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児玉街道   (用土~群馬藤岡)


平成29年5月3日(水)    ☀|☁    用土~群馬藤岡  16.3㎞
昨日の続きで、用土駅から1~2分で街道に出た後は、広木宿・児玉宿を経て終点の藤岡宿へ入るが、この区間は比較的旧道を歩くことが多いので、周囲の景色を楽しみながらが進むことができる。しかし、児玉宿の先は田圃道の途中で旧道が消滅しているため、右折して国道254号線で迂回して旧道に合流することとした。

用土駅 用土四区公会堂 美里町 馬頭尊
用土駅までは、乗り継ぎが何回かあって、都内を5時半に出ても8時になってしまった。 街道に出て程なく、右手の用土四区公会堂の敷地に八坂神社石祠・庚申塔・大黒天など多数の石造物が並んでいる。
街道筋から集められたものと思われるが、八坂神社の石祠は移転記念碑によると、県道改良の為、移転したとある。
用土四区公会堂の直ぐ先の信号交差点で、大里郡寄居町から児玉郡美里町へ入って行く。
5月3日の休日ということもあって、車の往来は殆んどない。
街道を暫く進むと、左手の灌木が密生する箇所に文化元年(1804)の馬頭尊が建っている。

軍馬八風之碑 普門寺 東大澤神社 横関酒造
馬頭尊から程なく右手の段上に、昭和3年(1928)の軍馬八風之碑が建っている。
この碑の裏面には、近衛野戦砲兵連隊の12歳の鹿毛馬が、、昭和2年に演習中に死んだと記されている。
周囲には、馬頭尊・庚申塔などが並んでいる。
軍馬八風之碑の隣りに真言宗豊山派の三嶋山普門寺の寺標が建っており、杉並木の参道の奥に本堂がある。
普門寺の創建年代等は不詳であるが、境内には元文4年(1739)の四十九院本尊石仏、宝篋印塔、十三重塔などがある。
普門寺を出て、野中信号交差点を越えると左手に火の見櫓があり、その先左手の青い屋根の家の脇から墓地前を抜けると東大澤神社がある。由来書によると、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討のため此の地に来た時に激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷電三社を祀ったことに由来すると伝えられている。
境内には近隣から合祀した多くの境内社がある。
街道に戻って進むと、天神橋交差点の手前左手に造り酒屋の横関酒造がある。
横関酒造は、明治13年(1880)の創業で、製造銘柄には、地酒 「天仁」 「萬酔」 がある。

天神橋 旧道入口 庚申塔 庚申塔
横関酒造の直ぐ先で、天神川に架かる天神橋を渡って行く。 天神橋交差点で国道254号線を渡ると、その先は車がほとんど通らない旧道となる。 街道を200m程進むと、T字路の突当りに寛政12年(1800)の庚申塔が建っている。 続いて30~40m先のY字路中央の民家前に、寛政12年(1800)の庚申塔が建っている。

雷電神社 富士塚 道標 如意輪観音
庚申塔のあるY字路を左に進むと、やや上り坂の右手の林の中に雷電神社がある。
東大澤神社の由緒と同様の解説があり、この神社は、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷電三社を祀ったことに由来すると伝えられる。
境内には明治41年(1908)の政府の合祀政策によって近隣の神社が合祀された境内社がある。
雷電神社の直ぐ先、右手に富士塚がある。
中央に浅間大神碑があり、脇に 「北口登山四拾度真願成就」 の碑が建っている。
富士塚の先で二車線道路に合流し、その先でY字路右手筋の入口に鎌倉街道の道標が建っている。 街道を進むとY字路中央の畑の前に、庚申供養塔と思われる風化した如意輪観音が建っている。

