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旧青梅街道    (奥多摩~奥多摩湖)


平成30年7月11日(水)    ☀/☁    奥多摩~奥多摩湖  9.5㎞
前回(H26.9.23)以来、約4年ぶりに奥多摩の先へ進んでみることにした。旧青梅街道は、奥多摩駅から奥多摩湖まで 「奥多摩むかし道」 として整備されており、路傍には石碑や石塔などがあり、旧街道の面影を残している。奥多摩湖(小河内ダム)の先はダムの湖底に沈んでしまい、うかがい知ることは出来ないが、「水と緑のふれあい館」 の周囲に旧街道にあった石碑・石塔が安置されている。今回は、いつも山中を歩くときに一緒の友人と二人での街道歩きである。旧青梅街道は、ダムの先で小菅村を通り、大菩薩峠を越えて塩山に繋がっているが、一旦、ここで終了とする。

奥多摩駅 大木戸稲荷神社 森と泉と生命の木 奥氷川神社
新宿駅を8時19分に出発し、途中、青梅駅で1回乗り換えると奥多摩駅には10時05分に到着する。
青梅線の列車内は中高年の登山客が多く見られるが、大半は途中の御嶽駅や鳩ノ巣駅で下車した。
奥多摩駅玄関を出ると、駅前広場の左手に大木戸稲荷神社がある。
ご祭神は宇迦之御魂神であり、奥多摩登山をする際は、ここで道中の安全を祈願していく。
奥多摩駅前の道路脇左手にスギをモチーフにした大きなモニュメントが建っている。
木の枝には、奥多摩町の人々の姿、太陽や月、動物たちが象られている。
青梅街道の奥多摩駅入口交差点の左手には、奥氷川神社がある。
奥氷川神社は、日本武尊が東国平定の際に素戔嗚尊・大己貴命を祀って創祀したのが始まりと伝えられており、大宮市の氷川神社、所沢市の中氷川神社と共に武蔵三氷川の一社と言われている。現在の本殿は元禄年間(1688-1704)に建てられたもので、境内には両論社・神明社・熊野神社・稲荷神社などの境内社がある。

氷川大橋 旧家 むかし道案内板 旧道口
奥氷川神社を出ると、日原川に架かる日本百名橋の一つである氷川大橋がある。
日原川は雲取山を中心とする奥多摩山域に源を発するいくつかの沢を集めて流れ、途中には都指定天然記念物の日原鍾乳洞などもあり、下流で多摩川に合流している。
氷川大橋を渡ると、左手に板壁が美しい旧家が建っている。 旧家を過ぎて氷川郷麻葉の湯・三河屋旅館を左手に見ると、直ぐ先の右手筋角にむかし道案内板が建っている。
案内板には35m先左折と記され、その脇には石柱の道標が建っており、この先、要所要所でお目に掛かる道標である。
旧青梅街道(むかし道)は、左手の山に向かって坂道が延びている。
旧道口には木製道標があり、左 「奥多摩むかし道奥多摩湖方面」、右 「六ツ石・鷹ノ巣・雲取山登山口」 と記され、その左脇に石柱道標が建っている。

羽黒三田神社 旧道 水根貨物線トンネル 小橋
旧道に入って直ぐ、かなり急な羽黒坂を進むと、右手に羽黒三田神社の参道石段がある。
羽黒三田神社は、貞観2年(860)出雲国の土師連行行基が東国に下向し、御嶽山に詣り神告を得て、高皇産霊神・少彦名神の二神を祀り、穴澤神社と号したのが始まりと言われている。石段の上の鳥居をくぐると、その先に随身門があり、そこから更に石段は続いており、社殿は旧道からかなり外れるので、次回に参拝することとした。
羽黒坂を過ぎて、やや平坦な山道は快適なハイキングコースであり、傍らにはアジサイが咲いている。 先に進むと、右手の段上に水根貨物線のトンネルが残っている。
水根貨物線は、小河内ダムを建設するために施設されたもので、昭和27年(1952)から5年間だけ運行された。この先何か所か線路や鉄橋などの遺構が残っている。
旧道が右に曲がったところで、沢に架かる小橋があり、この橋の下方に水根貨物線の鉄橋が架かっている。

