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甲州街道   (日本橋~府中)

日本橋から府中までは、内藤新宿、下高井戸宿、上高井戸宿、国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿、府中宿とあり、約30kmの道程である。

平成25年1月13日(日)☀  日本橋~桜上水  15.3㎞
天気が良くて1月にしては、暖かな日よりだった。出発するには遅いが、日本橋を11時30分に出発した。靴が合わないせいか4時間ほど歩いて足に豆が出来てしまい残念だが、桜上水でリタイアした。

日本橋 和田倉門跡 半蔵門 四谷見附
日本橋 和田倉門跡 半蔵門 四谷見附
改めて日本橋を見てみると橋の上には高速道路が橋全体を覆い隠して空が見えず、圧迫感がある。当時は、木の橋で大きな空が望めたのであろう。現在の橋は明治44年に架けられたそうである。橋の中央には、日本道路元標が埋め込まれている。見に行くことはできないが、レプリカが橋のたもとに設置されている。 日本橋から歩き始めて15分程で木製の橋の架かる和田倉門前へ、そこから馬場先門、桜田門を経て半蔵門へ出る。 皇居の西端に位置し、正面は甲州街道がまっすぐ新宿まで続いている。
大手門とは正反対の位置にある。
名前の由来となった服部半蔵の墓は四谷の西念寺にある。
見附とは枡形を有する城門で外側に面する部分をいう。敵の侵入を発見する施設のため見附と呼ばれた。四谷見附で残っているのは、四隅の一か所の石垣だけである。
この他、赤坂見附、日比谷見附、牛込見附、市谷見附など外堀沿いに36箇所の見附があったという。

お岩稲荷 笹寺 四谷大木戸門跡 四谷大木戸跡
お岩稲荷 笹寺(長善寺) 四谷大木戸門跡碑 四谷大木戸跡
四谷三丁目を左折して四谷警察署の先のローソンを左折すると赤い旗の立つお岩稲荷がある。本来は田宮稲荷神社といい、四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内にあった神社であり、初代田宮又左衛門の娘お岩が信仰し、養子伊左衛門とともに家勢を再興したことから次第に人々の信仰を集めたといわれる 街道に戻って進むと四谷四丁目東信号の左手筋奥に曹洞宗の四谷山長善寺がある。長善寺は武田信玄の家臣であった高坂昌信が建てた庵が起源と言われる。別名笹寺と言われ、2代将軍徳川秀忠が鷹狩の折に一面に笹が茂っている草庵を見て 「笹寺」 と命名したといわれている。境内には石仏や初代横綱の明石志賀之助が寛永元年(1624年)に境内で6日間の勧進相撲を行った記念碑がある。 先に進むとY字路中央に四谷大木戸碑が建っている。この碑は、昭和34年11月地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して造られた記念碑である。実際の大木戸の位置は、ここより約80メートル東の四谷四丁目交差点のところで、東京都指定旧跡に指定されている。 四谷四丁目交差点に六地蔵尊が刻まれた石碑が残っている。

水道碑記 新宿追分 玉川上水モニュメント ほうき銀杏
水道碑記 新宿追分 玉川上水モニュメント ほうき銀杏
四谷大木戸門跡碑の近くに水道記念碑が建っている。これは玉川上水開削の由来を記した記念碑で、高さ460㎝、幅230㎝であり、上部の漢字は徳川家達、撰文は肝付兼武、書は金井之恭、刻字は井亀泉によるもので、表面に780字、裏面に130字が陰刻されている。碑の表面には明治18年の年記が刻まれているが、建立計画中に発起人西座真治が死亡したため、一時中断し、真治の妻の努力により、明治28年に完成した。 先に進むと新宿三丁目交差点に追分碑が建っている。追分とは、もともとは 「牛を追い、分ける場所」 を意味したが、そこから街道の分岐点を意味するようになり、新宿追分は甲州街道と青梅街道の分岐である。(伊勢丹前交差点)
全国には追分と呼ばれる場所は多数あるが、主なものには、本郷追分(中山道と岩槻街道)、信濃追分(中山道と北国街道)、日永追分(東海道と伊勢街道)、草津追分(東海道と中山道)などがある。
文化服飾学院前には、かつての甲州街道沿いに玉川上水が流れていたことを伝えるモニュメントがある。
アーチ状の造形は、明治時代に新宿駅構内の地下に設けられていた玉川上水の煉瓦造りの暗渠を原寸大で再現したものである。玉川上水は、江戸市中への飲料水の供給のほか、武蔵野台地の各地に分水され、飲料水、灌漑用水、水車の動力等に幅広く利用されていた。
文化学園大学のすぐ隣のビルの一角に大きな銀杏の木が立っている。
少し離れたところから見ると箒を逆さに立てたように見えることから、箒銀杏と呼ばれている。
樹齢は約200年と推定され、近くを流れていた玉川上水によって育てられてきたと考えられている。
根元には、天満宮の小さな祠がある。

