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京街道   (山科追分~伏見


平成30年3月13日(月)   ☀    山科追分~伏見    12.0㎞
京街道は、京都と大阪を結ぶ街道の総称であるが、今回は東海道57次と呼ばれ、東海道の山科追分(髭茶屋追分ともいう)で京都へ行く道と分かれ、大阪へ向かう道を歩くこととした。この道は、慶長20年(1615)大阪城が落城後、徳川幕府が参勤交代の西国諸大名が入洛して朝廷と接触するのを防ぐために整備したもので、大阪と江戸を結ぶ道であった。元和2年(1619)に東海道の延長として道中奉行の管轄下に置かれ、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場が設けられた。

山科追分 地蔵堂 芝町遺跡と御旅所 地蔵堂
東海道と分かれて左に進む道が、東海道57次とも呼ばれる京街道である。
ここには、道標が2基建っており、一つは昭和29年3月再建された追分道標のレプリカで、もう一つは明和3年(1766)に建立された蓮如上人御塚の道標である。
追分から左に入ると、直ぐ左手に地蔵堂があり、二体の地蔵尊が祀られている。
傍らには、頌徳碑が建っている。
地蔵堂の先左手の一本目筋を入ると、巨石が置かれた芝町遺跡と諸羽神社・若宮八幡宮の御旅所がある。
この辺りは、縄文時代・弥生時代・奈良時代にわたる遺跡が発見されたところである。この御旅所の祭祀は、古代信仰の原始的形態といえる磐境
(いわくら)(巨大な石に対する自然崇拝)を中心としたものであるという。
先に進むと、右手の土塀のある旧家の前に地蔵堂があり、三基の石仏が安置されている。

道標・常夜燈 牛尾山道標 地蔵堂 名神高速道路
直ぐ先の右手の家の脇に、大きな常夜燈が建っており、その傍らに二基の道標と小ぶりの常夜燈が建っている。
道標の年代は不明であるが、「船岡山」、「伏見」、「宇治」 などの文字が刻まれている。
先に見える名神高速道路の高架の手前左手筋角に道標が建っている。
この道標は旧東海道筋にもあったが、 「牛尾山道」 と刻まれて、ここから南へ4~5㎞ほどのところにある牛尾山法厳寺を指している。
法厳寺は、牛尾山の中腹にある寺院で創建は不詳であるが、奈良時代の創建と伝わっており、かつては清水寺の奥の院と言われ、通称を牛尾観音と呼ばれている。
牛尾山道標を過ぎると、左手の民家の前に地蔵堂があり、三体の石仏が安置されている。 地蔵堂の先は、名神高速道路の京都東インターチェンジが街道を横切っている。このインターチェンジの開業によって、山科地域は交通の要衝として発展した。
接続する道路は、国道1号線・国道161号線・府道143号線である。

音羽水路起功碑訳文碑 慰霊碑 地蔵堂 牛尾山道標
名神高速道路の高架下をくぐった先の信号十字路を右折すると、左手に音羽水路起功碑訳文碑が建っている。
起功碑は音羽病院の近くにあるようだが、よく分からない。音羽水路は農業用水不足を解消するため、疎水の水を引き込んだものであり、これに尽力した人々を称えるために建立したものである。
街道に戻って進むと、右手の音羽病院の庭に拳の形の慰霊碑が建っている。
碑の前の解説には、次のように記されている。この慰霊碑は、洛和会ヘルスケアシステムの病院・介護施設に入院もしくは入所中に物故された患者様の御霊をお慰めするため建立したものです。
音羽病院前のY字路を左折して、その先で国道1号線を横断地下道で渡って進むと、左手に地蔵堂があり、一体の石仏が安置されている。 地蔵堂の直ぐ先の十字路左角に風化の進んだ道標が建っている。
この道標は、明和3年(1766)のもので、正面に 「清水寺奥之院牛尾山道」 と刻まれている。
前の牛尾山道標でも記したが、牛尾山法巌寺は、かつては清水寺の奥の院と言われていた。

