江戸時代に入ると、江戸と下総国・常陸国を結ぶ水戸街道が整備された。取手市内には、取手と藤代・宮和田の宿場が置かれた。藤代宿と宮和田宿は、合わせて一つの宿場として機能し、双方を合わせて藤代宿と表記されることもあった。取手は千住から数えて5番目、藤代は6番目の宿場である。取手を出た水戸街道は、吉田から小泉・米田・谷中と相馬二万石の水田地帯を通り、藤代・宮和田宿に至る。
 江戸時代の初めの水戸街道は、布佐(現我孫子市)から布川(現利根町)に船で渡り、北上するルートを取っていたが、寛永年間の新田開発とともにこの道の原形が造られ、元禄年間に街道として確立したと考えられる。
 藤代宿では、延宝6年(1678)に第二代水戸藩主徳川光圀が水戸から江戸に戻る道中に藤代宿に宿泊したと伝わっている。また、天和2年(1682)には、江戸から水戸に向かう光圀が取手を通ったことが記されている史料が残っている。
 藤代宿本陣は、名主の飯田家が代々務めた。その主屋は、昭和30年(1955)に藤代町庁舎建設のために取り壊されているが、この百日紅と玄関前の老松は本陣玄関前に植えられていたもので、往時の様子を偲ばせる。
 (取手市教育委員会)

藤代宿本陣解説




句碑

本陣玄関前にあった老松

本陣玄関前にあった百日紅(さるすべり)

たんぽぽに 照る陽曇る日 陣屋跡 (両坂)