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甲州街道    (府中~高尾)

府中から高尾(駅)までは、日野宿、横山宿とあり、約21kmの道程である。

平成25年2月27日(日)☀   府中~八王子  14.7㎞
前回と同じくらいの距離を設定し、10時30分から歩き始めた。

番場宿の碑 番場屋 高安寺 弁慶坂
番場町は府中三ヵ町の1つの番場宿であり、脇本陣があった。 多摩郡府中領のうちで、幕府領。 古くは旧家矢嶋家の先祖茂右衛門の名を冠し、茂右衛門宿と称していた。
その後、寛永13年(1636)から番場宿となったとされる。 幕末の村高は1,010石ほど。松村忠四郎支配所、寺領25石余。
甲州街道府中宿の古い旅籠を思わせる造作の、1970年頃創業の割烹である。
店内には、水車、鬼瓦、囲炉裏、その他古めかしい骨董品ぽい物がたくさん有るという。
曹洞宗の寺院である。
開基は室町幕府初代将軍足利尊氏であり、室町幕府によって武蔵国安国寺として位置づけられていた。なお、江戸時代初期までは臨済宗の寺院であった。
境内には、時刻を定めて撞いている 「時の鐘」、弁慶硯の井戸、武蔵国府中領の最初の代官となった高林吉利の墓などがある。
説明碑には、『江戸名所図会』(江戸時代の地誌)に, 「甲州街道に架する所の橋をも弁慶橋と号(なづ)け, 東の坂を弁慶坂と呼べり」 と記載されている。
この坂は, 高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来する。 これは, 高安寺の堂のうしろにある古井戸から弁慶がこの井戸の水を汲んで硯の水とし, 大般若経を書写したと伝えられるものである。

棒屋の坂の碑 寛政の常夜灯 常夜灯 谷保天満宮
坂名の由来は、坂を下りきった所の家が通称 「棒屋」 と呼ばれたためといわれている。
甲州街道は、江戸幕府にとっては軍事的・経済的に重要な街道であった、府中にとっても一宿場として往古の繁栄を取り戻す役割を果たした道である。
甲州街道は往古水田地帯を通過していた。その古街道が廃され、現在の街道と家並みが出来たのは、17世紀半ばで慶安から寛文の頃であった。
しかし台地は水に乏しく人々は度重なる火災に苦しんだという。ついに本宿村では 「講」 を作り遠江の秋葉神社で 「火伏せ」 の祈祷をなし、寛政4年(1792)この地に常夜灯を設けたと説明書きがある。
府中市片町2丁目のオートバックスの反対側の塀に張り付くように建っている常夜灯がある。 学問の神様:菅原道真が大宰府に配流されてまもなく、三男の道武は谷保の地に配流された。 その後、道真の死を受けて、道武は道真の木像を今の府中市の辺りにまつったことが谷保天満宮の創始になる。「谷保」 の呼び方は、江戸時代に谷保の天神様について皮肉って詠まれた歌の 「やぼな天神」の箇所が示しているように、本来は「やぼ」が正しい。境内には、チャボが放し飼いにされ、拝殿前には、天神様のお使いの牛の石像がある。

元上谷保村の常夜灯 谷保山南養寺 元青柳村の常夜灯 日野の渡し場の碑
この常夜灯は、市内に残る三つの常夜灯のうちの一つで、塔身には 「秋葉大権現」、寛政六甲寅年四月上谷保村」、「天満宮」、「榛名大権現」 と彫られている。
大正時代までは、村人が順番で毎日夕方、灯りを点していたという。
谷保山南養寺は、臨済宗建長寺派の禅寺。同じ建長寺派である立川普済寺の末寺である。南北朝時代の正平2年(1347)、立川・国立一帯の有力武士であった立川入道宗成(むねしげ)が大檀那となり、鎌倉の建長寺から禅師・物外可什(ぶつがいかじゅう)和尚を招いて開山したと伝えられている。
本尊は釈迦如来が安置されている。
この常夜灯には、東側に 「榛名大権現」、北側に 「正一位稲荷大明神」、西側に 「秋葉大権現」、南側に 「寛政十一年九月施主村中」と彫られていることから、西暦1799年に青柳村の人々が建てたことがわかる。
昭和初期頃までは、村の人々が毎晩当番でローソクを一本ずつ点す習慣があったという。

日野の渡しは甲州道中の幕府公認の渡し場で貞享年間(1684-87)に現在の場所に落ち着いた。大正15年の日野橋の完成で満願寺の渡しと共に廃止されている。
この他、多摩川にあった渡し場は、江戸期以前にあった 「柴崎の渡し」、日野の渡しの前にあった 「萬願寺の渡し」
甲州街道初期の渡し場といわれている 「石田の渡し」 などがある。脇には、句碑と標柱がある。

