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児玉街道   (菅谷~用土)


平成29年5月2日(火)    ☀    菅谷~用土  19.0㎞
本日は、菅谷宿から奈良梨宿・今市宿・赤浜宿を通り、かつては渡場のあった荒川を渡って、小前田宿を抜けて寄居町用土までの行程である。いずれの宿もかつての宿並みがある訳ではないが、途中の集落や川・山並みは往時の姿を偲ばせるものがある。

武蔵嵐山駅 旧家 旧道跡 東昌寺
午前7時前の武蔵嵐山駅は、ややひんやり�しているが、空は快晴で雲一つない。 街道に出ると、直ぐ左手に冠木門のある旧家がある。 嵐山三叉路の先の右手筋に旧道跡があるが、入口に 「この先行き止まり」 の標識が建っている。 旧道跡の街道を挟んだ左手(西)筋入口に東昌寺寺標があり、脇に交通安全地蔵尊が並んでいる。この筋を入ると、曹洞宗の長慶山東昌寺がある。東昌寺は天文9年(1540)に町内城址公園本丸にあった天台宗東昌山長慶寺が廃寺となっていたものを、此の地に復興し曹洞宗に改宗したのが始まりという。山門は仁王門で、境内には徳川秀忠公の乳母正心院ゆかりの観音堂がある。

旧道入口 保食神社 志賀観音堂 馬頭観音
街道に戻って、東武東上線の踏切を渡り、右手の栄田歯科医院の先で右手に入る旧道がある。
この旧道は400m程先で、再び県道296号線に合流する。
旧道を進んで、左の県道296号線に架かる横断歩道橋が見えたところで、右手に入る筋があり、そこから100m程入ると右手民家の脇に保食神社がある。
保食神社は、保食神(うけもちのかみ)を祭った神社である。
旧道が県道296号線と合流し先のT字路交差点角に志賀観音堂がある。
ここには寛保元年(1741)の宝篋印塔、一面六臂の青面金剛の庚申塔、安永7年(1778)の三面六臂の馬頭観音、聖徳太子碑、大黒天碑などたくさんの石碑石塔が建っている。
志賀観音堂の直ぐ先、右手の個人の墓地に2基の馬頭観音が建っている。
小さい方は明14年(1881)で、大きい方は文政10年(1827)の馬頭観音である。墓地に隣接した左の民家の塀の中にも、「馬頭尊」 と刻まれた小さな馬頭観音がある。

嵐山町並み 道標 宝城寺 雨降山常夜燈
志賀観音堂の先は、真っ直ぐな街道が続いており、時折、車が通過する。 先に進むと、玉ノ岡中学校入口交差点の変則十字路右角に道標が建っている。
道標は、埼玉県指定史跡旧跡の杉山城跡・元杢網夫妻の墓を示している。
変則十字路の左筋を入って行くと、坂の上に曹洞宗の大谷山宝城寺がある。
宝城寺の創建年代等は不詳であるが、境内には閻魔堂・不動堂があり、折しも藤棚が見事に咲いていた。
街道に戻って進むと、右手の民家の庭先に雨降山と刻まれた常夜燈が建っている。
この常夜燈は、志賀大山組講中と刻まれた明和2年(1765)の大山常夜燈である。

杉山城跡 石碑三基 庚申塔 街道風景
雨降山常夜燈を過ぎると、右手に杉山城跡のある小山が見える。
杉山城は、地元豪族の金子主水の築城と言われているが、築城年代共に定かではない。
先に進むとピーズボックスというパチンコ屋のあるT字路信号交差点があり、その右手の家の植栽の中に3基の石碑が並んでいる。
手前から一面六臂の青面金剛の庚申塔、元治元年(1864)の大黒天、享和元年(1801)の馬頭観音である。
先に進んで左手筋の手前にある横断歩道の右手に2基の庚申塔が建っている。
左から、元文5年(1740)の庚申供養塔、万延元年(1860)の庚申塔である。
この左側の植栽に隠れるように道標が建っており、「下小川町ヲ経テ小川町約一里」「〇〇約五十丁」 などと刻まれている。
住宅が切れるところは畑が広がり、懐かしさを感じる風景である。

