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日光街道   (水無~日光)


平成28年11月8日(火)  ☀|☁   水無~日光  14.0㎞
本日は、日光街道の終点日光東照宮までの杉並木中心の街道歩きであり、宿場としては今市宿、そして最後の鉢石宿である。距離的には短いが下野大沢駅から街道に出るまでに2.9kmあるので、宇都宮は早朝の出発である。

宇都宮餃子館 杉並木入口 小社 杉並木
昨夜は宇都宮駅東口に宿を取ったので、東口イベント広場の宇都宮餃子館で夕食を採った。
店内には多くの芸能人の色紙が貼られ、店の外壁には写真が貼られている。
広場には、マスコットのスタミナ健太像・弁財蛇・福虎像・宇都宮出身の横綱明石志賀之助像など色々な石造物が置かれている。
水無交差点の先を進むと、かどや建具店の先で杉並木が始まる。
杉並木の入口には、「特別保護地域・普通地域」 の道標が建っている。
杉並木に入って間もなく左手段上に覆屋があり、中には赤鳥居と小社がある。
近くに説明板もなく、扁額もないので詳細は全く不明である。
小社の前から歩道が無くなるため、車に注視して進む必要がある。
今回は早朝であり、車は時折通過するだけであるが、かなりスピードを出しているため恐怖を感じる。

高龍神社 馬頭観音 歩道 砂利道の杉並木旧道
小社から100m程先の左手の小路を入ると杉林の参道の奥に高龍神社がある。
高龍神社の創建年代等は不詳であるが、社殿は街道から見れば、背を向けた状態で南を向いて建っている。
内には明治45年(1912)の石燈籠、昭和4年(1929)の手水石・狛犬が建っている。
街道に戻ると街道左手の杉の根元に大正4年(1915)の馬頭観音が建っている。 馬頭観音の先から左手に歩道があり、土道を歩くことができる。
車道の脇を歩くことはできるが、杉の植えられたところは車道より高くなっているため、大型車を避けるときは、やや危険がある。
日光森林管理署の看板がある所で、国道119号線と別れて右に入ると、砂利道の杉並木となる。

第二接合井 下森友 来迎寺 常夜燈
砂利道の街道を進んで行くと、右手の段上に宇都宮市水道第二接合井がある。 第二接合井の先で国道119号線に合流する。合流するところには、道標 「普通地域・特別保護地域」 が建っており、その直ぐ先が下森友交差点である。
下森友は大沢宿と今市宿の中間に位置し、立場があったところである。
下森友交差点を過ぎると、右手に浄土宗の盛朝山来迎寺がある。
来迎寺の創建年代等は不詳であるが、境内には十九夜塔などの供養塔・五輪塔が刻まれた墓石などがある。
来迎寺を出ると右手の植栽がたくさんある家の庭の中に、「寛政9年(1797)男体山」 と刻まれた常夜燈が建っている。

今市の水 瀧尾神社 杉並木 さくらすぎ
森友交差点を右折すると右手に 「今市の水」がある。
ここには湧水が流れ出ており、おいしい水の由来があり、今市の水は 「水温12度、残留塩素0.2ml、硬度40、臭気度0」 などと記されている。
「今市の水」 の先に瀧尾神社がある。
瀧尾神社は、建長4年(1242)御深草天皇の御代に森脇の腰掛の地に祠を健立し、田心姫命
(たごりひめのみこと)を祭神に奉斎されたことが始まりと云わる。拝殿に下がる大注連縄は二本の縄が父と母を、ふさはしめの子といい三人の子供を表している。
境内には安産子宝祈願の腰掛石、三春の滝桜などがある。
瀧尾神社から森友交差点に戻ると、国道119号線の右脇から杉並木が復活する。
この道は一方通行路になっているが、ほぼ車の通行は無い。
進んで行くと樹回りの太い杉が多くなり、石垣に根がはみ出したもの、根から2本・3本と分かれたもの、樹の割れたものなど、色々な姿の杉がある。
杉並木の左手に奇妙な木がある。
杉と桜の木が長い年月をかけて完全に一体化したもので、さくらすぎと呼ばれている。

七本桜一里塚 第一接合井 七本桜交差点 東武日光線
杉並木を先に進むと街道右手に七本桜の一里塚がある。
塚上には根元が空洞になった大きな杉の木があり、空洞には大人が4人入れることから 「並木ホテル」 と呼ばれている。
ここは江戸日本橋から数えて33里目の一里塚である。
更に進むと街道右手の段上に宇都宮市水道第一接合井がある。 宇都宮市水道第一接合井の直ぐ先で、右から国道461号線が国道119号線に突き当たる。
ここは七本桜という地名であるが、昔あったという七本の桜は残っていない。
七本桜交差点を渡って先に進むと、杉並木の間を東武日光線の高架が横切っている。

