天保3年(1832)の
少彦名神・大巳貴神
文久元年(1861)の常夜燈
天保3年(1832)の
倉稲魂神・植安姫神
万延2年(1861)の常夜燈
当地の西南にそびえる陣見山の尾根の北側に広がる丘陵地帯が古代・中世の武蔵国那珂郡で、中世は武蔵七党猪俣党の拠点となっていた。中でも本貫地となっていたのが当地で、南部の城山頂上には猪俣城があった。また境内を鎌倉街道上道が通り、当社の鎮座する字野中は、街道沿いに発達した集落で、当社の前を通る道が鎌倉街道といわれている。
当社は、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷征討のため当地に至ったところ激しい雷雨に遭遇し、これを鎮めるために雷電三社を祀ったことに由来すると伝えられる。この雷電三社とは、当社(旧雷電社)・甘粕神社(旧雷電社)・雷電神社(大字中里鎮座)のことで、雷電三社は国道254号線に架かる天神橋を中心に三角形を形作る。江戸期には本山派修験の五大院が別当を務めていた。同院の開山は「法印仙翁」で、明応2年(1493)に入寂していることから当社もこの頃には既に祀られていたと思われる。
明治5年当社は村社に列せられ、同43年3月字明神裏(字栃久保)の村社春日神社と字海道南(字小栗)の村社三島神社の二社を当地に合祀し、当時の大澤村の東に位置することから社号を東大澤神社と改称した。また同時に合祀した村社の境内社並びに村内の無格社十六社を境内に移転し関連する社ごとに合祀を行い、当社の境内社として祀られた。
東大澤神社拝殿
東大澤神社鳥居
拝殿に掛かる東大澤神社の扁額
八坂神社・蚕影山神社・諏訪神社・天神社・天照皇大神・稲荷神社・愛宕神社・八王子神社・山神社
境内社
明治38年(1905)の手水石がある手水舎
境内社の琴平神社
吽形の狛犬
拝殿内の東大澤神社本殿
東大澤神社由来
阿形の狛犬