平成25年2月10日(日)☀  桜上水~府中   15.3㎞
前回の続きを歩くため京王線桜上水駅(9時35分)で降りて、いざ出発。出たところにバス停があり、一里塚と書かれていた。近くには高井戸宿の名の由来になったという宗源寺など寺がいくつかある。

永昌寺 栖岸院 玉川上水永泉寺緑地 覚蔵寺
永昌寺 栖岸院 玉川上水永泉寺緑地 覚蔵寺
洞宗天長山永昌寺といい、本尊は釈迦如来坐像である。
開創年代は、はっきりしないが寺伝によると寛永元年(1624)4月四谷塩町三丁目に建立したとされている。
門前には4基の庚申塔と地蔵塔がある。
村高山と号する浄土宗の寺で本寺は京都の知恩院である。
元和7年(1621)老中安藤重信が葬られ、以来同家の菩提寺となった。
栖岸院の寺名は、安藤重信の法名に由来すると考えられている。
江戸時代には、住職が単独で将軍に拝謁できる 「独札の寺格」 を許されている。
甲州街道脇には、玉川上水跡地を利用した遊歩道が整備されている。
京王線桜上水駅近くに建つお寺で、日蓮上人の直刻と言われている鬼子母神像が安置されていることで有名である。
このことは、「江戸名所図会」 にも記載されているもので、文永8年(1271)、聖人が滝の口法難にあわれる前、一老女からごまのぼた餅を供養され、そのお礼として手渡したものであると言われている。

宗源寺 長泉寺 一里塚 大橋場の跡
宗源寺 長泉寺 一里塚跡 大橋場の跡
覚蔵寺のすぐ隣にある日蓮宗の寺院である。
南北朝時代の板碑や寺宝の滝沢求馬筆の涅槃像がある。
境内にある不動堂は、もともと宿の入り口にあった高井山本覚院、通称高井堂のものだったが、明治44年(1911)に本覚院が宗源寺に合併されて、不動堂をここに移した。
この 「高井堂」 が、高井戸宿の由来になったという説がある。
曹洞宗の寺院であり、本尊は大日如来座像で、享保13年(1728)建立の観音堂があり、上高井戸宿の本陣武蔵屋代々の墓がある。
この地蔵は身代わり地蔵尊・出世地蔵尊とも呼ばれた。
墓の脇には、写真のような無数の菩薩像が安置されている。
道路標示で日本橋から16キロの地点に建っている。
この街道を利用した諸大名は、信州高嶋藩、信州高遠藩、信州飯田藩の三藩であった。また甲府には、江戸幕府の甲府勤番がおり、幕府諸役人の往来もあった。
この場所の前方、高速道路下に一里塚があった。塚は5間(約9メートル)四方、高さ1丈(約3メートル)を基準として土を盛り上げて築き、榎が植えてあった。
上高井戸一丁目交差点から国道20号線を左折して旧道に入り、間もなく大橋場の跡が現れる。「武州千歳村大橋場跡」 と記された親柱がある。脇には地頭名主の下山家が建立した下山地蔵尊がある。
この地蔵は身代わり地蔵尊・出世地蔵尊とも呼ばれた。
お地蔵様の隣には庚申塔などの石塔が建っている。

旧甲州街道の道筋 仙川 昌翁寺 昌翁寺の石像
旧甲州街道の道筋 仙川 昌翁寺 昌翁寺の石像
道路脇に世田谷区が設けた案内板があり、そこには次のように記載されている。
「南烏山から給田へと続くこの道は、かつての甲州街道である。昔の街道筋を偲ばせる風景はほとんど残っていないが、この道そのものが街道であったことを忘れる訳にはいかない。道の由来を知れば、その時代、時代の風景も脳裏に浮かべることが出来る。」
旧甲州街道と仙川に架かる大川橋から仙川下流方向を望む。
仙川は、現在の三鷹市新川丸池公園にかつて丸池という湧水池があった。たくさん水が湧いていたことから千釜と呼ばれていた。この千釜という言葉が仙川の由来と言われている。このほか、流域に仙人が住んでいた伝説からという説もある。
仙川領主の飯高主水貞政が、開創し菩提寺とした。
貞政は、元今川義元の家臣であったが、徳川家康が江戸入国の時召されて随身、徳川家旗本として禄高170石を賜り、破損奉行に任ぜられた。
明治12年3月の火災で類焼。本堂は大正13年に再建された。
昌翁寺の門前には、元禄時代の庚申等2基と宝暦の廻国塔が安置されている。

