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日光東照宮


平成27年7月22日(水) ☀   東部日光駅 ~ 日光東照宮   <約2.3㎞>
日光東照宮は、元和3年(1617)徳川初代将軍徳川家康を御祭神におまつりした神社である。徳川家康は、元和2年(16161)4月17日駿府城(静岡県静岡市)で75歳の生涯を閉じ、直ちに久能山に神葬され、遺言により一年後の元和3年4月15日、久能山より日光に移されたものである。
現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、寛永13年(1636)に建て替えられたもので、境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物が並び、その豪華絢爛な美しさは見事であり、これらの社殿群は平成11年12月 「世界文化遺産」 に登録されている。

二荒山神橋 世界遺産碑 深沙王堂 表参道
大谷川に架かる日光橋の上流に朱塗の二荒山神橋がある。
この橋は二荒山神社の建造物で、日光山内の入り口にかかる木造の橋である。
寛永13年(1636)の東照宮の大造替のときに朱塗の橋となったが、明治35年(1902)にそのときの橋は洪水で流され、現在の橋は明治37年(1904)に再建されたものである。日光橋の袂には与謝蕪村の歌碑・天海大僧正像・磐裂霊水がある。
日光橋を渡ると正面に世界遺産碑があり、傍らに慶安元年(1648)松平正信が建てた杉並木寄進碑がある。 神橋の正面の段上に深沙王堂がある。
勝道上人が日光山を開くとき、両岸が絶壁となって流れる大谷川に道を阻まれたため、護摩をたいて神仏の加護を求めると、雲の中から深沙王が現れて2匹の蛇を放ち、 蛇は大谷川に架かり、やがて蛇の背中から山菅が生えて橋となったという伝説の 「深沙大王」 を蛇王権現として祀っている。傍らには神橋付近で最大の推定樹齢550年の太郎杉が聳えている。
深沙王堂の左手に東照宮・輪王寺・二荒山神社の表参道がある。

勝道上人之像 東照宮社標 一の鳥居 五重塔
参道を登って行くと途中に長坂滝があり、その先の輪王寺の前に勝道上人之像がある。
勝道上人は天平7年(735)現在の栃木県真岡市で生まれ、幼少の頃は藤糸丸と呼ばれていた。 藤糸丸7歳のとき、夢の中に明星天子という神が現れて、「あなたはこれから仏の道を学び、大きくなったら日光山を開きなさい。」 と告げられたという。
輪王寺を回り込むように進むと正面右手に大きな東照宮の社標が建っている。
社標の上部の 「別格官幣社」 の文字の上に 「葵の御紋」 が埋め込まれているが、これは第二次世界大戦後にGHQの神道指令により神社の国家管理が廃止されると同時に近代社格制度が廃止になったことから、これを隠すためと言われている。
石段の先の一の鳥居は、元和4年(1618)黒田筑前守長政が奉納したもので江戸時代に作られた石造りの鳥居としては日本最大であり、高さは9m、柱の直径1.2mである。
鳥居の上部に掛かる扁額 「東照大権現」 は後水尾天皇が書いたと言われ、その大きさは畳一枚ほどあるという。
一の鳥居をくぐると左手に五重塔がある。
最初の五重塔は、慶安3年(1650)に初代若狭小浜藩主の酒井忠勝が寄進したもので文化12年(1815)に焼失し、その後、文政元年(1818)に十代藩主酒井忠進が再建したのが現在の五重塔である。
この塔の心柱は礎石に乗っておらず、四重から吊り下げられて浮いており、高層建築の振動を調整する工法がなされている。

表門 三神庫 神厩舎 二の鳥居
五重塔の先の石段を上がると表門がある。
東照宮最初の門で、左右に仁王像が安置されているところから仁王門とも呼ばれている。
表門は寛永12年(1635)に建てられたもので、三間一戸、単層八脚門、切妻、銅瓦葺き、東西に延長120間に及ぶ簓子塀が付いている。
表門を入ると右から正面にかけて鉤手のように並ぶ校倉造りの三神庫がある。
三神庫は、表門に近い方から下神庫・中神庫・上神庫で三つ合わせて三神庫という。
内部には百物揃千人行列と呼ばれる壮大な渡御祭の装束1200人分が収められている。
表門をくぐると左手に神馬をつなぐための厩舎がある。
境内で唯一素木の建物で寛永13年(1636)に造営され、現存する大型の神厩建築の唯一の遺構となっている。
建物の欄間に飾られた8個の神猿彫刻は、猿が馬の健康安全を守るという信仰に基づいたものである。
上神庫の隣に日本初の青銅製の鳥居が建っている。
この鳥居は3代将軍徳川家光が建てたもので、この鳥居とその奥の陽明門は真南を向いており、鳥居の上空に北極星が来るように造られている。

