社殿脇の神輿蔵には、千貫神輿と呼ばれる神輿が保管され、元旦には歳旦祭として神輿の渡御が行われている。境内には、三峰山大明神、姥子稲荷大明神などと刻まれた石祠がある。
八坂香取稲荷神社に隣接して真言宗智山派の神林山仲蔵院がある。
仲蔵院は、永禄元年(1558)秀宥大和上の開基で、本尊は聖観音菩薩坐像・十一面観世音菩薩(秘仏)である。
内には、弘法大師像・不動明王像・地蔵菩薩立像のほか、青面金剛の文字庚申塔などがある。
街道に戻って進むと右手路地角に小渕一里塚跡がある。
一里塚標柱の隣には、天保3年(1831)の庚申塔が建っている。正面に 「庚申塔」、左側面に 「天保3年壬申小渕村」、右側面は風化のため判読不能である。
ここは江戸日本橋から数えて9里目の一里塚である。

追分道標 小渕観音院 不二山浄春院 杉戸町
小渕一里塚の直ぐ先のY字路中央に追分道標が2基建っている。
大きい方は青面金剛と刻まれた文字庚申塔に「左日光道」 と刻まれ、小さい方は表面の一部が欠けているが、左側に 「左方あふしう道」、右側は一部欠けているが 「○○○○やど道」 と刻まれている。丸の部分は 「右方せき」 であり、関宿は千葉県の城下町である。
追分の先で国道4号線に合流し、国道16号線を渡ると左手に小渕観音院がある。
小渕山観音院は、正嘉2年(1258)に開基と伝えられる古刹である。山門の楼門は、元禄2年(1689)の建立と伝えられ、春日部市指定有形文化財となっており、本堂の格天井には花鳥画が施されている。
境内には、芭蕉句碑 「ものいへば 唇さむし 秋の風」 がある。
街道を進んで行くと小渕小入口交差点左手に不二山浄春院と刻まれた寺標があり、西に500m程入ると曹洞宗の不二山浄春院がある。浄春院の創建年代は不詳であるが、境内には観音堂、地蔵堂などがある
この日は法要が営まれていたため、境内をゆっくり見て回ることは出来なかった。
街道に戻ると直ぐ先で杉戸町に入る。
ここは北緯36度線が通っている所で、左手のやや広くなった歩道上にそれを記念する大きな地球儀のモニュメントとSUGITO MAPがある。

香取神社 稲荷神社 旧道分岐 九品寺
街道を進んで本郷交差点を右に入ると直ぐ左手に香取神社がある。
香取神社の創建年代は不詳であるが、
境内には享保2年(1717)の青面金剛の庚申塔、享保6年(1721)の五穀成就と刻まれた石碑などがある。
街道左手のエネオスの手前に赤い鳥居の稲荷神社がある。
詳細は不明である。
稲荷神社を過ぎると国道4号線から左に入る旧道ががある。 旧道に入って間もなく曹洞宗の満聚山九品寺がある。
九品寺の創建年代は不詳であるが、境内の端にには、青面金剛の文字庚申塔があり道標を兼ねている。正面に 「青面金剛」、左側面に 「左日光」、右側面に 「右江戸」 と刻まれていることから道路の向かい側にあったものと思われる。
また、地蔵堂、六地蔵尊が街道を向いて建っている。