音羽橋 道標 皇塚 妙見宮碑
直ぐ先で、山科川に架かる音羽橋を渡っていく。 音羽橋を渡って進むと、左から回り込んできた国道1号線に突き当たるので、車の往来が激しい国道は大塚地下道で渡る。
国道1号線を渡った直ぐ先の東海道新幹線ガードの手前左手に小さな道標が建っている。
道標には、「ひだりおゝつみち」 「みぎうじみち」 と刻まれている。
東海道新幹線ガードをくぐると、右手の角に皇塚がある。かつてこの地には円墳があり、桓武天皇の墓所という伝承もあり、大塚という地名の由来になったと言われる。
ここには皇塚と刻まれた石碑があり、大塚(王塚・皇塚)の跡を示すものである。
先に進んだ十字路左角に妙見宮碑が建っており、この先を200mほど東に入ると坂道の左手に、日蓮宗の護法山妙見寺がある。
妙見寺の創建年代等は不詳であるが、境内には地蔵堂・吉富稲荷社・弁財天があり、道を挟んだ向かいに南無妙法蓮華経題目碑が建っている。

宝迎寺 旧家 大圓寺 岩屋神社鳥居
更に街道を南下していくと、右手に浄土宗の宝迎寺がある。
宝迎寺の創建年代等は不詳であるが、塀の前に愛宕山常夜燈が建ち、山門は長屋門で左に弘法大師、右に観音菩薩を祀っている。
山門は閉ざされており、境内には入れなかった。
宝迎寺の先には、気抜き屋根の付いた家や、虫篭窓のある立派な旧家があちらこちら建っている。 更に南下し京阪バス山科営業所の手前左手筋を入ると、浄土宗の如一山大圓寺がある。大圓寺の創建年代等は不詳であり、また、山門は閉ざされているため、境内の様子は窺い知ることが出来ない。 街道に戻ると、左手に岩屋神社の大鳥居が建っている。岩屋神社は鳥居の先を東に進んで、名神高速道路を超えた先にあるため参詣しなかったが、祭神は天忍穂耳命と拷幡千々姫命、及び両神の子饒速日命である。
本殿背後の山腹に岩屋殿と呼ばれる陰陽二つの巨岩があり、これを磐座として祀ったのが始まりと言われている。

岩屋神社御旅所 地蔵堂 歓喜光寺 旧道
街道を先に進むと右手に磐神社の御旅所があり、大きなケヤキが一本立っている。 直ぐ先で名神高速道路の高架が横切っているが、その左手に地蔵堂がある。
この近くに大宅一里塚跡があるはずであったが、気が付かずに名神高速道路の高架をくぐってしまった。
名神高速道路の高架をくぐって、直ぐ左手の筋を東へ水路沿いの道を入ると、時宗六条派の紫台山河原院歓喜光寺がある。
歓喜光寺は、もとは京都府下八幡にあり、善導寺と称し、一遍上人の従弟聖戒上人が開いたところである。本堂は、もとの法国寺本堂で、豊臣秀頼の母・淀君が桃山時代に建立したものである。境内には地蔵堂の他、大日如来などたくさんの石仏が安置されている。
街道に戻り右手のローソンの前から右筋に入ると、のどかな一本道が南西に延びている。

愛宕山常夜燈 随心院 クロマツと旅姿碑 勧修寺橋
先に進むと街道の右手筋角に愛宕山常夜燈が建っている。関東から東海地方は、秋葉山常夜燈が多かったが、関西地方では、この愛宕山常夜燈がほとんどである。
いずれも火伏の神であるが、愛宕山は京都市右京区の愛宕山山頂にある愛宕神社から発祥した神道の信仰である。
街道は東西に流れる水路のところで直角に右折するが、直進すると左手に真言宗善通寺派の大本山随心院がある。
随心院は、弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正の開祖であり、古くは牛皮山曼荼羅寺と称した。またここは、六歌仙の一人、小野小町の邸宅跡と伝えられている門跡寺院である。
街道に戻って進むと、水路際に注連縄を巻いた巨木が立っている。 先に進むと山科川に架かる勧修寺橋がある。
山科川は、京都府と滋賀県の境にそびえる音羽山の南寄りの山中に源を発し、山科盆地を南に流れ、下流で宇治川に合流している。
水量はそれほど多くはないが、橋の上から見ても透き通った清流がゆったりと流れている。