庚申塔 馬頭観音 小社 旧道入口
嵐山小川IC交差点を越えて直ぐ右手に市川整体院があるが、その脇の筋に自然石に刻んだ安永5年(1776)の庚申塔が建っている。 市川整体院の左に隣接する民家の塀の中に、昭和10年(1935)の馬頭観音が建っている。 直ぐ先左手の民家の庭先に小社があり、失礼して回り込んでみると、正一位稲荷大明神・若宮八幡大菩薩・猿田彦大神の木札が納められており、小社の隣に庚申塔が建っている。 小社を過ぎると右手に旧道があり、円弧状の道は200m程先で県道に合流する。

県道合流 大黒天 馬頭観音 石塔群
200m程で県道に合流するが、この手前右手の畑の辺りが磔場であったという。
この近辺には、何か説明板などがある訳ではなく、全く不明である。
下横田に入って横山商店の先の左手筋角に嘉永7年(1854)の大黒天が建っている。 新川の手前の街道左下の灌木の中に大きな馬頭観音が建っている。
回り込んで裏を見ると、天保10年(1839)白舟蒼雪翁書と刻まれている。
馬頭観音の脇の細道を入った畦道に、石碑石塔群がある。
これらは安政2年(1855)の馬頭観音・文化13年(1816)の三面六臂の馬頭観音などである。

高橋 庚申塔 馬頭観音 大黒天
街道に戻ると新川に架かる高橋がある。
新川は、下流で市野川に合流するが、上下流共に草で覆われて、水の流れている部分は細い筋になっている。
街道を進むとメガネのセブンの看板の斜向かいの筋角に、享保元年(1716)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。 直ぐ先の八和田郵便局の隣に新しい馬頭観音が建っている。 奈良梨交差点の手前左手に嘉永5年(1852)の大黒天が建っている。

道路元標 八和田神社 旧道入口 馬頭観音
奈良梨交差点の右角に八和田村道路元標が建っている。
道路元標は、大正8年(1919)の道路法により各市町村に一個設置されたもので、八和田村道路元標は、当初から奈良梨の交差点に設置されていた。
奈良梨交差点の右斜め筋に八和田神社社標と一の鳥居が建っており、この突当りが八和田神社である。
八和田神社は、かつて諏訪神社であったが、明治40年(1907)に上横田・下横田・奈良梨・高谷の五つの大字知地内にあった11社を合祀し、当時の村名を採って社名を八和田神社と改めた。境内には、推定樹齢800年と言われる大杉があり、小川町の天然記念物に指定されている。
八和田神社参道の途中から県道に出ると、左に入る坂道の旧道がある。
此の地は、往時には 「奈良梨宿」 といわれ、川越・児玉往還にあった宿場町であり、当時鎌倉街道上道の拠点として、戦国時代には平時に馬3頭、戦時に馬10頭を置く伝馬宿であったという。
旧道に入って直ぐ、右手の防火水槽脇に大正5年(1916)の馬頭観音が建っている。

萬福寺 普賢寺 切通 如意輪観音
緩やかな坂道を登って行くと、右手に時宗の寶林山萬福寺がある。
萬福寺の創建年代等は不詳であるが、境内には放生池があり、石碑などが整然と並んだ寺院である。参道口左の段上には、三面六臂の馬頭観音が覆屋に安置されている。
萬福寺の道を挟んだ西側段上に天台宗の多宝山止観院普賢寺がある。
普賢寺は、境内にある本堂復興記念碑によると、慈覚大師により創建され、慶長8年(1603)に亮光法印により中興された。明治5年(1872)の火災により堂宇は悉く焼失し、その後、昭和8年(1933)に本堂を再建した。
参道口に地蔵尊が2基並び、境内には明徳元年(1390)の種子板碑がある。
萬福寺と普賢寺の間は、両側に石垣を積んだ切通の道となっている。 切通を過ぎて進んで行くと、左手の墓地の入口に年代不明の如意輪観音と寛政4年(1792)の馬頭観音が建っている。