大六天 香取神社 馬頭院観音寺 旧道分岐
九品寺の先で街道がやや左にカーブするところで植栽に囲まれた大六天の社がある。
隣は大きな旧家があるので、或は屋敷神社かも知れないが、社には大六天と刻まれた小さな石碑が安置されている。
大六天は第六天と表記するのが一般的で関東地方にだけある神社である。
街道を進むと並行する国道4号線の右手に香取神社がある。
香取神社の創建年代は不詳であるが、旧街道沿いにあった一之鳥居に延元2年(1337)と刻まれていたということからそれ以前と云われる。社殿は元和年間(1615-23)に改修された。
境内には、三峰神社があり、大正2年以降、稲荷社・八幡社・白山社・第六天などを合社し、それぞれの石碑が周囲にある。
堤根南交差点で国道4号線に合流して直ぐ右手に真言宗智山派の旦照山馬頭院観音寺がある。
馬頭院の創建年代は不詳であるが、中興開山は宥盛和尚で、慶安2年(1649)に入寂した。本尊は馬頭観世音菩薩で伝教大師の作と伝えられている。境内には、緑泥片岩に阿弥陀如来の種子を刻んだ文永7年(1270)の本板石塔婆がある。
堤根Y字交差点で左に旧道が分岐している。
この先が元和2年(1616)に開宿された杉戸宿であり、日光街道の宿場町として栄え、今年平成28年(2016)に400 周年を迎えた。

宿場公園 道標 鍾馗像 関口酒造
旧道に入って直ぐ右手に宿場公園があり、みなみがわ散策道がある。
宿場公園からの散策道は、かつて灌漑用水路であった南側用水路の跡地を整備したものであり、ここから河原橋の先の大落古利根川の近くまで続いている。入口のここには杉戸宿碑、東屋、みなみがわ散策道案内図がある。
宿場公園を過ぎると武井農機具店の向かいの路地角に小さな道標があり、正面に 「幸手方面」、左側面に 「宝珠花方面」 と刻まれている。 街道をどんどん進んで行くと清地二丁目交差点の右手角の家の瓦に鍾馗像が乗っている。 清地二丁目交差点を渡ると右手に関口酒造がある。創業は文政5年(1822)で江戸期からの老舗であり、祖先には今川義元の養女になり、徳川家康の正室にもなった築山御前がいる。一族は桶狭間の戦いの後、現在の町東端鷲巣に移り住んだという。初代がこの地で創業を選んだのは、古利根川の恵みと、村名清地を 「清き地」 と捉えたことが考えられるという。関口酒造の左路地角には小さな道標があり、粕壁方面、百間方面と刻まれている。

みなみがわ散策道 近津神社 杉戸宿碑 神明神社
関口酒造を過ぎると街道の北側を通っていた 「みなみがわ散策道」 が街道の直ぐ脇に出て来る。
この散策道は50m程先て街道を横断して街道の左手を通っている。南側用水路は、江戸時代初期の万治3年(1660)利根川筋・本川俣村に葛西用水の取水口が造られた際にその支流として当時の幸手領南側一帯に農業用水を供給するために設けられたものである。
みなみがわ散策道が合流して直ぐ右手に近津神社がある。
近津神社の創建代は不詳であるが、貞享元年(1684)には本社を建立しているので、それ以前と云われる。
境内には、浅間社・三峰社などの境内社がある。
近津神社を出て50m程進むとみなみがわ散策道が街道を横断する左手に杉戸宿碑が建っている。 街道を進んで右手の埼玉りそな銀行の脇を入ると突当りに神明神社がある。
神明神社の創建年代は不詳であるが、杉戸宿新町の鎮守で 「神明様」 と呼ばれて親しまれている。かつて隣接して神明院という寺があり、別当寺となって神明神社を管理していたが、明治の初めに廃寺となっている。境内には神輿庫があり、毎年7月の八坂祭は 「天王様」 と呼ばれて賑わっている。

明治天皇御小休所址
神明神社を出ると本陣跡地前信号交差点の右角にある三井住友信託銀行前に明治天皇御小休所址碑が建っている。
ここには杉戸宿で人馬の継立・助郷差配などを行う問屋場が置かれていた。明治天皇は奥羽御巡幸の途中立ち寄り、ここで休憩された。碑の題字は西郷従徳によるものである。
ただ今の時間は14時前であるが、気温が高すぎて意識が集中できないため、本日の街道歩きはここで断念した。

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