道標 西念寺 佐治城碑 勧修寺
勧修寺橋を渡ると、突き当りに愛宕常夜燈,、文化元年(1804)の道標、天保14年(1843)の道標など3基の道標が建っており、道標の後ろには地蔵堂がある。 道標のある突き当りを右に30mほど行くと、右手に浄土真宗大谷派の西念寺がある。
西念寺の創建年代等は不詳であるが、蓮如上人の門弟道徳坊の開基と言われている。
境内には蓮如上人像があり、台座に 「道徳はいくつになるぞ、道徳、念仏申さるべし」 と刻まれた碑がある。
西念寺の道路を挟んだ向かいに佐治城碑(遥拝所)が建っている。
佐治城跡は、滋賀県甲賀郡小佐治の丘陵にあり、佐治城は佐治氏の代々の居城である。安土桃山時代、佐治一族は織田信長、豊臣秀吉の諸国統一に積極的に協力してきたが、天正11年(1583)の甲賀破議で領地没収命令が出され、それに反対し、本城で籠城して秀吉の大軍の前に滅亡した。
街道に戻って道標の左筋を入ると真言宗山階派大本山の勧修寺がある。
勧修寺は、平安中期に醍醐天皇の母・藤原胤子を弔ために、胤子の母の実家である宮道家邸宅を寺に改めたのが始まりという。
境内には、水戸光圀の寄進と言われる燈籠があり、本堂の南には優美な池泉回遊式の庭園が広がっている。

八幡宮 宮道神社 名神高速道路 竹林の道
街道に戻って大きな十字路を右折すると、左手に八幡宮の鳥居があり、その先60~70mのところに八幡宮がある。
八幡宮は、平安時代の仁寿3年(853)の創建といわれ、勧修寺の鎮守として応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祀っている。本殿は元禄8年(1695)の再建で、境内には天満宮・金山彦神・式内社などの境内社や豊臣秀吉遺命により前田玄以が奉納した木造の太閤燈籠がある。
街道に戻ると右手の勧修寺敷地と思われるところに宮道神社がある。
宮道神社は、古代、宇治郡を本拠とした豪族の宮道氏ゆかりの神社で、寛平10年(898)に創建され、宮道氏の祖神である日本武尊・稚武王を祀っている。
境内には、三条右大臣の歌碑、勧修寺門跡筑波常遍歌碑、由緒碑などがある。
宮道神社を過ぎて300mほど進むと、名神高速道路に突き当たり、街道は右を走る名神高速道路に沿って進んでいく。 名神高速道路から離れて左にカーブしていくと、竹林の間を通る道になる。

大岩神社 旧道口 谷口橋 道標
竹林を抜けて前方に集落が見えるところの左手に大岩神社の鳥居が建っている。
大岩神社は、鳥居の先を約1㎞ほど登った大岩山にあり、山頂付近の大岩・小岩を御神体とする神社である。
行くことはできないが、
鳥居の先を100mほど踏み込んでみると、周囲は竹林が生い茂る静かな山道である。
大岩神社鳥居の直ぐ先の京都ピアノ技術専門学校のところから、右に入る旧道がある。 旧道に入って程なく七瀬川に架かる小さな谷口橋がある。
七瀬川は、大岩神社のある大岩山西麓に源を発し、西に流れて深草地区を横断して、伏見区竹田地区で東高瀬川に合流している。
この旧道は深草谷口町交差点で、再び元の府道35号線に合流している。
府道35号線に合流する手前で右から回り込んできた七瀬川を渡るが、その左手川沿いに道標が建っている。
道標には、 「霊場深草毘沙門天是より半丁」 などとと刻まれ、直ぐ北に位置する浄蓮華院を指している。

道標 浄蓮華院 旧道口 地蔵堂
浄蓮華院への道標の向かい側に位置する七瀬川添い(街道右側)に道標が建っている。
道標には、「仁明天皇御陵」 「宇多天皇皇后御陵」 と刻まれおり、ここから100mほど北にある仁明天皇陵と宇多天皇皇后陵を指している。
道標から50mほど北に入ったところに、天台宗の浄蓮華院がある。
浄蓮華院は、文政4年(1821)有栖川韻仁(つなひと)親王の命により、比叡山延暦寺の僧尭覚が第50代桓武天皇菩提のために建立した。
境内後方に谷口古墳があり、縄文時代後期の遺跡で、土器などが発掘されている。堂宇はいたってシンプルで、戦後に建てられた本堂があるのみである。
街道に戻って府道35号線に出ると、直ぐ左手の七瀬川を渡ったところから旧道の坂道が南へ延びている。 坂道を登って間もなく、左手筋角に地蔵堂があり、一体の地蔵尊が祀られている。
更に坂道を進むとJR奈良線に突き当たるまでの間に3つの地蔵堂がある。