馬頭尊・庚申塔 稲荷神社 永明寺 顕彰碑
鎌倉街道道標で分かれた道路に合流すると、右手に天保14年(1843)の馬頭尊、大正9年(1920)の庚申塔、二十二夜塔が建っている。 先に進んで、右手の㈱相馬木材工業の向かいの路地を入って行くと、右手段上に稲荷神社がある。
稲荷神社は石祠で、前に明治23年(1890)の御神燈が一対並び、脇に古い石祠が2基並んでいる。
稲荷神社の先を50~60m程進んだ右手に、臨済宗妙心寺派の心鏡山永明寺がある。
永明寺は、僧心月祖珊(天文16年(1547)寂)が開山したと伝えられている。
境内には、明治末期、毎年、お盆前に数日間泊まり込みで庭の手入れをする大麻生村の庭師が、ある晩夢に見た地蔵尊(正直地蔵尊)が祀られている。
街道に戻ると、㈱相馬木材工業の隣の家の植栽の中に顕彰碑が建っている。
碑面には、「昭和5年5月26日堀口市之助氏官命により当大字白石958番地に大沢郵便局を開局し地方郵政事業に貢献すること多年なり。竝に記念碑を建て恩人の遺績を永遠に顕彰せんとす」 と刻まれている。

六道能化地蔵尊 道標 石造物群 馬頭観音
先に進むと、十字路左角に延享2年(1745)の六道能化地蔵尊と昭和8年(1933)の道標が建っている。
六道能化地蔵尊は、道標を兼ねてたもので碑面がはっきりしていて行き先が確認できるが、隣の昭和8年の道標は行き先が全部は確認できない。
十字路を直進していくと、右手の民家の塀に鎌倉街道の道標が建っている。
この先は民家が少なくなり、左手は林が続き、その先の開けた所で十字路に出る。
十字路を直進し、直ぐ先のY字路を右折すると左手に石造物が並んでいる。
石造物は、辯才天・庚申塔・馬頭尊・富士登山記念塔であり、傍らには鎌倉街道案内板も建っている。
先に進むと右手の鉄柵の中に、風化の進んだ馬頭観音が建っている。

道標 三夜堂 道祖神 志戸川
馬頭観音の先で、やや下り坂の道を進むと十字路に出る。
十字路の右角に鎌倉街道の道標が建っており、この十字路は左に進んで行くが、十字路を直進する道は、先ほどあった鎌倉街道街道案内板によると、伝承の道であり消滅した部分もある。
十字路から200m程進んだ左手筋の段上に三夜堂がある。
三夜堂の由緒は不明であるが、境内には六地蔵尊を始めとした石仏などがあり、入口に馬頭尊・廻國供養塔・庚申塔などが並んでいる。
先に進んだ左手の広木会館の前に自然石に刻まれた道祖神が建っている。 道祖神の直ぐ先に一級河川の志戸川が流れている。橋の名前は不明であるが、渡り詰め左に道標が二つ建っている。
一つは石柱の曝井入口道標、もう一つは 「常福寺・さらし井の遺蹟」「毘沙門堂・古沼の池」 道標である。

曝(さらし)井跡 みか神社入口 頌徳碑 庚申塔
橋の渡り詰めを川沿いに4~5分進むと、左手に曝井跡がある。
この曝井は、織布を洗いさらすために使用した湧水で、ここでさらされた布は、多く調庸布として朝廷に献納されたと伝えられる。
傍らには弘化2年(1845)の曝井碑があり、万葉集の一首 「三栗の中にめぐれる曝井の絶えず通わんそこに妻もが」 が刻まれている。
街道に戻って進むと、右手に常夜燈が2基建っており、ここを右折して、国道254号線を渡ると�みか神社がある。
みか神社の創建年代等は不詳であるが、醍醐天皇の延喜式神明帳に登載されている古い社で、祭神に櫛御気野命、櫛瓺玉命の二神が祀られている。社名のみかとは酒を造るために用いた大きな甕のことであり、土師器のミカが4個保存されているという。
街道に戻ると、左手段上に大正時代の頌徳碑が建っている。 直ぐ先左手の段上にある兵隊さんの墓地前に、青面金剛の庚申塔を始めとした庚申塔が数基並んでいる。

広木・大町古墳群 広木の一里塚跡 中島橋 小山川
庚申塔の直ぐ先で国道254号線に合流し、300~400m程進んだ右手の麦畑の中に広木・大町古墳群がある。
広木・大町古墳群は、小山川右岸に存在する古墳群で、過去3回の発掘調査で98基の古墳が確認され、現在は両子塚古墳(前方後円墳)をはじめ、8基の古墳が保存されている。
国道254号線を進むと、左手に広木の一里塚跡がある。かつては樹齢400年の榎があったが、現在は枯れて切株のみが残っている。
街道は、ここから左に曲がって行くが、入口に一塚碑・馬頭観音などの石造物が並んでいる。
一里塚跡から左に曲がって進み、赤城乳業工場の前を抜けると、小山川に流れ込む秋山川に架かる中島橋がある。
この橋は、平成28年3月に竣工された新しい橋である。
中島橋を渡って直ぐ右手の筋を入ると、小山川に突き当たる。
堰堤に水が流れていないため、上流の橋を迂回することなく渡ることができた。

