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旧水戸街道   (取手~牛久


平成30年4月3日(火)    ☀    取手~牛久    15.0㎞
先週に続き天気が安定しているので、早朝に判断して出掛けることとした。取手の地名の由来は、戦国時代に大鹿太郎左衛門の砦があったことから名付けられたと云われているが、他に平将門が砦を築いたことに由来するとかいう説もあるようである。取手宿から先は、藤代宿、若柴宿、牛久宿と続く。

壁画 長禅寺 田中酒造店 布袋尊像
取手駅から街道に出ると、JR常磐線のガード下に利根川の渡しをイメージしたと思われる壁画が描かれている。 先に進むと左手に段上に臨済宗妙心寺派の大鹿山長禅寺がある。長禅寺は、承平元年(931)平将門が祈願寺として創建したと伝えられている。慶安2年(1649)徳川家光より寺領5石3斗を賜り、以後明治維新まで歴代将軍から朱印状を受けている。
境内には、茨城県指定文化財の三世堂のほか、文殊堂・弘法堂・弘法大師御母公霊堂などの御堂のほか、小林一茶句碑などの石碑がたくさんある。
街道左手に、明暦元年(1655)創業、利根川の伏流水を使用した酒造りを始めた田中酒造店がある。
田中酒造店は、明治17年(1884)明治天皇が牛久に行幸された際に下賜された 「君萬代」 の銘柄を守り続けている酒造である。
街道右手のきものと帯の田丸屋の前に布袋尊像が建っている。

取手宿本陣跡(染野家) 八坂神社 念佛院 安孫子屋跡
布袋尊像の斜向かいに取手宿本陣跡の染野家住宅がある。
公開日等は、毎週金・土・日の午前10寺から午後4寺までとなっており、本日は火曜日であるため敷地内に入ることは出来ない。
門前に染野家住宅の解説が掲示されており、主屋・土蔵・附表門の詳細が記されている。
先に進むと市民会館入口交差点の右手に、取手総鎮守の八坂神社がある。
八坂神社は、寛永3年(1626)の創建で、ご祭神は素戔嗚尊であり、旧取手市内における、上町、仲町、片町の鎮守である。拝殿は天保3年(1832)の建築、鳥居は宝永4年(1707)の建立である。境内には、寛保3年(1743)の石灯籠などの燈籠があり、御神庫には文政9年(1826)の御神輿が収蔵されている。
街道に戻ると左手の石段を登った高台に浄土宗の取影山念佛院がある。
念佛院の創建年代等は不詳であるが、新四国相馬霊場八十八ヶ所の第2番であり、境内には弘法堂のほか、取手利根川七福神の福禄寿が祀られている。
また、本堂手前の右側に幕末を代表する国学者・沢近嶺(さわちかね)の歌碑、駒形茂兵衛を詠んだ句碑、徳本の南無阿弥陀仏名号碑などがある。
先に進むと左手に新町屋がある。
一本刀土俵入の主人公・駒形茂兵衛が、取手宿の街道筋で暴れている船戸の弥八を追い払い、これを宿の二階から見ていた酌婦のお蔦が呼び止める。茂兵衛は巡業先で親方から追い出され、無一文で空腹だと話す。茂兵衛は母親の墓前で横綱の土俵入りを見せたいという夢を語ると、お蔦は財布とかんざしを茂兵衛に恵んであげる・・・。
この安孫子屋があったところで、今は、新町屋という旅館になっている。

旧道口 道標 阿夫利神社 直線の道
新町屋から2軒おいた脇から左に入る筋が、旧水戸街道である。 先に進んで街道が右に曲がる手前の左手民家前に水戸街道道標が建っている。
道標には、「江戸与利十里八丁」 「水戸与利十八里三十二丁」 と刻まれている。
街道が右に曲がるところの左手に阿夫利神社参道があり、20~30mほど進むと段上に阿夫利神社がある。
阿夫利神社は、昭和13年(1938)に神奈川県の大山阿夫利神社の分霊を勧請して創建された。
阿夫利神社を過ぎて県道11号線と交差する東4丁目交差点を過ぎると、直線の道となる。
この道は、両側の住宅地より一段高いところを通っている。