JR藤森駅 西福寺 藤森神社 墨染橋
坂道を登り切ってJR奈良線の跨線橋を渡ると、その先の十字路左手がJR藤森駅である。
街道は、この十字路を右折して、ここから坂道を下っていく。
十字路を右折すると、すぐ右手に浄土宗の如意山西福寺がある
西福寺は、南北朝時代(1336-92)に、北朝初代の光厳天皇が念仏堂として創建したと伝えられ、光厳院と称した。
その後、文禄年間(1592-95)に豊臣秀吉が伏見築城に際して現在地に移転し、西福寺と改称した。境内には、歌人・田中常憲歌碑のほか、大仏知恩院道標などがある。
街道に戻って京都教育大学前を過ぎると、右手に藤森神社がある。
藤森神社は、神功皇后摂政3年(203)、神功皇后が山城国深草の藤森に軍旗を立て、兵具を納め、塚を造って祭祀を行ったのが始まりと伝えられている。境内には、御旗塚、神鎧像のほか、八幡宮・祖霊社・大将軍社・天満宮・稲荷社などの境内社がある。
街道に戻って先に進み、突き当りの信号T字路を左折して次の十字路を右折すると、京阪本線を超えたところに、疎水に架かる墨染橋がある。

墨染寺 地蔵堂 撞木町廓入口 地蔵堂
墨染橋で疎水を超えると、左手に日蓮宗の深草山墨染寺がある。
墨染寺は、もとは清和天皇の貞観16年(874)に建立されたもので、その後、衰微していったが、天正年間(1573-91)増長院日秀上人が豊臣秀吉の知遇を得たことなどにより、日蓮宗の寺院として再興することを許され、墨染桜寺として再興させた。
境内には、墨染の地名の由来となった墨染桜が植えられている。
墨染寺の先の信号交差点を左折して進むと、右手の民家脇に地蔵堂があり、一体の地蔵尊が祀られている。 地蔵堂の先の右手筋に撞木町廓入口碑が建っている。この筋を入ると右手に大石良雄遊興之地よろづや碑・撞木町廓之碑があり、突き当たりに地蔵堂がある。
ここは江戸時代に芝居小屋・土産物屋・下級遊郭が軒を並べていた。町名の撞木町(しゅもくちょう)は、かつて恵比須町と呼ばれたが、町の形がT字形をしており、鐘を撞く木づちの撞木に似ていたことから、通称として撞木町と呼ばれた。
撞木町廓入口の先で国道24号線を横断し、その先の十字路を右折して行くと、T字路突き当りの民家脇に地蔵堂がある。

近鉄京都線 勝念寺 本成寺 旧家
地蔵堂の直ぐ先で近鉄京都線の高架下をくぐっていく。
この先は直線の両替町通と呼ばれる道で、丹波橋通と交差するまでの間に3つほど地蔵堂がある。
丹波橋通に突き当たったところで、ここを右折すると左手に浄土宗の安養山勝念寺がある。勝念寺は、織田信長が深く帰依した貞安上人によって天正15年(1587)に開創された。門前には、天明義民柴屋伊兵衛墓所碑があるが、その墓はなく、両親や祖先の墓がある。
境内には地蔵堂があり、釜敷地蔵尊が安置されている。
勝念寺の道路を挟んだ向かいに、法華宗大本山本能寺の末寺である妙栄山本成寺がある。
本成寺は、天正10年(1582)の本能寺の変の後、同寺の再建に尽力した本能寺中興日逕(にちきょう)聖人によって、慶長2年(1597)に創建された。境内には、小野篁作の痰切り地蔵尊が安置された地藏堂、妙栄水と名付けられた湧水がある。
本成寺の斜向かいから3軒ほど旧家が並んでおり、虫篭窓の付いた家屋は明治長㈱というようだが、詳細は不明である。

玄忠寺 道標 薩摩藩邸跡 大黒寺
旧家の先の十字路を左折して、右手に京都市立伏見板橋小学校を見て進むと、左手に浄土宗の赤壁山玄忠寺がある。
玄忠寺は、寛永年間(1624-44)、当誉空心の開山であり、宝暦3年(1753)に伏見区鍛冶屋町より現在地に移転している。境内には、伏見義民小林勘次碑、地蔵堂があり、墓所には夏目漱石の小説 「坊ちゃん」 に登場する 「赤シャツ」 のモデルとされる西川忠太郎の墓がある。
街道は、玄忠寺の先の十字路を右折し、その先の右手にある京都市伏見児童館の前を左折していくが、この伏見児童館の前に弘化4年(1847)の道標が建っている。
道標には、「東 左りふねのり場」 「南 右京大津みち」 と刻まれている。
街道は、伏見児童館の向かいの筋を入っていくが、このまま伏見児童館前を直進すると、疎水に架かる下板橋を渡った突き当りに薩摩藩邸跡がある。
ここには1基の標柱が建っており、「江戸時代薩摩島津伏見屋敷跡」 などと刻まれている。
街道に戻って伏見児童館の前の筋を進むと、右手に真言宗東寺派の円通山大黒寺がある。
大黒寺は、もとは長福寺と称したが、豊臣秀吉が深くこの寺を信奉したのをはじめ、武家の信仰が篤く、元和元年(1615)伏見奉行山口駿河守は、薩摩藩主島津家久の命を受けて、この寺を武運長久の祈願所に定め、寺名を大黒寺と改めた。
境内には、有馬新七ら寺田屋殉難九烈士の墓碑などがある。