県道175号線 龍體稲荷神社 児玉宿町並み 御嶽山神社
小山川を渡って、本庄児玉病院を左に見て進むと、程なく県道175号線に合流する。
ここから先は車の往来がある道で、児玉宿へと入って行く。
県道175号線に合流して程なく、右手に赤い鳥居が見え、入って行くと龍體稲荷神社がある。龍體稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、境内には寛政12年(1800)の庚申塔がある。
拝殿の右手には地蔵堂と不動堂らしき御堂があり
、この奥に真言宗豊山派の白雉山法養寺があるが、本日は法要で参道から中に入れなかった。
龍體稲荷神社を出ると、その先は仲町交差点まで500m程直線の道が続いている。 街道左手の厄除御嶽山神社社標脇を入って行くと、大きな鳥居の建つ御嶽山神社がある。
御嶽山神社の創建年代等は不詳であるが、御嶽信仰に基づく神社で歴史は古いと言われている。
境内には、甲子大黒天が祀られている。
また節分祭や毎年4月第2日曜日の火渡り、冬至などの行事が盛んに行われており、7月から8月には御嶽山の登拝が行われている。

玉蓮寺 龍台院 東石清水八幡神社 高札場跡
街道に戻ると、直ぐ右手に玉蓮寺寺標があり、150m程奥に日蓮宗の東光山玉蓮寺がある。
玉蓮寺は、児玉党の領主児玉六郎時国の開基で、境内は時国の館跡である。寺伝によると、日蓮上人が文永8年(1271)佐渡流罪の途中と、その後、文永11年(1274)3月、佐渡流罪の赦免を得て鎌倉に帰るときも、この時国の館に泊ったと伝えられている。境内には、日朝堂・七面堂・清正堂のほか、多くの南無妙法蓮華経題目碑がある。
玉蓮寺から街道に戻ると、直ぐ左手の路地を入ったところに曹洞宗の龍台院がある。
北条氏滅亡後、徳川家康の一族竹谷松平清宗が雉岡城の城主となり、その後、城主はその子家清へと代わったが、松平氏は三河国から菩提寺龍台院を児玉に移したという。
境内には六地蔵幢、元禄2年(1689)の如意輪観音を刻んだ供養塔などがある。
玉蓮寺の隣に東石清水八幡神社がある。
東石清水八幡神社は、平安時代末期、源義家が父頼義に従い奥州征伐へ赴く途中、当地へ斎場(まつりば)を設け、戦勝を祈願し、康平6年(1063)帰陣の際、再び当地に立ち寄り、社殿を建立して八幡宮を迎え 「東石清水白鳩峯」 と称したのが始まりという。現在の社殿は享保7年(1722)に再建されたもので、見事な彫刻が施され、随身門は宝暦6年(1756)に建立されたものである。
東石清水八幡神社の境内北西角に江戸時代の高札場がある。
この高札場は、もと本町と連雀町との境あたりの街道上にあったものを、昭和5年(1930)に現在地へ移築したものである。県内に現存する数少ないものの一つであり、本庄市の指定文化財になっている。