庚申塔 馬頭観音・庚申塔 県道296号線 庚申塔
墓地を過ぎて緩やかな下り坂となると、左手の防火水槽の隣に明治34年(1901)の庚申塔が建っている。 庚申塔の先の十字路左角に、武州奈良梨村と刻まれた寛政5年(1793)の馬頭観世音、その隣に武州比企郡奈良梨村・同行九人と刻まれた元文5年(1740)の庚申供養塔が建っている。 馬頭観音の先で小川に突当り、小川に沿って進んで県道296号線に合流する。
ここからは、暫くの間、県道296号線を歩くことになる。
県道に合流して200m程進んだ左手の林の段上に、宝暦6年(1756)の文字庚申塔と一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。

南光院開山の塚 八宮大神神社 阿弥陀堂跡 宗蔵寺
庚申塔から程なく、右手に回り込むような筋の脇に丸い石を乗せた石造物がある。
回り込んでみると、丸石に 「南光院」 と刻まれ、台座に 「傳云南光塚石川家祖先圓光長山ノ墳而シテ其年代不詳今湮滅ヲ恐レ石ヲ建テ以テ不朽二傳フ 昭和7年9月 裔孫甲作」 と刻まれている。
南光院開山の塚から50m程入った十字路を左折すると、200m程先の突当りに八宮大神神社がある。
八宮大神神社の創建年代等は不詳であるが、此の地を治めた豪族を祀った社であると伝えられている。境内には、天神社と金比羅社が合祀された境内社がある。
街道に戻って進むと、右手の墓地前に2体の地蔵菩薩坐像が覆屋に安置されている。
一般墓石や卵塔のほか、廻國供養塔や如意輪観音などたくさんの石造物がある。
阿弥陀堂跡から直ぐ先の能増交差点を左折すると、右手坂上に天台宗の松谷山清龍院宗蔵寺がある。
境内にある宗蔵寺本堂建築記念碑によると、武州塚田村天台宗普光寺の末寺として貞享3年(1686)以前に開山と云われるが、詳細は不明である。総本山は比叡山延暦寺で、本尊は千手観音菩薩である。

四津山神社入口標柱 四津山 市野川 庚申塔
街道に戻って500m程進んだT字路の角に四津山神社入口標柱が建っている。
ここには昭和7年(1932)の八和田青年団建立の道標・御神米イセヒカリ栽培の地と刻まれた常夜燈が建っている。四津山神社は、火遇突智命を始め17神を祭神とし、御神体は勝軍地蔵で、古来より火防の神として、その信仰は厚く、信者は関八州に及ぶという。
四津山神社は、入口標柱から1.3㎞程西の四津山山頂にあり、そこは高見城跡でもある。
四津山は、かつて鎌倉街道上道を押さえる軍事上の要所であり、戦国時代に山城が築かれ、長享12年(1488)の高見原合戦を始め数度にわたり戦場となった。
程なく市野川に架かる橋を渡る。
橋標が無く、橋の名前は不明である。
小川町から寄居町へ入る境界の辺りに、天明5年(1785)の庚申塔とやや小ぶりの庚申塔が建っている。
かつて、ここは一里塚であったと言われている。

今市地蔵堂 今市宿町並み 高蔵寺 兒泉神社
庚申塔の先から右にカーブする緩やかな坂道を上った交差点の正面に今市地蔵堂がある。
地蔵尊は、像高3.14mで室町時代の作と推定され、寄木造で玉眼を施してある。
境内には二十六夜塔、南無阿弥陀仏名号碑、大黒天などの石造物がある。
今市地蔵堂前から、北西に向かって約1㎞の直線の道が続き、その道に沿って集落が造られている。
今市地蔵堂前に鎌倉街道(上道)の解説があり、当時は集落があったかどうかは不明であるが、天正18年(1590)後北条氏が滅びるまでの400年間、主要な道路としての役割を果たしてきたという。
街道を進んで間もなく、左手に天台宗の寶珠山高蔵寺がある。
高蔵寺は、慶長年間(1596-1614)この地を領していた柳沢吉保の祖父である柳沢信俊の開基により創立した寺である。
本尊は兒泉神社から移された十一面観世音菩薩で、境内には閻魔堂があり、本堂向かいに武蔵国十三仏が並んでいる。
高蔵寺の墓地脇の小道を南西に100m程進むと児泉神社がある。
兒泉神社の創建年代等は不詳であるが、社伝によると物見山の尾根続きの地に、こんこんと湧き出る泉に坐す神を、兒泉明神として祀ったことに始まるという。
境内には、明和4年(1767)の御神燈、手長神社・冬住神社などを合祀した境内社がある。