追分 追分地蔵尊 例幣使街道 大乗寺
東武日光線の高架下をくぐり、更に進んで小倉歩道橋を渡ると、その先で国道119号線に合流する。
ここは日光街道と例幣使街道の追分にあたる。
日光街道と例幣使街道の追分に地蔵堂があり、通称 「追分地蔵尊」 と呼ばれている。
地蔵尊は、高さ2.9m・肩幅1.4mで、鎌倉時代から室町時代にかけて作られたと云われ、八代将軍吉宗の社参のときに、既に現在地に祀られていたという。
境内には、寛政7年(1795)の道標・寛政12年(1800)の庚申塔・くさ地蔵尊・二十三夜尊などがある。
追分地蔵尊の右手から例幣使街道の杉並木が西に向かって延びている。
例幣使街道は、毎年京都の朝廷から日光東照宮へ幣帛(へいはく)を奉納する勅使(例幣使)が通った道である。中山道の倉賀野の追分から太田、佐野、富田、栃木を経て、ここで日光街道に合流している。
追分の前の小倉町交差点を渡って、最初の右手小路を進むと浄土宗の仏頂山玄樹院大乗寺がある。
大乗寺の創建年代等は不詳であるが、天保14年(1843)と明治36年(1903)の火災によりに堂宇は焼失した。参道入り口の左手には、今市で最も古い蔵助地蔵と呼ばれている首のない地蔵菩薩がある。

報徳二宮神社 渡辺佐平商店 船村徹記念館 いまいちの水
大乗寺の北隣に報徳二宮神社がある。
参道口は街道に面しており、入口を進むと突当りに大きな一の鳥居があり、続いて二の鳥居がある。
報徳二宮神社は、今市が終焉の地となった二宮尊徳を祀って、明治31年に創建された。
本殿の裏手には、栃木県指定史跡に指定された二宮尊徳の墓所がある。
街道に戻ると直ぐ左手に日光の地酒渡辺佐平商店がある。
渡辺佐平商店は、天保13年(1842)の創業で、主な銘柄に純米大吟醸清開・純米吟醸日光誉・きざけ日光誉がある。
渡辺佐平商店の向かいは、道の駅 「日光街道ニコニコ本陣」 となっており、この中に作曲家の船村徹記念館がある。
船村徹氏は、栃木県生まれで、日光市内の高校を卒業し、約30年前からこの地で作曲活動をしている。「別れの一本杉」、「王将」 などのヒット曲が有名である。
ショッピングプラザ日光の前に 「いまいちの水」 があり、湧水が流れ出ている。

如来寺 いまいちの水 今市宿市縁ひろば 旅籠跡?
ショッピングプラザ日光の前の信号T字路を右に入って行くと突当りに浄土宗の星顕山光明院如来寺がある。
如来寺は、文明10年(1478)頃、金蓮社暁譽上人により開創されたと言われており、江戸時代は、徳川将軍の日光社参の際の宿泊所になっていたという。
境内には、本堂・鐘楼・観音堂・地蔵堂・弁天堂・星之宮などがある。
街道に戻ると直ぐ先の信号交差点左にあるポケットパークに 「いまいちの水」 が湧き出ている。 春日町交差点を過ぎると、右手に今市宿市縁ひろばがある。
ここは日光の観光案内を始め、歴史・文化・産業・イベントなどの情報を得られる施設であり、一角には明治天皇御小休之蹟碑・今市宿(二宮尊徳翁終焉の地)標柱などがある。
今市宿市縁ひろばを出ると左手に旅籠らしき造りの建物がある。
建物入口の両脇には、親フクロウが子フクロウを頭に乗せた石像が建っている。

浄泉寺 瀧尾神社 愛宕神社 朝鮮通信使客館跡
杉並木が見える手前右手に瑠璃光山清光院浄泉寺がある。
浄泉寺は、元亀3年(1572)の創建で、天明2年(1782)の大火で焼失し、現在は薬師堂だけが残っている。
境内には、沢蔵司稲荷仕法跡の沢蔵司稲荷(そば喰稲荷)・聖徳太子堂・弁財天堂のほか、庚申塔・地蔵菩薩・如意輪観音などの石造物がある。
浄泉寺を出ると杉並木が復活する交差点の左手に瀧尾神社がある。
鳥居脇にある由来碑によると、天応2年(782)勝道上人が日光二荒山(男体山)上に二荒山大神を祀ると同時に、ここ琵琶ヶ窪に祀ったのが始まりという。その後、寛正元年(1460)に改築され、今市宿の総鎮守として崇められる。
境内には八幡宮・八坂神社・琴平神社・雷電神社・菅原神社・稲荷神社などの境内社がある。
杉並木入口の国道119号線との間に愛宕神社の石柱が建っている。 杉並木の街道に入ると右手の日光杉並木公園の中に朝鮮通信使客館跡がある。
ここには江戸幕府に最初の朝鮮通信使が来日して400年になるのを記念して、平成19年に建てられた朝鮮通信使今市客館跡碑がある。
また近くには直径4m50㎝・幅80㎝の重連水車がある。