玉蔵寺 田島屋旅館 実相寺 競進社模範蚕室
高札場跡の隣に玉蔵寺の入口があり、奥に進むと臨済宗妙心寺派の雉岡山玉蔵寺がある。
玉蔵寺は、康永年間(1342-45)武蔵七党の中の児玉党が、新田義貞及び義宗の挙兵に従ったおり、僧元弘は戦死した者の霊を慰めるため、招魂碑を八幡山雉岡に建て、救世観世音を安置した永く供養の霊場としたことに始まる。
その後、上杉氏が築城に際し、家臣有田定基に命じて霊場を現在地に移し、堂宇を再興して雉岡山玉蔵寺と称した。
直線の街道が右に屈曲する仲町交差点のT字路を左に入ると、右手に庵看板が下がる田島屋旅館がある。
田島屋旅館は、間口は狭いが、奥行きがかなりある木造2階建て(奥は3階)の建物であり、吉田健一・三島由紀夫などが宿泊している。
田島屋旅館の先に浄土宗の歓喜山実相寺がある。
実相寺は、延久2年(1070)空也上人法孫が上生野に一庵を創建したのが始まりという古刹で、江戸時代の国学者・塙保己一の生家菩提寺である。境内には、文永2年(1265)造立の阿弥陀一尊種子板碑などがある。
街道に戻って仲町交差点の先を進み、左手の高橋モータースの向かいの筋を入って行くと、左手に競進社模範蚕室がある。
競進社模範蚕室は、養蚕技術の改良に一生を捧げた木村九蔵が、明治27年(1894)に競進社児玉伝習所地内に建設したもので、埼玉県には数少ない近代化遺産である。
建物内は4つのスペースに区切られ、懐かしい用具が展示されている。

児玉駅入口碑 種池神社 長福寺 雀の宮橋
街道に戻ると、児玉駅入口交差点の右角に児玉駅入口碑が建っている。 先に進んだ児玉高校入口交差点を左に入って行くと、種池神社がある。種池神社の創建年代は不詳であるが、境内に霊水とし知られる湧水があり、ここで種籾を洗い、五穀の祖神である稲荷大神を勧請したのが始まりで、種池の名もこの湧水に由来するという。
明治に入って字域内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社を合祀した。現在、湧水は埋め立てられ、駐車場になっている。
街道に戻って長浜町交差点で、八高線の高架をくぐると、右手に浄土宗の無量院長福寺がある。
長福寺の創建年代等は不詳であるが、境内には観音堂・稲荷神社があり、傍らには馬頭観音・庚申塔などの石造物が並んでいる。
長福寺の先の児玉バイパスの手前にあるエクセレント美容室の前を左折して旧道に入って行くと、直ぐ先で砂利道となり、女堀川に架かる雀の宮橋がある。
その先にある高架は農免道路であり、潜った先で旧道は消滅しているので、田圃道はやめて、右に折れて国道254号線で迂回していく。

旧道口 道祖神 白山神社 如意輪観音
国道254号線を進み、右手の九郷用水に架かる神岡橋のところから旧道に入って行く。 旧道に入って程なく、右手の畑の前に道祖神が建っている。 道祖神の斜向かいの細い筋の突当りに白山神社がある。
社殿に扁額などの表示は無いが、社殿内に白山神社の文字が見え、ここより北西1km程のところにある熊野神社から、300年程前から続く獅子舞が、ここまで来るという。
街道を進んで丹荘保育所の先の十字路右手角に風化の進んだ文政元年(1818)の如意輪観音が建っている。
側面の文字は読み取れ、「當所女人講中十四人」「文政元年戌寅九月」 と刻まれている。
この辺りから、八日市交差点まで1.3km程直線の道が続いている。

地藏菩薩・如意輪観音 気抜き屋根の旧家 道標 直線の旧道
如意輪観音から150m程進んだ、右手民家脇の植栽の中に地蔵菩薩と明和5年(1768)の如意輪観音が建っている。 街道沿いには大きな旧家が続き、八日市集会所の向かいには、気抜き屋根の付いた旧家がある。 八日市集会所の角地に大正7年(1918)の道標が建っている。
表面の文字は完全に読み取ることは出来ないが、「右阿保ヲ経テ藤岡町一里半」「左〇〇町上里本庄町二里半」 と刻まれている。
丹荘保育園辺りから続く直線の道は、この先の八日市交差点まで、残り600m程続く。

瑞巌寺 八日市交差点 石造物 石碑
先に進むと、右手に臨済宗妙心寺派の吉祥山瑞巌寺がある。
瑞巌寺の創建年代等は不詳であるが、境内には推定樹齢300年の大きな枝垂れ桜があり、周辺には庚申塔・廻國供養塔などが建っている。
瑞巌寺の先で国道254号線の八日市交差点を渡ると、その先も暫く直線の道が続いている。 八日市交差点を過ぎて、両側に畑が広がる直線の道をどんどん進んで行くと、左手に石造物がある。
石造物は、大正13年(1923)の廻國供養塔、庚申塔、馬頭尊、石祠である
先に進んだ県道22号線との交差点左角に石碑が建っている。
石碑は慶應元年(1865)の北国三山拝礼塔、明治30年(1897)の凱旋碑及び建立のための寄付人銘碑のようである。