旧道口 吉田八幡神社 本泉寺 街道家並み
直線の道を進み、左手下を流れる川沿いに建つ吉田保育所を過ぎると、その先の信号のところから左手に下って行く旧道口がある。
信号を直進すると利根川堤防に突き当たる。
旧道に入って直ぐ小川を渡ると、左手に吉田八幡神社がある。
吉田八幡神社は、永禄元年(1558)の創建と伝えられている。江戸時代に入り開発が進み村落が形成されると、寛永6年(1629)に村の氏神として奉祀され、同13年(1636)に本殿、寛文11年(1671)に拝殿が建立されたと記録されている。境内には、稲荷神社・天満神社・天神宮の石祠のほか、伊勢大神宮・富士浅間神社などの石碑がある。
八幡神社を過ぎて100mほど進むと、左手の筋奥に浄土宗の本泉寺がある。
本泉寺の創建年代等は不詳であるが、境内には新四国相馬霊場八十八ヶ所第7番の弘法堂があり、墓所入口には青面金剛の庚申塔・三面六臂の馬頭観世音・二十三夜塔などの石造物がある。
街道に戻ると真っすぐ見通せる道で、ほぼ車の往来は無く、両側に旧宅が続いている。

水戸街道道標 浅間神社 田んぼ道 道標
集落が途切れる当りの右手に水戸街道道標が建っている。
道標には、「江戸与利十里二十二丁」 「水戸与利十八里十八丁」 と刻まれている。
脇にあるサイカチの木は推定樹齢220年で、さやは30㎝位になり、若いさやはつぶして洗剤に、トゲは利尿剤や解毒剤として利用されたとの解説がある。
水戸街道道標の直ぐ先で、街道は吉田消防署前の信号十字路を直進するが、ここを右折して350mほど進むと左手の林の中に浅間神社がある。
浅間神社の創建年代等は不詳であるが、境内には、大神宮石祠・三猿の庚申塔・疱瘡神・別雷神社・尾鑿山などの石碑がある。また、道路に面して稲荷神社があり、道路分離帯に地蔵菩薩などの石造物が並んでいる。
街道に戻って信号十字路を直進(北上)すると、吉田消防署の先に民家はなく、両側には田畑が広がっている。 先に進んで相野谷川に架かる土橋を渡ると、渡り詰め左側に道標が建っている。
道標には、「来應寺七丁」 「江戸十一里」 「水戸十八里」 と刻まれている。来應寺は、浄土真宗大谷派の会谷山随迎院と号し、寛永元年(1624)空清上人の開基である。来應寺は相野谷川に沿って南東に400mほどのところに位置するが、立ち寄らずに先に進むこととした。

石造物 旧水戸街道標柱 鹿島神社 石祠・不動明王像
70~80mほど先に進むと、左手に石造物が安置されている。
石造物は、南無阿弥陀仏名号碑・如意輪観音・地蔵菩薩などの供養塔などである。
石造物から程なく左手に旧水戸街道標柱が建っている。標柱には概ね次のように記されている。
水戸街道は江戸と水戸を結ぶ重要な街道であった。取手市域では現在の大利根橋付近で利根川を渡り取手宿に入り、吉田村を経て、水田地帯の道を真直ぐに藤代宿に達し東に折れ、さらに北へ向かい宮和田村の小貝川の渡しに着きます。
先に進むと右手の畑の先に、鹿島神社が見える。鹿島神社の創建年代等は不詳であるが、境内の記念碑によると、小泉地区の守り神で、社殿の老朽化及び東日本大震災による破損のため、平成24年に社殿を改築したという。
境内には、街道筋から集められたと思われる三峰神社・天神社などの小社のほか、二十三夜塔・普門品供養塔・庚申塔などの石造物が安置されている。
街道に戻って300mほど進むと左手の民家塀脇に石祠と不動明王像が建っている。
石祠には、「寛永8年(1631)9月吉日」 「矢作五郎右衛門」 と刻まれている。