杉並木 高龗(たかお)神社 水車小屋 瀬川一里塚
ここからの杉並木の道は、アスファルトによる舗装道路ではなく、砂が固められたような感じで歩き易く、旧街道の面影を残している。 街道を進むと右手の段上に高龗神社がある。創建年代等は不詳であるが、境内には元文4年(1739)の不動明王・嘉永7年(1854)の常夜燈などの石造物があり、皇大神宮・八坂神社・愛宕神社・道祖神・日本武尊・稲荷神社などの境内社が並んでいる。 杉並木の右手は杉並木公園が続いており、日本庭園の標柱が建つところに粉ひき水車小屋がある。 水車小屋の先に瀬川一里塚があるが、杉の木は一層大きく密集して、根元も街道から高いところにあるため、完全に見逃してしまった。
この一里塚は、江戸日本橋から数えて34里目の一里塚である。

旧江連家 漢文碑 大日如来堂 七本杉伐採痕
杉並木が途切れる右手に旧江連家がある。
この建物は、今市市小倉の江連家が天保元年(1830)に建築した住家を江連氏から譲り受け、解体移築したものである。
江連家は江戸時代に南小倉村の世襲名主を務めた家で、建築面積は約91坪の木造茅葺屋根平屋建で、間取りは、馬屋・土間・囲炉裏付き居間のほか、囲炉裏付き茶の間・納戸など座敷が6間あった。
杉並木が途切れたところで石畳の道となり、旧瀬川村集落に入ると直ぐ右手に 「題夏並木公園」 と刻まれた漢文碑が建っている。 漢文碑から程なく杉並木が復活する。
この杉並木入口左手に大日如来の標柱が建っており、左の小路を進むと正面に大日如来堂があり、境内には如意輪観音・弁財天・南無妙法蓮華経題目碑などの石造物と神輿庫がある。
大日如来堂を出ると街道右手に七本の杉の根幹が密着して一株になった巨大な伐採痕がある。
七本の杉は、明治35年(1902)の大暴風雨と大正3年(1914)の強風により折損し、残る5本も老朽化して昭和43年(1968)ついに危険木として伐り倒されたという。

日光彫 杉並木 砲弾打込杉 薬師堂
先に進むと街道左手に日光彫の看板がある。
ここは日光彫の鈴木彫刻工芸であり、彫っているところを見学できる。
日光彫は、東照宮造営のため全国から集められた彫物師が、東照宮完成後、補修や整備に当たる一方で彫物を彫り続け、江戸末期にようやく産業化され、土産物として普及するようになったものである。
杉並木は益々往時の姿を彷彿とさせ、タムスリップしたような感覚になる。
この2㎞弱の区間は、杉並木街道の中でも樹幹は太く・樹高は高く、土道で車も通らないので最適な区間と言える。
街道を進むと右手に砲弾撃込杉がある。
この付近は明治戊辰の役に、官軍が日光に拠る幕府軍を攻撃した際、前哨戦を行った所である。その際、西軍が発砲した砲弾が杉の木に当たり、幹が損傷したが現在まで成長しているものである。
先に進むと右手に薬師堂がある。
かつて、ここには青雲山竜蔵寺という寺があったと云われ、薬師堂の前に大きな石の釣鐘が置かれている。竜蔵寺は資力が無かったことから、金属製の釣鐘を造ることが出来ないため石の釣鐘を造ったという説がある。
御堂の横には安永9年(1780)の十九夜塔・念仏供養塔、徳本の南無阿弥陀仏名号碑、男根形の金清様などがある。

