奥多摩湖は1億8千余万屯の清水を湛え毎日40数万屯に上る東京都民の用水を供給しているが、このダム建設のために、600戸、3000人の小河内村村民は、幾千年来護ってきた祖先墳墓の地に永劫の別れを告げることになり、その哀別離苦の心情は洵に切々たるものがあった。
情熱の詩人島田馨也氏は当時の離村民の心境を汲んで歌謡詩「湖底の故郷」を綴った。
鈴木武男氏作曲、東海林太郎氏独唱で発表を見るや湧然として世の共感を呼び、全国内に愛唱されるに至り、村民もこれに依って離郷の悲想を大いに慰められた。
奥多摩湖建設当初から曲折を知る飛田栗山氏の推薦により大方の協力を得て、湖底の故郷の歌碑を此処に建て、離郷民の哀感を永く世に伝えると共に、都民の命水を貯える奥多摩湖が永久に清浄であることを切に祈念する。
大正15年 「大東京実現を予想し、水道100年の計画を・・・」 と要望した東京市会決議が、小河内ダム建設のきっかけです。当時、東京市は人口の増加や生活習慣の変化による水道使用量の増加に対して、給水能力は限界に近づいていました。
小河内ダムは、昭和7年に建設が決定され、昭和13年11月に始まりましたが、戦争のため昭和18年10月に工事は中断を余儀なくされました。戦後の混乱から少しずつ立ち直り、東京都の人口も再び増え始めた昭和23年9月に工事が再開されました。昭和25年には、国鉄青梅線氷川駅(現奥多摩駅)から、工事現場の水根駅まで専用鉄道の建設が始まり、昭和27年3月の開通とともに、工事も本格化していきました。建設決定から25年、工事開始からは19年、途中戦争による5年間の中断をはさんで昭和32年11月、945世帯の移転と87名の尊い犠牲の下、約150億円の総工費をもって完成しました。
戦前・戦後に渡ったこの工事は、大型機械を輸入するとともに国家的プロジェクトとして位置づけられ、当時の最先端土木技術で施工されました。水道専用ダムとしては国内最大で、現在でも都民の貴重な「水がめ」の役割を果たすとともに、「奥多摩湖」
の愛称で多くの人々に親しまれています。
小河内ダム
小河内ダムの概要
中央のダム展望塔からダム下流を望む
コンクリートを運搬するために使用する容器をコンクリートバケットと呼びます。展示のコンクリートバケットは、小河内ダムの建設で実際に使われたもので、1回の運搬で6㎥のコンクリートを運びました。
コンクリートバケット
ドラム缶浮橋
ダム建設で殉職した87名の慰霊碑
奥多摩湖の湖面には麦山(220m)、留浦(212m)の2ヶ所に浮橋が架かっています。この浮橋はダム建設に伴い湖底に水没した対岸との通行路の代替として設置されました。現在は、ポリエチレン・発泡スチロール製の浮子の橋ですが、設置当初は展示のドラム缶が使用されていました。
小河内ダム
奥多摩湖
湖底の故郷歌碑建立の辞
湖底の故郷碑 (表面)
湖底の故郷碑 (裏面)
夕陽は赤し 身は悲し 涙は熱く 頬濡らす さらば湖底の わが村よ 幼なき夢の 揺りかごよ