整地記念碑 釜神橋 道標 照谷寺
石祠から程なく、信号交差点の右手に 「六郷村耕地整理竣功記念碑」 が建っている。
六郷村は、茨城県北相馬郡にかつて存在した村であり、明治22年(1889)4月の町村制施行に伴い、毛有村・小泉村・酒詰村・渋沼村・百井戸村・中谷原村の6ヶ村が合併したものである。
信号交差点を越えて進むと、小川に架かる昭和44年(1696)竣工の釜神橋がある。 釜神橋を渡るとその先の水路を伴った5差路の右角に、昭和10年(1935)の道標が建っている。
道標には、「東 中谷原渋沼ヲ経テ小文間」 「西 酒詰細井ヲ経テ山王水海道」 「南 百井戸小泉ヲ経テ吉田」 「北 谷中藤代宮和田ヲ経テ牛久」 と刻まれている。
先に進むと左手3本目の筋奥170~180mほどのところに日蓮宗の本圓山照谷寺がある。
照谷寺は、慶長15年(1610)日蓮宗本山本土寺の第16世日舜聖人が隠居するため建立した寺院である。
境内には鬼子母神堂があり、本堂前に天保2年(1831)の南無妙法蓮華経題目碑が建っている。また境内に隣接して住職が副園長を務める保育園がある。

佛性寺 旧水戸街道標柱 JR常磐線 坂本呉服店
街道に戻って進み、信号十字路を越えた先の水路右手(南東)方向に真言宗豊山派の佛性寺がある。
佛性寺の創建年代等は不詳であるが、境内には弘法堂のほか、十九夜念仏供養塔などの石造物があり、墓所には延享2年(1745)の六地蔵幢などがある。
街道に戻って進むと、右手道路わきに旧水戸街道道標柱が建っている。先にあったものと同じ文面が記載されている。
水戸街道は江戸と水戸を結ぶ重要な街道であった。取手市域では現在の大利根橋付近で利根川を渡り取手宿に入り、吉田村を経て、水田地帯の道を真直ぐに藤代宿に達し東に折れ、さらに北へ向かい宮和田村の小貝川の渡しに着きます。
直ぐ先でJR常磐線が街道を横切り、旧陸前浜街道踏切で横断していく。 JR常磐線を越えて、県道251号線との交差点を越えると藤代宿であり、突き当たりを直角に右折して行く。
この右手角に建つ旧家(写真)は、坂本呉服店である.。奈良県出身の小説家・住井すゑは、夫の郷里である牛久に住み、代表作 「橋のない川」 の執筆をする傍ら、この坂本呉服店を利用していたという。

相馬神社 高蔵寺 水盤 藤代宿本陣跡
坂本呉服店の斜向かいにあたる左手角に鎮座しているのが、相馬神社である。
相馬神社は、当初、八坂神社と称し、創建は元享元年(1321)と言われ、安政2年(1855)火災で焼失し、慶應3年(1867)に再建された。
明治40年(1907)の富士神社を合祀して相馬神社と改称した。元八坂神社は、藤代・宮和田両宿の総鎮守であった。
相馬神社の北側に、真言宗豊山派の新栄山高蔵寺が隣接している。高蔵寺の創建年代は、境内にある薬師如来坐像の標柱によれば室町時代末期のようである。
天正末期、上野国由良信濃守源国繁が諸将に命じて七観八薬師を建立させたが、藤代薬師堂はその一つで、横瀬守膳正繁が建立にあたった。文禄元年(1592)堂宇が落成、入仏した。境内には、弘法堂・地蔵菩薩半跏像・宝篋印塔などがある。
街道に戻ると、坂本呉服店の向かいの民家前に、水がいっぱい張られた水盤が置かれている。 先に進むと、左手の藤代公民館の中庭に藤代宿本陣跡がある。街道からは見えず、街道に案内板もないので通り過ぎてしまいそうである。
藤代宿は、水戸街道の他の宿場より遅れて設置され、江戸側の藤代宿と水戸側の宮和田宿からなっていおり、本陣などの役務も持ち回りとなっていた。藤代宿本陣は、名主・飯田家が代々務めており、遺構は残っていないが、今は藤代公民館に百日紅と玄関前の老松が保存されている。