八阪浅間神社 高見原古戦場跡 薬師堂 庚申塔
街道に戻って進み、一本目の左手筋を入ると、畑の前に八阪浅間神社がある。
由緒等は不明であるが、鳥居の奥に三基の石祠が建っている。
八阪浅間神社から程なく、右手の民家脇に高見原古戦場跡標柱が建っており、奥に首塚稲荷がある。
長享2年(1488)に山谷上杉氏と扇谷上杉氏が、現在の嵐山町菅谷の須賀谷原で繰り広げた戦いで、両者から多数の戦死者が出たといわれている。
首塚稲荷の左側には御嶽神社碑があり、脇に石燈籠が建っている。
直線の道が左にカーブするところに薬師堂がある。
この辺りが今市宿の終わりにあたり、右に抜ける鎌倉街道(上道)の角に廻國供養塔などの石碑石塔などが数本建っている。
薬師堂の先を進むと、右手民家の塀の前に庚申塔3基と六十六部供養塔が並んでいる。

旧道入口 谷川連峰 吉野川橋 牛頭天王尊
庚申塔群から270~80m先で、右に入る旧道がある。
この道は、男衾小・中学校の裏を通る 「長山道」 と呼ばれる旧道で、男衾中学校の先で県道に合流する。
男衾中学校の先で県道に合流し、北柏田交差点に架かる横断歩道橋に上がると、北方に雪を被った谷川連峰が見える。 北柏田交差点を過ぎて間もなく、吉野川に架かる吉野川橋を渡って行く。
この橋は、平成14年3月に架け替えられたものである。
吉野川橋を渡って間もなく、Y字路の角に昭和の牛頭天王尊が建っている。
この先の道は、中央線が無くなり、やや狭くなっている。

火の見櫓 出雲乃伊波比神社 小被神社 旧道口
先に進むと左手に火の見櫓が建っており、その下に如意輪観音・馬頭観音・庚申塔などの石造物が建っている。
石造物の奥は、墓地になっている。
直ぐ先で県道81号線に突き当たり、左折すると右手に出雲乃伊波比(いずものいわい)神社がある。
かつて、源頼義が奥州征討の折、戦勝祈願を行ったことから、「白旗八幡」 と呼ばれるようになったが、天正8年(1580)荒川の洪水により、集落共々被害を受け、標高の高い現在地に遷座した。境内には、妙見社・八坂社のほか、蚕影大神・三峯大神・古峯大神などを合祀した境内社がある。
出雲乃伊波比神社の斜向かいの筋を入って行くと、右手に小被(おぶすま)神社がある。
小被神社は、安閑天皇の御代(531-35)に、富田鹿という土地の豪族が、郡の地主神である小被神を祀ったことに始まるとされる。
明治40年には、周辺の山神社・愛宕社など神社7社を合祀しており、独立した社殿が建っている。
街道に戻って旧赤浜宿の直線の道を進み、最初の信号交差点で右折して、荒川へ向かう旧道に入って行く。

地藏菩薩 天神様 常楽寺 二十二夜塔
街道を進むと、程なく右手の民家の入口に地蔵菩薩が建っている。 地蔵菩薩の斜向かいの段上に天神様の祠と石塔が建っている。
この石塔は、文字が判読できないが、この脇から入る常楽寺の名号碑かと思われる。
天神様の脇に真言宗智山派の五眼山常楽寺の寺標があり、左折して民家前を通ると、正面に山門がある。
山門を抜けると左手に大きな恵比寿神が鎮座する。この恵比寿神は、武州寄居七福神となっており、昔から福の神として人々に崇拝されている。
常楽寺から街道に戻ると、やや下り坂の左手段上に墓地があり、手前に地藏菩薩・如意輪観音を刻んだ二十二夜塔が建っている。
二十二夜塔は、旧暦22日の夜に人々が集まり、飲食をしながら月の出を待つ月待ちの行事を行った女人講・念仏講で、供養のしるしとして建てた塔である。