立日橋 明治期の蔵 日野宿本陣 馬頭観音像
多摩川に架かる立日橋。
橋の上にはモノレールが走っている。この日は天気が良く、富士山を望むことができた。
立川市民の森スポーツ公園を過ぎて、川崎街道に入るまでの間に明治期の石の蔵が残っている。
これは 「有山家」 で当時は、この他に 「中嶋家(屋号「嶋屋」)」、古谷家(屋号「油屋」)、土方家(「土屋」) などが連なっていた。
日野宿本陣であった旧佐藤家邸宅である。現在の建物は、嘉永2年(1849)の大火の後、佐藤彦五郎が10年の歳月をかけて再建したものであると伝えられており、東京都内で唯一の本陣建築の建物だということである。
土方歳三が昼寝をしたと言われる部屋などがあり、公開している。
国道20号線を脇にそれた旧街道に馬頭観音をはじめとした石碑がいくつか並んで安置されている。

大和田橋と浅川 竹の鼻一里塚 永福神社
橋の袂の説明板には、「昭和20年(1945)8月2日未明、米空軍B29戦闘爆撃機180機の空襲により、2450名が死傷、市街の80%が消失する被害を受けました。2時間あまりの間に1600トン(推定24万発)もの焼夷弾が八王子旧市街に投下されたのです。このとき多くの市民が大和田橋の下に逃げ込み焼夷弾の攻撃から尊い命を守ることができました。橋(歩道)には焼夷弾の跡が17箇所残っている。」 と記載されている。 大和田橋を渡ると現在の甲州街道から少し北寄りに離れた竹の花公園内に日本橋から12番目の一里塚跡碑が建っている。
竹ノ花公園に隣接する永福神社は、八王子市新町の鎮守で、御祭神は倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)である。
神社の境内には、「蝶の飛ぶばかり野中の日影かな」 と彫られた芭蕉の句碑や庚申塔がある。

平成25年3月2日(土)☀   八王子~高尾   8.2㎞
今回は、距離調整のため歩く距離が8㎞程度なのでゆっくり家を出て、八王子駅を10時ちょうどに出発した。

八日市宿跡の碑 時宗念仏院 天満神社 千人同心屋敷跡記念碑
八王子は甲州道中の宿場町として、また地域経済の中心都市として発展した。中でも八日市宿は横山宿と並び本陣と脇本陣が置かれ、山上家や新野家が本陣役を勤めるなど、八王子の中心的な役割を担っていた。
四のつく日は横山宿、八のつく日は八日市宿で市が立ち多くの人々で賑わった。

上野町念佛院の鐘は元禄十二年七月、八日市宿の名主、新野与五右エ門の発願により千人同心や近郷近在の村の人々の寄進で鋳物師、推名伊予の手で鋳造された。以後昭和の初めまで時を告げてきた鐘で 「時の鐘」 と呼ばれている。
境内には、地蔵尊を中心にいくつかの石仏(合掌仏など)が安置されている。
時宗念仏院の隣にある上野天満神社は、境内掲示によると、寛永3年(1626)金剛院の開山真清が境内鎮守として天満社を創建したという。
寛永8年(1631)奉納の神宝、道真公の弥陀経は戦災により焼失し、昭和31年神社が再建されたそうである。
陣馬街道との分岐である追分交差点の直ぐ脇に八王子千人同心屋敷跡記念碑が建っている。八王子千人同心は、小人頭を起源とする千人頭(せんにんがしら)10名に率いられた同心1000名から組織された。
千人同心の役割は、八王子の治安維持や国境警備、大きな合戦があれば従軍し、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも出陣した。

高札場跡 イチョウ並木 道標 長安寺
いちょう祭祭典委員会が造ったと思われる高札場がある。
分岐と高札場の中間に道標が建っている。
秋になると約4kmにわたる甲州街道のいちょう並木が黄金色に染まるなか、八王子いちょう祭りが開催されるそうである。
昭和56年11月に並木町一丁目町会によって再建された石碑である。昔の道筋が絵に描かれており、かつては、敵の侵入を阻むため
この石碑の所でわざと道を捻じ曲げていたいわゆる 「枡形道路」 のようである。
もう一つの石碑には、「右高尾山 左真覚寺 道」 と書かれている。
道標から200メートルほどのところに葵の紋の入った寺がある。
創建年は不詳、武蔵風土記によれば開山は陽山嶺暾大和尚、正保2年(1645)3月示寂。本堂建立の年代も不詳、但し戦災等による焼失の記録の無いところを見ると江戸時代後期から明治初期のものと考えられる。

多摩御陵参道の石柱 山王社 黒塀の旧家 高尾駅
多摩御陵入口の交差点に建っている。 国道20号線を脇に入った昔ながらの道に入って直ぐのところに山王社がある。 山王社から先には写真のような黒塀の家が何軒も続いている。 関東の駅百選に選定されている寺社風デザインの北口駅舎は、大社線大社駅を設計した曽田甚蔵が設計、昭和2年(1927)に竣工した2代目である。

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