愛宕神社 信楽寺 Y字路 熊野神社・八坂神社
先に進んで、街道が左に屈曲するところの右手に愛宕神社がある。
愛宕神社は、寛永15年(1638)に京都の嵯峨愛宕町本社より、迦俱槌命を勧請して創建された。その後、老朽化により2度社殿を改築し、現社殿は昭和59年に改修されたものである。境内には鉄柵があって奥には入れないが、弘法堂や大日如来などの石造物が安置されている。
街道に戻って、右手の二本目の筋を入っていくと、右手に浄土宗の信楽寺がある。
信楽寺の創建年代は不詳であるが、朱塗りの山門は四脚門で、元禄年間(1688-1703)の建立と言われる。本堂にある 「絹本金箔地刺繍釈迦涅槃図」 は、平成22年に取手市指定文化財に指定されている。
境内には、観音堂・浄行菩薩堂・弘法堂などがある。
先に進むとY字路があり、街道は直進して小貝川に突き当たる。
江戸時代、小貝川は宮和田の渡しで越えていた。
小貝川の堤防に突き当たると、左手に熊野神社と八坂神社がある。
境内に入ると右手に八坂神社があり、正面奥に熊野神社がある。熊野神社の創建は、室町時代の千葉常胤とも、戦国時代の千葉俊胤とも言われている。熊野神社拝殿の周囲には、石尊大権現・金比羅大権現などの石祠があり、小社には陽石が7~8基納められている。

宮和田の渡し付近 三軒地稲荷神社 文巻橋 鹿島神社
熊野神社から小貝川の土手に上がった当りが、宮和田の渡し跡付近である。
ここからは上流に迂回して、県道208号線の通る文巻橋で対岸へ渡っていく。
文巻橋の手前の文巻橋交差点から、西方向へ200mほど住宅地を入ったところに、三軒地稲荷神社がある。
当神社は、天正年間(1573-91)京都伏見稲荷の分霊を勧請して、服部市左衛門が社殿と社地を供して祀ったという。かつて、稲荷神社の近くを水戸街道が通っていたが、明和3年(1766)に新道に付け替えられたため、周辺に三軒しか家が残らなかったことから三軒地稲荷という名称になったという。
街道に戻って小貝川に架かる文巻橋で渡っていく。
小貝川は、栃木県那須烏山市の小貝ヶ池に源を発し、五行川、大谷川などの支流を合わせて、下流で利根川に合流している。
文巻橋を渡ると、渡り詰め左手の土手下に鹿島神社がある。
鹿島神社の創建年代等は不詳であるが、社殿は覆屋の中に鎮座し、境内には金比羅大権現・疱瘡神・道祖神などの石祠がある。

慈眼院 JR常磐線 石碑 往還橋
文巻橋の渡り詰め右手筋を土手沿いに進むと、左手に曹洞宗の清水山慈眼院があり、宮和田の渡しの対岸に当たる。
慈眼院は、天慶年間(938-47)に平貞盛が父国春の菩提を弔い、自領の民心を安定させるために、川原代に安楽寺を、小通の川岸に観音堂を建立したのが始まりと言われる。江戸時代は真言宗であったが、明治8年(1875)曹洞宗に改宗された。境内には、弘法堂のほか、石祠や庚申塔などの石造物がある。
慈眼院を出て真直ぐ進んでいくとY字路があり、右に進んでJR常磐線を龍ヶ崎街道踏切で渡っていく。 龍ヶ崎街道踏切を渡った右手の線路脇に、要石建立由来之碑が建っている。
碑文はよく確認できないが、昭和16年(1941)7月の洪水で堤防が決壊したようである。
龍ヶ崎街道踏切を渡ると左に進み、牛久沼から流れ出る谷田川に架かる往還橋を渡る。
谷田川は、下流に見える水門の先で、小貝川に合流している。