国道119号線合流 常夜燈 弘法之霊水 生岡神社参道口
薬師堂から7~800m程先で国道119号線に合流する。
ここには道標 「←普通地域・保護地域→」 があり、この先に歩道は無く道路の脇を歩くので、車が身近を走り注意が必要である。
合流して間もなく左手に常夜燈が建っている。
この常夜燈は、生岡山王と刻まれた日枝神社の常夜燈であり、直ぐ脇を走るJR日光線の線路脇にも弁財天・生岡山王と刻まれた石碑がある。
日枝神社は、ここより南西のJR日光線と日光宇都宮道路を越えたところにある。
常夜燈の直ぐ先に弘法之霊水と書かれた標柱が有る。
藪を踏み分けてJR日光線のところまで行ったが、JR日光線の向こうに水が出ているところがある。しかし、何の表示もなくそれでは無さそうで、結局、不明であった。
杉並木は、弘法之霊水標柱から復活する。
杉並木を進むと左手に村社生岡神社社標が建っている。
社標の先は、JR日光線で途切れているが、手前には如意輪観音・生岡大日堂碑がある。
生岡神社は、ここよりJR日光線と日光宇都宮道路を越えたところにある。

並木太郎 明治天皇七里御小休所跡 筋違(すじかい)橋 小社
生岡神社参道口から程なく右手に並木太郎と呼ばれる杉の木がある。
杉並木の中で一番大きな杉であり周囲5.35m、樹高38mで、姿が美しく端正なことから 「並木太郎」 と呼ばれる。
街道を進んで杉並木が途切れると左手に明治天皇七里御小休所跡がある。
ここは明治9年(1876)明治天皇が東北巡幸の際に御小休をされたところである。
七里集落で杉並木が途切れ途切れになり、宝殿交差点を過ぎると、その先に志度淵川に架かる筋違橋がある。
志度淵川と街道が筋違いに交わっていることから、このが付いたという。橋の袂左手には地蔵堂があり、赤い頭巾と前掛けをした小さな筋違地蔵尊が安置されている。
筋違橋の渡り詰め右手に小社があるが、詳細は不詳である。

石祠・石碑 JR日光線高架 勝善神・馬力神 日光並木街道碑
筋違橋を渡った先にY字路があり、左手の砂利道の杉並木を進むと右手の杉の中に石碑と石祠がある。
逆光で文字は判読できず、何を祀っているか不明である。
砂利道の杉並木を抜けると国道119号線に突き当たり、直ぐにJR日光線の高架下をくぐって行く。 JR日光線の高架をくぐると直ぐ右手段上に杉並木がある。
杉並木は50mほどで東和町交差に出るが、この出口左手に勝善神・馬力神が建っている。
東和町交差点を過ぎると、次の相生町交差点左手に二基の日光並木街道及並木寄進碑が建っている。
並木道はこの先の東武日光駅前交差点の手前で終了する。この辺りに日光街道最後の宿場である鉢石宿木戸跡があったという。天保14年(1843)の記録によれば、鉢石宿は本陣2軒・旅籠19軒・人口は985人であったという。

東武日光駅 最勝寺 十王堂 石屋町家体庫
最後の杉並木を抜けると右手に東武日光駅がある。
この先は次第に坂道となり、正面に日光連山の山並みが見える。
よく整備された街道を進み、日光消防署の斜向かいにあたる左手小路を入って行くと日蓮宗の謙徳山最勝寺がある。
最勝寺の創建年代等は不詳であるが、境内には大黒天を祀った御堂、稲荷神社、子育地蔵尊、生物供養碑などがある。
最勝寺の南に流れる志渡淵川に架かる志渡淵橋を渡ると、龍蔵寺墓地の中央に十王堂がある。
十王とは、大王と呼ばれる閻魔王と、地獄で死者の生前中の功罪をさばく十王の総称であり、御堂の前に、この十王像が祀られている。
この墓所には、寛文2年(1662)の日光稲荷町大洪水で亡くなった140余名の供養塔、日光東照宮神馬4頭の墓などがある。
街道に戻ると日光消防署の隣に石屋町街区公園があり、公衆トイレが設置された石屋町家体庫がある。
家体庫には、近年まで日光二荒山神社の拝殿脇に展示されていたという、嘉永5年(1852)に完成した本家体が収納されている。

