安永8年(1779)伏見奉行に小堀政方が着任し、その後、地位を利用して暴政を振る舞うに至り、そのため伏見の人々を窮地の底に陥れる結果となりました。こうした人々の苦難を救おうと焼塩屋権兵衛は他の年寄文殊九助ら総勢七名と共に立ち上がり、江戸幕府に命懸けの直訴に及び、ついに奉行を罷免させる本懐をとげた。
しかし、焼塩屋権兵衛は、再吟味による尋問に遭い、天明7年(1788)獄中で病臥し非業の最後を遂げました。
義民焼塩屋権兵衛之碑
稲荷社
天満宮
祖霊社
永享10年(1438)建立の大将軍社
永享10年(1438)建立の八幡宮
神鎧像
正徳元年(1711)の鳥居
手水舎
長く延びる参道
かつては後水尾天皇御宸筆の扁額が掛っていた
御旗塚
蒙古塚
5月5日に斎行される藤森祭は、菖蒲の節句発祥の祭りとして知られ、節句に飾る武者人形には神が宿ると言われており、その象徴として建立された。
神功皇后が纛旗(とうき)(軍中の大旗)を立てた所で、当社発祥の場所である。このいちいの木は、「いちのきさん」 として親しまれ、ここに参拝すると腰痛が治るといわれ、幕末の近藤勇も参拝したと伝えられている。
昔は七つの塚があり、七ッ塚ともいわれ、蒙古の将兵と戦利品を納めた。
神門
拝殿
幣殿奥の藤森神社本殿