金札宮 大手筋通 東本願寺伏見別院 西岸寺
大黒寺の斜向かいに金札宮がある。
金札宮は、創建年代は不詳であるが、伏見で最も古い神社の一つであり、観阿弥作の謡曲 「金札」 の題材にもなっており、白菊明神とも呼ばれた。
境内には、公岡稲荷大明神、白滝・白姫大明神、恵比須社、金比羅社などの境内社がある。
左手に伏見区役所を見てどんどん進むと、前方に円盤のような構築物が見える。
円盤側面には、SOLOR MOONと記されており、上部にソーラーパネルが設置されている。
この下の東西の通りは、大手筋通アーケードの商店街である。
アーケードの大手筋通を横切って、その先の十字路を街道は右折するが、左折すると突き当り左手に東本願寺伏見別院がある。
伏見別院は、本願寺12世教如上人が、慶長年間(1596-1614)に徳川家康より寺地を与えられ、援助を受けて建立した。境内は幼稚園のため中に入れないが、山門脇に会津藩駐屯地跡碑が建っており、鳥羽・伏見の戦いの際には、この寺に会津藩が宿泊していた。
街道に戻って十字路を右折すると、右手に浄土宗の油懸山地蔵院西岸寺がある。
西岸寺は、天正18年(1590)雲海上人によって創建された。地蔵堂には油懸地蔵と呼ばれる石造地蔵尊が安置され、この地蔵尊に油をかけて祈願すれば願いが叶うと云われている。
境内には、文化2年(1805)に建立された芭蕉句碑「我衣に ふしみの桃の しづくせよ」 がある。

寺田屋 伏見口の戦い激戦地跡 京橋 伏見みなと公園
西岸寺の直ぐ先の十字路を左折し、京橋の手前の筋を左に入ると、船宿の寺田屋がある。
寺田屋は、大阪と京都の間の通船 「三十石船」 の京側の発着地の一つ南浜に 「寺田屋浜」という船着場を持つ大きな船宿であった。
文久2年(1862)の寺田屋事件はあまりにも有名で、現在、屋内は旅館として改造されているが、当時の状況を第14代寺田屋伊助の考証により復元されている。
街道に戻って進むと、京橋北詰めに伏見口の戦い激戦地跡がある
幕末の慶應4年(1868)1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、海津藩の先鋒隊約200名が大阪から船で伏見京橋に上洛し、ここ伏見御堂を宿陣として戦った。伏見奉行所を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、この辺りの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けた。
橋下の流れは宇治川に注ぎ、下流で淀川に流れ込んでいる。
淀川の水運は、古くは東海道・北陸とも連絡する交通上の大動脈であったが、慶長年間(1596-1615)、角倉了以が京都市中と伏見との間に高瀬川を開削するに及んで、この付近は旅人や貨物を輸送する船着場として大いに栄えた。橋下にかつて賑わいを見せた船着場が復元されている。
京橋の南詰左手に伏見みなと公園入口の冠木門があり、橋下に見えた船着場の脇に龍馬とお龍の像が建っている。

伏見長州藩邸跡 京阪電鉄中書島駅
伏見みなと公園入口の斜向かいに、伏見長州藩邸跡がある。元禄12年(1699)以降に藩邸が、この辺りに移転してきたと云われる。幕末の元治元年(1864)7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵とともに 「禁門の変」 を起こす。しかし、福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立てこもるが、彦根藩等の連合軍による砲撃を受け、伏見長州藩邸は焼け落ちてしまった。 今回はこの辺りで終了し、最寄りの京阪電鉄中書島から帰路につく。
この辺りは、伏見城時代、脇坂中務少輔安治の邸宅があったと云われ、脇坂氏の官職名 「中務」 が中国風には 「中書」 と呼ばれていたので、その名から島名が付けられた。伏見廃城後は、芦萩が生い茂る島となっていたが、元禄時代、時の伏見奉行であった建部匠頭政宇が再開発して、伏見の繁栄をもたらした。

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