地光坂 赤浜の渡し付近 花園橋 宝篋印塔
墓地の辺りから荒川に向かって地光坂が続いている。 地光坂を下って荒川沿いの道に出ると、赤浜の渡し方向は灌木や草が生い茂り道もない。
ここから荒川を渡る花園橋へ出るためには、先に進んで橋下を抜けて回り込むか、手前の北陸軽金属工業㈱の脇を抜けるかの何れかであるが、後者を選択して迂回することとした。
花園橋は、県道296号線が通っているが、手前からかなり高い所を通るため、迂回においても坂道を上がって行くことになる。
花園橋の総延長は880m程あり、歩道は上流側のみに設置されている。
花園橋の歩道が終了するところから、30m程先の左手筋角に御堂があり、2基の宝篋印塔が安置されている。
御堂の前に建つ由来碑によると、この付近の金井家祖先が、江戸時代に井戸を掘ったところ出土したもので、残欠部分は町教育委員会の発掘調査でも発見できなかったという。出土したものだけで建立したのは、延文3年(1359)新田族の岩松氏によるという。

新馬坂開鑿之碑 水神 河川起点碑 顕彰碑
宝篋印塔から、左手の側道をUターンして荒川縁へ下りていくと、右手の3~4m程の段上に新馬坂開鑿之碑(しんうまさかかいさくのひ)が建っている。
裏面には、農村漁村匡救土木事業(失業対策)として新道の開削が実施され、昭和10年(1935)に工事が竣工したと刻まれている。
荒川沿いの細道に出て緩やかな坂道を進むと、左手の灌木の前に水神石祠がある。
この水神石祠には、寛政2年(1790)11月に再建され、大正8年(1919)2月に再々建されたことが刻まれている。
水神の直ぐ先、左手に河川起点碑が建っている。碑には、「本法河川荒川 花園村・男衾村 起点」 と刻まれている。 先に進んで、道が荒川縁に迫り出すところの右手に川田粂太郎翁顕彰碑が建っている。
この向かいには、簡素な東屋風の休憩場所があり、荒川の流れを間近に見ることができる。

石造物群 大黒天・庚申塔 荒川地下道 富士塚
先に進んだ十字路の左角に立つ大きな木の下にたくさんの石造物が建っている。
石造物は、文化4年(1807)の普門天・元禄15年(1702)の阿弥陀如来のほか、多くが墓碑であり、向かいの墓地にも廻國供養塔がある。
次の十字路を越えた右手段上に石造物と小社がある。
石造物は風化の進んだ大黒天と一面六臂の青面金剛の庚申塔であり、小社は三峯神社である。
石造物の先で国道140号線バイパス (彩甲斐街道) に突き当たるが、横断するのは危険なため、ちょっと戻って左手の荒川地下道で横断する。
この地下道も車道であるため、車には注意が必要である。
荒川地下道を抜けて二つ目の十字路を左折し、直ぐ右手の旧道に入ると右手に富士塚がある。
傍らに 「富士北口 鐘登山三十七度大願成就」 と刻まれた碑が建っている。

長善寺 道路元標 気抜き屋根の家 旧道入口
富士塚の直ぐ先で国道140号線(秩父往還)に合流し、程なく右手に高野山真言宗の小前田山長善寺がある。
長善寺は、町田土佐守秀房とその子九郎左衛門長延が、主君鉢形城主北条氏邦の子光福丸・父町田康忠入道長膳の菩提のため、慶長5年(1600)に創建したと言われている。
参道には、庚申塔・馬頭観音・廻國供養塔など多くの石棒物が並んでいる。
街道を進むと信号十字路の手前、右手の民家の棟門の脇に花園村道路元標が建っている。
長善寺の辺りから、直線の国道140号線が左に折れる花園郵便局辺りまでが小前田宿で、道路元標は、ほほ中間に建っている。
信号十字路を越えて程なく、右手に気抜き屋根の付いた立派な家がある。
かつては養蚕を営んでいた家であろうか。
花園郵便局のところで国道140号線と分れて、北西に延びる旧道に入って行く。
旧道に入ると直ぐ右手に津島神社があり、その先は道が狭くなり、旧街道の雰囲気を感じることができる。

