大井宿は、川越街道の六宿場(大井・大和田・膝折・白子・下練馬・上練馬)のうちのひとつとして、江戸から約8里、川越城大手門(現川越市役所)から2里半の道程にありました。江戸時代以前の大井宿は大井郷と呼ばれ、川越街道より東方の現在の東原小学校を中心とした
「本村」 などの地名の所に集落があったことが発掘調査により確認されています。
江戸時代に入り、川越街道の各宿場が整備されるに従い、この集落が街道沿いに移転させられ、寛永期ごろにはほぼ宿場の町並みが出来上がったものと思われます。その後、元禄11年(1697)にはそれまでの旗本米津氏の知行地から川越藩領となり、大井村から大井町(宿)の呼称へ変わっていきました。
江戸時代中期の宝永2年(1705)の 「大井町明細帳」 には、家数94軒・人口479人(男257人、女217人、層3人、道心2人)、このうちに米・酒・塩・小間物などを扱う商人が5人と桶屋1人がおり、また馬が60疋いると記され、宿場としての賑わいが感じられます。
諸大名や幕府の役人の宿所である本陣は、代々名主役と兼帯で当所の新井家が勤めました。本陣には問屋場もあり、大井宿における公用の伝馬と人足を手配し、荷物や人の継ぎ立てを行っていました。継ぎ立ての賃金は、公用の人馬は6人と6疋(後の天保12年には13人・13疋)までは安い 「御定賃銭」 でした。
川越藩主の参勤交代などの通行では、江戸に近いため川越街道の宿場で宿泊することはなく、大井宿本陣においても小休と人馬の継ぎ立てだけが行われていました。川越街道の交通量は次第に増えていき、幕末には旅籠屋・茶屋として河内屋・柏屋・うどん屋・中屋、木賃宿では中島屋がありました。明治維新後は公用の継ぎ立てはなくなり、一般の人々の通行で旅籠や茶屋が賑わいましたが、明治14年・15年・25年の三度の大火に遭い、町並みは殆んど焼失してしまいました。
大井宿本陣跡
「大井宿本陣」 解説板
大井宿本陣跡標柱