川越城は、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の家臣である太田道真・道灌父子によって築城されました。当時、持朝は古河公方足利成氏と北武蔵の覇権を巡る攻防の渦中にあり、川越城の築城はこれに備えたものです。天文6年(1537)、小田原を本拠地とする後北条氏は川越城を攻め落とし、同15年の川越夜戦によって北武蔵への支配を盤石なものとします。しかし、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻略に際しては前田利家に攻められて落城します。江戸時代になると、川越城は江戸の北の守りとして重視され、親藩・譜代の大名が藩主に任じられました。寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は城の大規模な改修を行い、川越城は近世城郭としての体裁を整えるにいたりました。中ノ門堀はこの松平信綱による城の大改修の折に造られたものと考えられます。また天下が治まって間もないこの時代、戦いを想定して造られたのが中ノ門堀だったのです。
 現在地のあたりには、名前の由来となった中ノ門が建てられていました。多加谷家所蔵の絵図によれば、中ノ門は2階建ての櫓門で、屋根は入母屋、本瓦葺1階部分は梁行15尺2寸(4.605m)、桁行30尺3寸1分(9.183m)ほどの規模でした。棟筋を東西方向に向け、両側に土塁が取り付き、土塁の上には狭間を備えた土塀が巡っていました。

 中ノ門堀は戦いの際、敵が西大手門(市役所方面)から城内に攻め込んだ場合を想定して造られています。西大手門から本丸(博物館方面)をめざして侵入した敵は中ノ門堀を含む3本の堀に阻まれて直進できません。進撃の歩みがゆるんだところに、城兵が弓矢を射かけ鉄砲を撃ちかけるしくみでした。また、発掘調査ではす城の内側と外側で堀の法面勾配が異なることがわかりました。中ノ門堀の当初の規模は深さ7m、幅18m、東側の法面勾配は60度、西側は30度でした。つまり、城の内側では堀が壁のように切り立って、敵の行く手を阻んでいたのです。 明治時代以降、川越城の多くの施設・建物が取り壊される中、中ノ門堀跡は旧城内に残る唯一の堀跡となりました。川越城の名残をとどめるこの堀跡を保存してゆこうという声が市民の間から起こり、川越市では平成20・21年度に整備工事を行いました。

中ノ門堀のしくみ

川越城と中ノ門堀

中ノ門堀跡