治水之碑 飯島つる子之碑 水神神社 交通安全地蔵尊
往還橋の渡り詰め左手に、治水之碑が建っている。 治水之碑の先の左手一本目の筋角に、飯島つる子之碑が建っている。
飯島つる子は、明治中期、龍ヶ崎市根町の造り酒屋の生まれで、飯島和裁学校を開き、付近の若い女性を集め、無報酬で裁縫を教え、女性の自立を促したと伝えられている。
この碑は、昭和2年(1927)に飯島和裁学校の卒業生が、飯島つる子の恩に報いるため建立したという。
飯島つる子之碑の右脇から奥に入ると、新しい鳥居の建つ水神神社がある。
境内には、弘法堂のほか、一面六臂の青面金剛の庚申塔などの石造物がある。
街道に戻って進み、県道5号線に突き当たると、中央分離帯に交通安全地蔵尊が祀られている。

道標 関鉄竜ヶ崎線 道標 田んぼ道
街道は県道5号線に合流して直ぐ、馴柴小入口交差点を左折するが、この筋角に覆屋の付いた道標がある。
道標は半分に折れたもので、判読出るのは 「右りゅうがさき・なりた」 「左水戸」 の文字である。
道標の先を150mほど進むと、関東鉄道ヶ崎線の南中島踏切がある。
竜ヶ崎線は、茨城県龍ヶ崎の佐貫駅と竜ヶ崎駅を結ぶ鉄道で、全長でも4.5㎞の短い路線である。
関鉄竜ヶ崎線を越えて進み、T字路に突き当たると、右手の龍ヶ崎市立馴染小学校の角に道標が建っている。
ここは初期の水戸街道が合流する地点であった。T字路の右手から来る道は、我孫子から利根がに沿って下り、利根川を渡って布川・須藤堀を辿って若柴宿に至る布川道である。道標には、「水戸十六里」 「江戸十三里」 「布川三里」 と刻まれている。
道標から北上して県道271号線が交差する佐貫駅東入口交差点を渡ると、田んぼの中の一本道となり、両側に水田が広がっている。

旧若柴宿 八坂神社 延命寺坂 長屋門
田んぼ道を過ぎて、坂道に差し掛かると右手に 「大坂これより旧若柴宿」 の立札があり、ここから若柴宿へ入っていく。 坂道を上り、街道が左に枡形に曲がるその右手に八坂神社がある。
八坂神社は、天正2年(1574)郡内に疫病が蔓延し、村民が苦しむ姿を見た領主の岡見縫殿之助頼房が、山城国愛宕郡の八坂神社の御分霊を勧請し創建したと伝えられている。境内には弘法堂・三峰神社のほか、疱瘡神・熊野大神・一面六臂の青面金剛の庚申塔などの石造物が並んでいる。
先に進むと左手に延命寺坂の立札があり、入っていくとS字を描いた坂道の途中に、延命寺跡の立札が建っている。 街道に戻ると左手に長屋門の立派な旧家があり、その先、左右に屋根の付いた黒塀の立派な旧家が向かい合っている。

会所坂 薬師寺跡 仲宿坂 足袋屋坂
左手の黒塀をめぐらした旧家の角に会所坂の立札があり、入っていくと竹林と大木のある細い道筋に会所跡の立札が建っている。 先に進むと会所坂立札から程なく、左手に薬師寺跡立札があり、民家前を抜けて70mほど入ると右手の竹林の前に建屋がある。
建屋の前には、子安大明神・薬師如来の小社があり、周囲には普門品供養塔などの石造物がある。
薬師寺跡立札の斜向かいの旧家の脇に仲宿坂(東屋坂)の立札があり、入っていくと竹林や杉木立に覆われた星宮神社裏参道が東西に通っている。 仲宿坂の立札から程なく左手筋に足袋屋坂の立札があり、入っていくと南西に下っていくやや広い道がある。