仙川一里塚 瀧坂旧道の碑 旧道と薬師如来像 金子のイチョウ
仙川一里塚 瀧坂旧道の碑 旧道と薬師如来像 金子のイチョウ
仙川駅東交差点の先のコンビニエンスストアの前に甲州街道5番目の一里塚碑が建っている。この塚は、徳川家康が天下を平定してから主要街道に一里塚の制度ができ、慶長7年(1602)江戸・甲府間に甲州街道が完成した後に築かれたものである。この手前の一里塚は上北沢で、次が小島一里塚となる。
地元の人は、今でもこの辺りを 「塚」 と呼んでいるそうである。
瀧坂旧道の碑の側面には、馬宿川口屋と書かれている。ここには 「川口屋」 という馬宿の建物が保存されており、入り口にこの碑が建っている。
坂を下ると左側に薬師如来像が建っており、間もなく甲州街道に出る。瀧坂道は、甲州街道が開かれる前の江戸と武蔵国府(府中)を結ぶ主要道だった。
僅かに旧道の面影を残す坂道の脇には薬師如来像と首のない地蔵尊が建っている。 瀧坂下の信号の先右側に大きな銀杏が立っている。
稲荷神社の銀杏で目通り4メートルと2メートルの一対で、太いほうが雄木、細いほうが雌木で実をつける。
古くから親しまれた甲州街道沿いの金子村の名を、この地で育ったイチョウの巨木に託して 「金子のイチョウ」 と名付けた。

地蔵菩薩立像 野川 圓福寺の六地蔵 小橋馬頭観音塔
地蔵菩薩立像 野川 圓福寺の六地蔵 小橋馬頭観音塔
甲州街道と上ノ原通りの交差点にある交番に近いところに建っている。
これは妙円地蔵と言われ、妙円尼は、俗名を熊といい、武蔵国多摩郡酒井村の六右衛門の長女として生まれ、若くして金子村の新助に嫁いだが、恵まれない境遇のうえ、失明してしまい、出家して寿量妙円と名乗った。以後、村人のために路傍で鉦をたたいては念仏を唱え、集まった浄財でこの地蔵菩薩像を作った。
野川に架かる馬橋から下流を望む。
野川は、東京都を流れる多摩川水系多摩川支流の一級河川である。
圓福寺は、浄土真宗本願寺派寺院である。創建年代は不詳であるが、北条泰時の舎弟開壽丸が開山となり鎌倉の切通に創建、武田信玄が中興したと伝えられている。境内には六地蔵尊が安置されている。
寺の前には、軒下から所狭しと鉢植えの置かれた花屋さんがある。
旧甲州街道と三鷹通の交差点にある成田山長楽院の境内にある馬頭観音塔。
この馬頭観音塔は、甲州街道の小橋(現馬橋から西50m)の「すてば」(馬などの埋葬地)にあったものを甲州街道の拡幅で現在地に安置されたものである。
馬頭観音の像を彫った供養塔は、市内でも珍しく、また商人を含む多数の村民が造立した貴重な像塔である。

運慶寺の赤門 常演寺 布多天神社
蓮慶寺 運慶寺の赤門 常演寺 石像
日蓮宗池上本願寺の末寺で3代将軍徳川家光からご朱印地を下賜され、以降歴代将軍家の菩提を回向する御朱印寺として、赤門設立と住職の乗駕がゆるされてきた。
歴代将軍葵紋付き位牌と香炉を現存し、法灯現住職第49代を経てきた。山門には金の葵の紋が付いている。
運慶寺境内には、冠木門部分だけが残る四脚門の赤門が保存されている。 常演寺は天台宗の寺院であり、神向山花光院と号する。
寺の創建年代は不詳であるが、良賢が延宝7年(1679)に中興したといわれている。多摩川三十四か所観音霊場17番の碑が建っており、その傍らには大きな常夜灯が建っている
常演寺境内には、元禄と刻まれた三体の菩薩像が安置されている。