旧道口 道標 蛙の石像 石造物
県道22号線を横断して進むと、元阿保公会堂のところから左に入る旧道がある。 旧道を進んでT字路に突き当たると、右側にベンチが置かれたポケットパークがあり、その角に明治45年(1912)の道標が建っている。
道標には、「右児玉町二至ル壱里強」 と刻まれている。
道標の左側を抜けて突当りを左折すると、変則十字路の左角に巨大な蛙の石像がある。 変則十字路を右折すると、左手の空地の前に石造物がある。
石造物は、宝暦5年(1755)の寒念仏供養塔と明治の如意輪観音である。

安保氏館跡 阿保神社 石造物 神流川堤防
石造物の先で元阿保公会堂で分かれた道に合流するが、その合流地点右角に安保氏館跡がある。
安保氏は、武蔵七党の一つ丹党に属す北武蔵の豪族であり、この館跡は安保氏総領家の居住地として伝えられ、嘉永元年(1848)の安保氏遺蹟碑が建てられている。
安保氏館跡から程なく、左手に阿保神社がある。
阿保神社は、丹党安保氏により鎌倉期以降に祀られたと言われるが、明細帳に載る由緒は更に古く、平安期の創建と伝えられ、当初、六所明神社と称した。
境内には、享保12年(1727)の正一位六所大明神の石碑があり、周囲に天満宮・阿夫利神社などの石祠がたくさん並んでいる。
阿保神社の境内脇にある元阿保公会堂の前に馬頭尊・庚申塔などが並んでいる。
左から馬頭尊2基、猿田彦大神、庚申塔4基である。
暫く街道を進むと神流(かんな)川堤防に突当り、旧道は消滅する。
堤防に上がっても直ぐ先で通行できなくなるため、右折して国道254号線に出ることとなる。

藤武橋 畜霊供養塔 寿楽寺 沢田橋
長浜交差点で国道254号線に合流し、神流川に架かる藤武橋を渡って行く。
藤武橋の歩道は、右側(下流側)にしかない。橋の中間辺りで埼玉県児玉郡から群馬県藤岡市に入って行く。
藤武橋の渡り詰め右手の眼下に畜霊供養塔が建っている。
傍らの塔婆には、牛馬猪羊一切畜生之霊頓生菩提と記されてる。
小林交差点を渡って県道23号線に入ると、間もなく左手に高野山真言宗の小林山寿楽寺がある。
寿楽寺の創建年代等は不詳であるが、境内には石材屋の如く様々な石像石仏があり、放生池の周囲には、庚申塔・馬頭観音が建っている。
寿楽寺の先で笹川に架かる沢田橋を渡って行く。

道祖神 天龍寺 里程標 群馬藤岡駅
八高線の踏切を渡ると直ぐ左手に天川町公会堂があり、その角地に寛政9年(1797)の道祖神が建っている。
道祖神の脇には昭和23年(1948)の道標があり、「右埼玉県二至ル 左新町鬼石町二通ズ」 などと刻まれている。
道祖神の直ぐ先左手に日蓮宗の福聚山天龍寺がある。
天龍寺は、長谷川長源が自邸を寺として常栄山長源寺と名付け、その後、文禄2年(1593)に藤岡城主の室(了源院殿日脱大姉)が藤岡に寺を移して、福聚山天龍寺と改称したと言われている。
街道に面した入口は裏門であり、山門は西側にあり、境内には庚申堂・鬼子母神堂などがある。
街道に戻って一丁目交差点のT字路を右折して300m程進むと、四丁目交差点の左角に大正4年(1915)の里程標が建っている。
里程標には、「自藤岡町 至各町村」 とあり、それぞれの町村までの距離が刻まれている。
ここが児玉街道の終点であり、群馬藤岡駅に出て終了である。
群馬藤岡駅は、昭和6年(1931)国鉄八高線児玉駅~倉賀野駅間の開通と同時に開業した。

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