鍛冶屋坂 枡形道・観音寺跡 金龍寺 直線の道
街道が枡形に右折する手前の左手に鍛冶屋坂の立札が建っている。 鍛冶屋坂の直ぐ先で、街道は右に直角に曲がっていく。
この角地に観音寺跡があり、不動堂・弘法堂などのほか、無造作に置かれた石造物などがある。
観音寺跡の奥に進むと、曹洞宗の太田山金龍寺がある。金龍寺は、応永年間(1394-1428)に新田貞氏が、祖先の新田義貞追善のため上野国新田荘(現群馬県太田市)に創建し、その後、天正18年(1590)新田氏の末裔由良国繁が、常陸国牛久に転封されると、寛文6年(1666)にこの地に移転した。境内には、十六羅漢像図が納められた羅漢堂があり、墓所には新田義貞・横瀬貞氏・由良国繁・由良忠繁の五輪塔がある。 街道に戻ると、枡形の先は北東に真直ぐ延びる道となる。

星宮神社 分岐・道標 旧道 弘法堂
先に進むと左手段上に星宮神社がある。
星宮神社は、延長2年(924)肥後国八代郡八代の神社から分霊を勧請して祀ったと言われている。土浦城主常陸大掾平貞盛はこの神の信仰厚く縷々参詣され、天慶4年(941)には社殿・拝殿を建立したと伝えられている。
境内には、一力長五郎奉納の石燈籠、慶應2年(1866)の孝養碑、乱竿坊魚筌の句碑のほか、青面金剛の庚申塔どの石造物がある
街道に戻って進み、県道243号線を渡るとY字路があり、中央の段上に道標が建っている。
この道標は、大正12年(1923)に建立されたもので、全部は確認できないが、「女化岡見柏田方面」 「南若柴佐貫藤代方面」 「原新田成井牛久」 などと刻まれている
街道は、ここを左に進んでいく。
道標を左に進むと木々に覆われた緩やかな登坂となり、その先で小さな集落の中を進んでいく。 車の通らないのどかな道を進んでいくと、右手の原新田会館の前に弘法堂があり、一体の弘法大師像が安置されている。

稲荷神社 成井一里塚跡 二車線道路 旧道口
原新田会館を過ぎて一本道をすすむと、右手筋奥に成井の集落がある。入っていくと左手の林の前に稲荷神社がある。
一の鳥居から20mほど入ると二の鳥居があり、その奥に赤く塗られた稲荷神社の小さな社がある。
街道に戻ると、直ぐ先右手に成井の一里塚跡がある。
微かに塚状の盛り上がりがあるが、塚木は無く、一里塚碑が建っているだけである。
ここは江戸日本橋から数えて15里目、千住からは13里目の一里塚跡である。
成井一里塚の先で信号十字路を越えると、二車線道路となり、周囲に集落は無く、丘陵が切引かれた田畑が続いている。 二車線道路を進み、水路を越えて坂道に差し掛かると、左手に分岐する旧道口がある。

JR常磐線 下町坂下橋 旧道合流 観成院
道なりに進んでいくと、途中右手に旧道痕があるが、先でJR常磐線で分断されているので、迂回のため先に進んでJR常磐線の銅像山踏切で渡って行く。
かつて山の麓に母親を背負う親孝行の息子の銅像があったため、銅像山の名前だけが残されたということである。
JR常磐線を越えると国道6号線に突き当たり、向かい側に見える道に渡って先に進むと、根古屋川に架かる下町坂下橋がある。
根古屋川は、下流で牛久沼に流れ込んでいる。
下町坂下橋を渡って進むと、右手から来る本来の旧水戸街道と合流する。
写真の左手が旧水戸街道であり、かつては中央の山裾から道が延びていた。
合流地点から100mほど先の左手段上に日蓮宗の久寶山観成院がある。
観成院の創建年代等は不詳であるが、牛久宿本陣佐野家に生まれ、牛久小学校初代校長となった黒須嘉市郎が、東京小石川にあった観成院を牛久に移管したと言われる。
境内には、黒須嘉市郎碑(山岡鉄舟筆)があり、台座は勝海舟筆の漢詩が刻まれている。