諏訪神社 馬頭観音 庚申塔 道標
先に進むと一段とこんもりとした林が左手に見え、林の中に諏訪神社がある。
諏訪神社は、応和年間(961-64)奥羽地方より藤田郷に移住した鈴木氏等が、上の原の地に祖神の諏訪神社を祭ったのが始まりで、その後、文明年間(1469-87)に花園城主藤田掃部左衛門氏行が信州の諏訪大社より正一位南宮法性大明神の分霊を勧請して祀ったという。境内には、白山神社・和魂神社・琴平神社・八坂神社などの境内社がある
諏訪神社の先で、県道175号線に合流すると左手に2基の墓碑があり、その先で秩父鉄道の踏切を渡ると、左手墓地前に馬頭観世音碑が建っている。 馬頭観音から150m程進んだ横断歩道の左手の塀の中に4基の庚申塔が建っている。
左から不明な石造物・風化した青面金剛の庚申塔・嘉永2年(1849)の庚申塔・判読できない庚申塔である。
先に進んだ原宿交差点の右手に道標がある。
道標には、「右 川越 大山 小川三里」 「左 日光 妻沼 深谷三里」 と刻まれ、隣の碑に 「平成18年11月移転」 と刻まれている。

八幡神社 常光寺 麦畑 石造物
原宿交差点を過ぎて県道175号線を進むと、右手に八幡神社がある。
八幡神社の創建年代等は不詳であるが、鳥居前の県道175号線は鎌倉街道(上道)と言われ、建久3年(1192)源頼朝が鎌倉幕府を開いてから、天正18年(1590)後北条氏が滅びるまでの約400年間、主要な道路となっていた。境内には、浅間神社・伊奈利神社・大手長男神社などの境内社がある。
八幡神社を出ると、直ぐ右手に常光寺社標があり、長い瓦塀の奥に浄土宗の遍照山摂取院常光寺がある。
常光寺は、八幡神社の別当寺で鎌倉時代の創建と云われるが、詳細は不明である。
境内には、歴代住職の卵塔、如意輪観音、庚申塔など古めかしい石造物が並んでおり、山門の隣にはダルマが安置された御堂がある。
常光寺を出て集落を抜けると、右手には一面の麦畑が広がり、暫し、ネギやジャガイモが植えられた畑、苗木を育てるビニールハウスなど田園風景が続く。 先に進んだ信号T字路の左手にある墓地の前に石造物が並んでいる。
石造物は、背の高い道標・大黒天・庚申塔・如意輪観音などである。

庚申塔 石造物 道路元標 諏訪神社
飲食店 「鮨富」 を過ぎた右手の民家脇に庚申塔が2基建っている。
左側は文化6年(1809)の文字庚申塔で、右側は嘉永元年(1848)の一面六臂の青面金剛の庚申塔である。
庚申塔の直ぐ先左手の納屋の前に石造物が並んでいる。
左から如意輪観音、馬頭観音、南無阿弥陀仏名号碑であり、この奥は墓地になっている。
石造物の直ぐ先で八高線の鎌倉街道踏切を渡ると、右手の用土五区公会堂の前に 「用土村道路元標」 が建っている。
公会堂前の新築記念碑によると、五区公会堂は、この地西側臼井田にあったが、旧鎌倉街道及び寄居岡部線の拡幅並びに交差点の改良工事に伴い、平成元年11月この地に新築となったという。
用土郵便局前交差点を越えて程なく、右手に諏訪神社がある。
境内の改築記念碑によると、諏訪神社は応和年間(961-64)武州用土諏訪山に建御名方神を祀る社として創建された。以来地域の守護神として広く尊崇を集めてきたが 慶長の頃神社を護持する氏子崇敬者により現在地に遷座された。

浅間大神 用土駅
諏訪神社の西側の路地角に明治38年(1905)の浅間大神が建っている。
本日はここまでとし、次の十字路を右に進んでJR八高線の用土駅から帰宅することとする。
用土駅は、昭和8年(1933)に国鉄八高線の開通と同時に開業し、その後、昭和58年(1983)に無人駅となり、現在の駅舎は平成24年(2012)に建て替えられたものである。
八高線は単線であるため、乗降ホームは一つで、時刻表を見ると、辛うじて一時間に1本である。一日の乗車人員は、過去十年を見ると平均100人前後となっている。

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