龍蔵寺 稲荷神社 虚空蔵堂(大杉神社) 大横町の歴史
日光消防署の直ぐ先右手に十王堂を管理している天台宗の龍蔵寺がある。
龍蔵寺は、源頼朝の忠臣畠山重忠の末子重慶が庵を建てたのが始まりと云われ、その後、鎌倉幕府に謀反を企てたと誤解され首を斬られた重慶を弔うために寺が建てられた。
境内には、重慶阿闇梨の墓碑、二十三夜尊の地蔵堂、下野坂東三十二番の観音堂、不動堂などがある。
龍蔵寺の境内裏を抜けると稲荷神社がある。稲荷神社は、建保6年(1218)京都御所鎮護の稲荷神を勧請し、元は日光山北方の女峰山を源流とする稲荷町にあったが、寛文2年(1662)の大洪水により稲荷町が壊滅したため、翌寛文3年に稲荷町住民の集団移住とともに、この地に遷座した。境内には、男体山を遥拝して引き返した 「西行戻石」 と西行歌碑、元禄2年(1689)から天保15年(1844)までに建立された庚申塔が並んでいる。 稲荷神社前の道を街道に並行して100m程進むと右手段上に虚空蔵堂(大杉神社)がある。
この虚空蔵尊は、寛永17年(1640)神橋右岸の磐裂神(虚空蔵尊)を分祀し、東町六ヶ町の住民の鎮守として祀られた。
社殿は、御宮造・本朱塗極彩色で栃木県文化財に指定されており、境内には、太子堂・大杉神社神輿庫、日光型庚申塔などの庚申塔が多数並んでいる。
街道に戻って進むと右手にある羊羹の店 「綿半」の隣の小路入口に 「大横町の歴史」 解説板が建っている。
ここは江戸時代東照宮に奉仕する八乙女が多く住んでいた事から、「八乙女横町」 と呼ばれていた。寛文2年(1662)の稲荷町の洪水により流失した火の番屋敷が、大横町に移されたことから 「火の番横町」 とも呼ばれるようになった。火の番を命じられたのが八王子同心と呼ばれた人々で、八王子から日光へ交替制で勤めていたという。

日光連山 観音寺 日光物産商会 二荒山神橋標柱
更に進んで左の日光市役所日光総合支所を過ぎると、街道の勾配は一段と増し、正面に日光連山が見えて来る。 直ぐ先左手に天台宗の鉢石山観音寺がある。観音寺は、弘仁11年(820)、弘法大師による開基と伝えられ、寛永4年(1627)に天海大僧正から 「鉢石山無量寿院観音寺」 の三号を賜り天台宗に改宗した。
山門前に六地蔵尊が並び、山門右手の石仏が並ぶ急な石段を上って行くと、観音寺の発祥の地であったという場所に観音堂がある。本堂前の境内にも観音堂があり、草木塚供養塔・十九夜塔などの石造物がある。
街道に戻ると神橋の手前左手に日光物産商会の土産店がある。
日光物産商会は、明治38年日光金谷ホテルの土産店として創業し、当初は伝統工芸の日光彫や木工品、漆器等の製造・販売を手がけていたが、現在は蕎麦店や土産店が入り、建物は国の登録文化財に指定されている。
日光物産商会の先に二荒山神橋の標柱が建っている。
この左手に板垣退助像があり、道路を挟んだ右手に天海大僧正像が建っている。

二荒山神橋 日光東照宮 二荒山神社 大猷院
日光街道の終点の二荒山神橋である。
この神橋は、奈良時代末期の天平神護2年(766)に勝道上人が日光山を開くとき、大谷川の急流に行く手を阻まれ神仏に加護を求めた際、深沙王
(じんじゃおう)が現れ二匹の蛇を放ち、その背から山菅(やますげ)が生えて橋になったという伝説を持つ神聖な橋である。
ここには神橋を渡る受付所があり、日光橋の袂には与謝蕪村の句碑が建っている。
日光東照宮は、元和3年(1617)徳川初代将軍徳川家康を御祭神に奉った神社である。
徳川家康は、元和2年(16161)4月17日駿府城(静岡県静岡市)で75歳の生涯を閉じ、直ちに久能山に神葬され、遺言により一年後の元和3年4月15日、久能山より日光に移されたものである。
昨年は、家康公400年御忌で7月に訪れているので、詳細は、こちらを参照
日光東照宮の西奥に鎮座する二荒山神社は、天平神護2年(766)勝道上人が開いた神社で、日光三山(男体山・女峰山・太郎山)が御神体となっている。
境内には、神楽殿・神輿舎・大黒殿のほか、樹齢700年の御神木や日枝神社・朋友神社などの境内社がある。
二荒山神社の鳥居の脇から奥に大猷院がある。
大猷院は、輪王寺の本堂・大猷院・慈眼堂・常行堂・中禅寺・大護摩堂・四本龍寺等の堂宇の一つであり、徳川三代将軍家光公の廟所で、境内には世界遺産に登録された22件の国宝、重要文化財、315基の石燈籠が建っている。今年は、徳川家康公400年御遠忌を記念し、大猷院の創建以来、非公開とされてきた秘蔵の 「家康公の御位牌」 が特別初公開されていた。

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