道標 牛久城大手門跡 得月院 八坂神社
街道に戻って先に進むと、信号十字路の左角に芋銭河童碑道と刻まれた道標がある。
この筋を進むと、牛久沼の畔にある小川芋銭(うせん)が晩年に住んだ、雲魚亭と河童の碑がある。小川芋銭は昭和初期(1868生-1938没)に活躍した日本画家である。
雲魚亭までは遠いので、その中間に位置する得月院(小川芋銭の墓所)まで行って見ることとした。
得月院へ行く途中に牛久城大手門跡がある。
牛久城は、16世紀初め頃、在地領主岡見氏によって築かれたと言われる。天正18年(1590)岡見氏滅亡後、上野金山城主であった由良国繁が入城した。元和7年(1621)、由良氏が除封になり廃城となった。城は周囲三方を沼に囲まれ、一方の北側は台地を掘切った要害堅固な旧城中集落全域を包む大規模な城郭である。大手門は、堀切りのほぼ中央にあった。
得月院は、曹洞宗の寺院で、天正9年(1591)牛久に移り住んだ妙印尼輝子が開基である。
妙印尼は、戦国時代、上野国舘林城主の赤井重秀の娘として生まれ、のち同国金谷城主由良成繁の室となった。その子・由良国繁は北条征伐で小田原城に籠ったが、妙印尼の軍功により、秀吉より牛久5,400石を安堵された。
境内には、閻魔堂・弘法堂があり、墓所には妙印尼輝子(法名得月院殿月海妙院大姉)の五輪塔、小川芋銭の墓がある。
得月院から街道へ戻る途中、左手に八坂神社がある。
八坂神社の創建年代等は不詳であるが、境内には、寛延元年(1748)の石鳥居、推定樹齢400年のスダジイ、元文3年(1736)の庚申塔のほか、たくさんの石祠が並んでいる。

明治天皇牛久行在所碑 牛久宿本陣跡 正源寺 宮崎利兵衛商店
街道に戻って芋銭河童碑道道標の先を進んでいくと、左手の旧家・飯島家の門の前に明治天皇牛久行在所碑が建っている。
飯島家は、江戸期には問屋場であり、明治天皇の牛久行幸は、明治17年(1884)に女化原で行われた近衛砲兵大隊による射撃演習を視察するものであった。
街道を進むと左手の上町区民会館第一次避難場所のところに牛久宿本陣跡がある。
牛久宿の本陣は一軒で、代々佐野佐右衛門家が務めていたと言われるが、宝暦8年(1758)、土浦藩主土屋篤直が参勤交代の帰国の際に自ら描いたとされる 「水戸土浦道中絵図」 には、「本陣宮本庄左衛門」 とあることから、佐野家ではなく宮本家が本陣を務めた時期もあったと考えられている。
街道が右に曲がるところの左手に曹洞宗の瑞雲山正源寺がある。正源寺は、文禄元年(1592)、牛久城主由良国繁の発願により七観音八薬師の一つとして創建された。
本尊は釈迦牟尼仏で、交通安全と厄除け祈願の馬頭観世音、火防の秋葉権現を祀っている。
山門は鐘楼門で、両脇に仁王像が祀られ、山門の隣に旧観音堂・弘法堂がある。境内には俳人石龍の墓碑をはじめ、たくさんの石造物がある。
先に進むと慶應4年(1868)創業の看板を掲げた宮崎利兵衛酒店がある。

供養塔 弘法堂 牛久駅
街道を進むと左手の 「地酒のたまや」 の街道を挟んだ向かいに 「日露戦役徴發馬匹観世音供養塔」 が建っている。 直ぐ先で国道6号線に合流して進むと、左手のメガネの久地岡の脇に弘法堂があり、一体の弘法大師像が祀られている。 本日は牛久駅入口で終了し、街道から2~3分ほどのところにあるJR牛久駅に出て帰路についた。

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