馬頭観音 槐(サイカチ)木 水根貨物線鉄橋 三軒家
右手の山道(車道)と合流する手前に祠があり、馬頭観音が安置されている。
合流する山道(車道)の傍らには、観音菩薩・地蔵菩薩などの石造物がたくさん安置されている
石造物のところから下り坂の舗装路となり、先に進むと左手に公衆トイレがあり、その右手に槐(サイカチ)木が立っている。
この土地の名称(氷川字槐木)に所縁の古木であり、この向かいには、正徳2年(1712)の念仏供養塔・文化13年(1816)の罵倒観音が安置されている。
舗装路を下っていくと、右手の崖上に水根貨物線の鉄橋が見えるところが2~3箇所ある。 更に下ると左手に三軒の家が並んでいる。

石仏窟 如意輪観音 桧村集落 分岐
三軒家の直ぐ先の右手崖面に石仏窟があるが、石仏は見当たらず、代わりに小さな大仏様が祀られている。
心無いものが持ち去ったのであろうか。
石仏窟から100mほど下った右手の擁壁に、風化の進んだ如意輪観音と観音菩薩が安置されている。 更に下っていくと左手眼下に桧村集落が見え、下りきったところで国道411号線から枝分かれして上ってくる道に合流する。
合流地点には、木製道標と石柱道標が建っている。
合流地点から上りの坂道を進み、右手にひむら浄水所の建物があるところで、左手の坂道を直進していく。
ここにも木製道標 「奥多摩湖・むかし道」 と石柱道標 「奥多摩むかしみち」 が建っている。

石段 舗装路合流 小中沢橋 境の清泉
急坂を上っていくと正面にパイプ柵のある石段が見える。
この石段を上っていくと、途中左手に木製道標と石柱道標があり、ここを左折して下っていく。
道標を左折して下っていくと、左からの回り込んでくる舗装路に合流する。
この合流地点には、木製道標 「奥多摩湖・むかし道」、石柱道標 「左さかい白髭神社・右さいかちぎ」 が建っている。
合流した先を進むと、やや下り坂となり、右手の山肌には落石防止の金網が張られ、下りきったところで小中沢に架かる昭和60年(1985)3月竣工の小中沢橋を渡る。
小中沢には透き通ったきれいな水が流れ、山肌からは絶えず水が流れ落ちている。
先に進んで境集落に入ると、左手に手摺の付いた石段があり、下っていくと一本下の道に境の清泉(湧水)がある。
この名水は境の名物 「祥安寺山葵」 を栽培し、将軍家へも献上されたと伝えられている。

分岐 白髭神社 弁慶の腕ぬき岩 耳神様
境の清泉から上がってくるところが、分岐になっており、右手の土道が旧道である。
ここにも木製道標 「むかし道・奥多摩湖」、石柱道標 「左白髭神社・小河内村、右桧村・奥多摩駅」 が建っている。
土道の旧道を進んでいくと、右手段上に白髭神社がある。
ご祭神は神武天皇御東征の際、海上水先案内した塩土翁神(しおつちのおきなのかみ)で、社殿は都指定天然記念物の白髪大岩の側面に鎮座している。
白髭神社から程なく左手に弁慶の腕ぬき岩がある。
高さ約3mの自然石で、下方に腕が入る程の穴があることから、旧道往来の人々に弁慶が抜いたものとして親しまれてきたという。
弁慶の腕ぬき岩から10mほど先、右手の岩窪に耳神様がある。
昔、医療が不自由な頃、耳だれや耳が痛いときは、
穴の開いた小石を見つけて供え、一心に祈ったという。