金山彦神社 源正禅寺 源正禅寺の六地蔵 近藤勇像
金山彦神社 源正禅寺 源正禅寺の六地蔵 近藤勇像
民家の脇を通って行くと江戸初期(1600)に刀鍛冶を生業としていた集団が祀られた祠が建っている。 臨済宗建長寺派の寺院で多摩川三十四か所観音霊場32番となっている。 源正寺の街道沿いに六地蔵が安置されており、その傍らには、いくつかの石仏が安置され、祠の脇には天明3年(1783)と刻まれた石碑が建っている。 天台宗の長谷寺西光寺の山門前に大きな常夜灯と近藤勇の座像がある。
山門を入って左に石地蔵があり、山門奥に調布で一番古い仁王門が建っている。
西光寺には、市重宝の観音三十三身像、大日如来像などが安置されている。

観音院 神明社 庚申塔 染谷不動尊
観音院 神明社 庚申塔 染屋不動尊
車返団地入口の交差点脇に観音院がある。山門の脇には沢山の石像が建っている。観音院は、寛永8年(1631)に大寺第54世良明法印の法弟良雲和尚によって開山された。
開山当時は、徳川幕府の足固めとして、諸国大名の参勤交代が行われたが、この際に必ず参詣されたと言い伝えられている。
観音院の隣には、弘長年間(1261-63)に建てられたという神明社がある。
境内には江戸時代の狛犬と石の小祠、石灯籠が建っている。
先に進むと西部多摩川線の踏切の傍に風化が進んだ庚申塔が建っている。
この踏切のすぐ近くが白糸台の駅である。
西部多摩川線を越えて先に進むと、左手に染屋不動尊がある。本尊の 「金銅阿弥陀如来像」 は国指定重要文化財になっている。新田義貞が鎌倉攻めの時に陣中の守護神とした。
境内には、銅板がはめ込まれた 「下染屋」 の石碑が建っている。この辺りの集落の名前で、調布で織った布を染めていたことが由来しているという。

上染谷八幡神社 常久の碑 常久八幡神社 八幡宿の碑
上染屋八幡神社 常久の碑 常久八幡神社 八幡宿の碑
祭神は、品陀和気命(ほむだわけのみこと)で、正慶2年(1333)上野国碓氷郡八幡庄から武蔵国府に遷座したと説明がある。旧街道からは、かなり奥まったところに建っている。境内には、文字がよく読めないが、上染屋村と彫られた石柱が残っている
新小金井街道の少し手前の常久町会公会堂の前に銅板がはめ込まれた 「常久」 の石碑が建っている。
常久の地名の由来は、人名によるようで、古くは常久(恒久あるいは経久とも) という人を名主とする名田であったようであるとの説明がある。
常久の碑の隣に常久八幡神社がある。参道入り口から拝殿までは比較的長く、上染屋八幡神社と同じく、品陀和気命(ほむだわけのみこと)が祭神である。
神社はもと多摩川沿いの柳原の旧常久の地に鎮座していたが洪水によって現在の地に移ったようである。
府中市八幡町第2公園の入り口に 「八幡宿」 の碑が建っている。
八幡宿は、国府八幡宮の周囲に発達した村落だが、甲州街道が開設されたのに伴って街道筋に移動したものであり、宿場町のような村名であるが、八幡宿は農業を中心とした村落であったと説明がある。

武蔵国府八幡宮 大國魂神社 問屋場跡 高札場
武蔵国府八幡宮 大國魂神社 問屋場跡 高札場
参道入口から拝殿までは非常に長く、二つ目の鳥居の前には京王競馬場線が横切っている。
この時は、ちょうど電車が来るところで遮断機が閉まり始めたので、暫く待ってから立ち寄ってみた。
この社は、大國魂神社の末社で境内には、杉の老木が保存樹木として残っている。
街道に戻って先に進むと、左手に大国魂神社がある。大国魂神社は、武蔵総社で本殿は寛文7年(1667)に建立された。いつも多くの参拝者が訪れている。境内に宝物殿があり、木造狛犬一対は鎌倉期の運慶作で都指定の文化財となっている。神社の近くには、源義家の像や明治天皇府中行在所の碑が建っている。また神社の隣には、国史跡の武蔵国府跡も保存されている。 府中市役所前の交差点に問屋場跡の中久本店が建っている。
甲州街道と鎌倉街道が鍵の手に交わるところに高札場があったころから、この界隈を 「札の辻」、 「鍵屋の辻」 と呼んでいた。安政6年(1859)の府中宿本町の大火を機に蔓延2年(1861)に中久本屋の店蔵を防火建築物として再建したもの。
問屋場跡の向いに高札場跡がある。この高札場は、府中市において甲州街道と鎌倉街道の交差する所、大國魂神社御旅所の柵内にあり、屋根を有する札懸けで、これに6枚ぐらいの高札が掛けられていた。
高札場の前には、甲州街道の石碑と府中小唄の石碑が建っている。

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