道祖神 道標 いろは楓 梅久保集落
耳神様から土道を下ってくると、右手の岩窪にひっそりと道祖神が安置されている。 更に下ってくると、右手の国道411号線(青梅街道)から枝分かれしてくる道との合流地点に、木製道標 「むかし道・奥多摩湖」、石柱道標 「左さかい村・奥多摩駅、右惣岳渓谷・小河内村」 が建っている。 道標から20~30mほど先、左手に推定樹齢200年のいろは楓の巨樹が三本立っている。
見頃は11月下旬頃と言われている。
いろは楓から程なく梅久保の集落がある。
梅久保は5~6軒ほどの小集落であり、集落から右手の国道411号線の梅久保バス停へ上がる階段脇に石柱道標 「左惣岳渓谷・小河内温泉、右さかい村・奥多摩駅」 が建っている。

薪が積まれた民家 成田不動尊 惣岳の公衆トイレ 塩乃澤橋
街道左手に惣岳渓谷を見て進むと、たくさんの薪が積まれた民家がある。
かつての山里の面影を残した懐かしさを憶える風景である。
薪が積まれた家の直ぐ先右手に惣岳の成田不動尊がある。
明治時代、水銀の奥平大乗法印と信仰心の厚い惣岳の奥平庄助によって成田不動尊を勧請し、祭祀したという。
現本殿・覆屋は、昭和10年(1935)に再建され、近郷の人々の信仰を集めている。
成田不動尊の直ぐ先に真新しい惣岳の公衆トイレがある。 惣岳の公衆トイレから100mほど進むと、塩の沢に架かる塩乃沢橋がある。

惣岳渓谷 厳道(がんどう)の馬頭様 しだくら吊橋 縁結び地蔵尊
塩乃澤橋を渡った左手は、惣岳渓谷である。
街道脇の解説板によると、太古以来の大洪水と、近くは寛保2年(1742)・明治40年(1907)の奥多摩一帯を襲った未曽有の大水害によって、多摩川南岸しだくら谷より押し出した多数の巨岩怪岩が累々として 「惣岳の荒」 と呼ばれる渓谷美となっている。
惣岳渓谷の案内板から程なく、右手の防護ネットの中に厳道の馬頭様がある。
かつては人ひとりが通れるほどの細道であり、多くの馬が谷底へ落ちて死んでしまったため、その供養のために多くの馬頭尊が造立されたという。
しかし、ここも心無い者によって馬頭尊は持ち去られ、台座だけが残っている。
厳道の馬頭様から50~60m先の左手に、惣岳渓谷に架かる定員5名のしだくら吊橋がある。
かつては、巨岩から巨岩を繋ぐように杉の丸太を4~5本ずつ藤蔓で結んだものであったという。現在はネットが張られた吊橋であるが、橋板はかなり薄く、歩くたびにきしみ揺れるので、真中の鉄鋲がある部分を歩いた。渡り詰めには小社があり、ここで暫し休憩を取った。
街道に戻って、直ぐ先の急カーブを右に回ったところに縁結び地蔵尊がある。
右手に縁結び地蔵尊の解説板が建っているが、地蔵尊らしき石仏は後ろの斜面上方にあるので、一舜探してしまった。一見、地蔵尊と言われれば、それらしく見えるが、
よく見ると頭に馬の頭を付けた馬頭観音であり、隣に馬頭観音碑も建っている。

板小屋橋 馬の水飲み場 牛頭(ごず)観音 虫歯地蔵尊
縁結び地蔵尊の先の小さな沢に、昭和6年(1931)竣工の板小屋橋が架かっている。
この橋の名前の由来となったかどうかは不明であるが、橋の下方に赤い屋根の家が、斜面ぎりぎりに建っている。
板小屋橋から120~130mほど先に奥多摩寮という廃屋があり、その近くに馬の水飲み場がある。かつては、ここで馬を休ませ、馬方衆は立場茶屋で一服したという。 更に馬の水飲み場から200m弱進んだ右手の防護ネットの中に牛頭観音がある。
旧道の難所にある観音様で、牛馬の通行の無事息災を祈った観音様である。解説板は向いの街道脇にあり、先に解説板が目に飛び込んでくるので、観音様は一瞬探してしまう。
牛頭観音から100m程進むと、左手に茶屋榊があり、その向かいの段上に虫歯地蔵尊がある。
歯医者のいない昔は、歯痛には煎った大豆を供えて平癒を祈ったという。

玉堂歌碑 道所吊橋 休憩ポイント 西久保の折り返し
虫歯地蔵尊前のカーブを右に曲がった左手に玉堂歌碑がある。
川合玉堂は、明治6年(1873)愛知県に生まれた日本画家であり、山村や自然を情緒豊かに描き、短歌も残している。
この歌は、玉堂が29歳の時に、小河内に絵を描きにやってきたときに詠んだものである。
街道を先に進むと、左手に道所吊橋がある。
この吊橋も定員5名であり、しだくら吊橋同様に橋板は薄いが、それほど揺れなかった。
街道をどんどん進んでいくと、西久保の折り返しの手前に休憩ポイントがあり、奥多摩町発足40周年を記念に植樹された楓の木が数本立っている。 西久保の折り返しの奥は小河内ダムへの道で閉鎖されており、案内板の隣に石柱道標が建っている。

旧道口 急坂 集落 浅間神社
西久保の折り返しから坂道を50~60m登ると、左手に旧道口がある。
ここには木製道標 「奥多摩むかし道・奥多摩湖方面」、石柱道標 「奥多摩むかし道」 があり、土道の細い登山道になる。
土道は一気に急坂となり、左の谷側にはロープが張られており、途中の分かりづらいところには、石柱道標があるので、迷わずに登っていくことが出来る。 ほぼ登り詰めたところに集落がある。
街道は集落に入らずに、左に折れて民家の脇を抜けていく。
先に進むと右手の山腹に浅間神社がある。
浅間神社は、奥多摩むかし道の中では、最高所(約620m)のところに位置しているが、拝殿があるところは周囲の木々の枝葉により眺望は良くない。

沢に架かる橋 タキノリ沢 青目立不動尊 分岐
浅間神社を過ぎると長い下り坂となり、右手の山側は岩がゴロゴロして、落石注意の案内もある。 谷側の柵が途切れるところで、タキノリ沢に架かるコンクリート製の橋がある。
この橋の渡り詰めを左に下ると国道411号線に出るが、旧道は直進して再び急坂の登り道となる。
この分岐には、木製道標・石柱道標のほか、水根新道の碑が建っている。
タキノリ沢から山道を登っていくと、石畳の左手に青目立不動尊がある。
青目立不動尊は修験法印(山岳修行の最高位験者)の奥平家で、一堂に不動明王・薬師如来・弘法大師を祀り、悪魔退散・衆生済苦を祈願し村人を守護して人々の暮らしに光明を与えてきた。ここはお休み処となっており、庭先からは奥多摩湖(小河内ダム)が一望できる。
街道に戻って石畳を登り詰めると分岐があfり、木製道標が建っている。
右は六ツ石山へ向かう道で、街道は左に折れて青目立不動堂を回り込むように進んでいく。

水根林道合流 むかし道入口 水と緑のふれあい館 奥多摩湖
先に進むと水根林道に突き当たり、林道に降りたら左に下っていく。
ここには石柱道標が建っている。
どんどん下って国道411号線に突き当たったところが、奥多摩湖側のむかし道入口である。
ここには木製道標と石柱道標があり、国道411号線沿いむかし道案内板などがある。
奥多摩湖畔に出ると 「水と緑のふれあい館」 があり、建物の周囲に奥多摩湖に沈んだ街道の路傍などにあった石碑・石造物などが数多く安置されている。 奥多摩湖は正式名称を小河内貯水池と言い、昭和32年(1957)に小河内ダムによって多摩川を堰き止めて造られたものである。
ダムの建設にあたって、旧小河内村の大部分が水没し、945世帯の約6000人が移転を余儀なくされた。
奥多摩湖畔には、ダム建設中に殉職した87名の慰霊碑・湖底の故郷碑などがある。
旧青梅街道歩きは、一旦、ここで終了する。
       

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