手水舎 輪蔵 鐘楼 本地堂
二の鳥居左手に手水舎がある。
寛永12年(1635)に建てられた唐破風屋根、銅瓦葺きの建物で、手水鉢は元和4年(1618)に九州鍋島藩主が初代将軍徳川家康3回忌に奉納したもので、滝尾神社付近から水を引き神庫裏の石垣から落ちる水の圧力で水が噴き上がる仕組みになっているという
手水舎の隣に輪蔵がある。
輪蔵は重層宝形造という二重になった屋根が特徴で、下層、上層には極彩色の彫刻が施されている。内部には、輪蔵といわれる八角形の回転式大書架があり、天海版の一切経1456部、6323巻が納められているという。
輪蔵の前の石段左には、島津家久奉納の銅製燈籠があり、石段右には伊達政宗奉納の南蛮鉄燈籠がある。
石段を上がった参道右側に鐘楼があり、左側に同じような建物の鼓楼がある。
鐘楼の前には梵鐘があり、鼓楼の前にはオランダ東インド会社から奉納された八角形の大きな回り燈籠とローソクンの火で回転する釣燈籠がある
鼓楼の奥に本地堂がある。
東照宮境内最大の建物で、東照大権現(徳川家康の御霊)の本地仏が薬師如来だった事から本尊として薬師瑠璃光如来像が祀られ薬師堂とも言われていた。また 「鳴竜」 の天井画で知られ竜の頭の下で手を叩くと、天井と床とで共鳴して鈴を鳴らしたような余韻が聞こえる。現在は説明者が拍子木を鳴らして聞かせている。軒下・壁面に花鳥の彫刻が施されている。

陽明門 唐門 神楽殿 坂下門
陽明門は、御所12門の内の名称を朝廷から賜ったものであり、門には後水尾天皇の御宸筆による 「東照大権現」 の勅額があるため 「勅額門」 と呼ばれたり、装飾彫刻が500余り有り一日見ても見飽きないことから 「日暮門」 とも呼ばれている。現在、陽明門は平成25年(2013)から約6年間の予定で修理工事が行われているため見ることができない。陽明門の両脇に延びる回廊には我が国最大級の花鳥の彫刻が施されている。 陽明門をくぐると正面に本殿入る唐門がある。
唐門は貝殻をすりつぶした故粉で塗られた繊細な小さな門である。
屋根の上には昼を守る竜と夜を守る恙の像があり、長押には中国の聖人賢者の堯、舜、巣父、許由、竹林七賢、 仙人、七福神、花鳥、水鳥が施されている。
唐門からは大きな祭典と国賓相当の参拝者しか中に入ることは出来ない。
唐門を右に進むと神楽殿がある。
神楽殿は寛永12年(1635)に建てられ、中は三室に分れており、前に舞台、後ろは装束の間で春秋の大祭の時八乙女(二荒山神社の巫女)が神楽を奉納する。
神楽殿の反対側に神輿舎があり、3基の神輿が収納されている。
神楽殿の先の回廊をくぐると坂下門があり、坂下門から石段を200段ほど上ると家康公の御墓所奥宮がある。
回廊の上には左甚五郎作と伝わる有名な眠猫の彫刻があり、その裏に雀の彫刻がある。
日の光を浴びて転寝をする猫とその傍らで遊ぶ雀の姿が平和を象徴しているという。

三の鳥居 奥宮拝殿 鋳抜門 奥宮宝塔
石段を上ると東照大権現の扁額の掛かる青銅製の鳥居があり、鳥居の右手には承応3年(1645)創建の御宝蔵がある。
外部全体は青銅で覆われており、中には朝廷から家康公・東照宮に贈られた官符宣命等の文書が納められている。
御宝蔵の前の数段の石段を上ると正面に奥宮拝殿がある。
奥宮拝殿は寛永13年(1636)に建てられたもので、建物全体が銅板で覆われており、その上に黒漆が塗られている
この拝殿には将軍以外昇段参拝が許されなかったという。
奥宮拝殿の奥に鋳抜門がある。
鋳抜門は唐銅で屋根・柱・壁などを鋳造し、それを組立てたもので、慶安3年(1650)に建立された。
鋳抜門の製作者は鋳物師の椎名伊豫で、鋳抜門の両脇に鎮座する狛犬は創建当時は木製であったが、慶安3年(1650)鋳抜門が再建された際に銅製に造りかえられた。
鋳抜門の真後ろに奥宮宝塔がある。
奥宮宝塔は徳川家康の墳墓の上に建てられたもので当初は木造であったが、天和3年(1683)将軍綱吉公の時に鋳物師の椎名伊豫により唐銅製に鋳造された。
宝塔前の燭台・香炉・花瓶は朝鮮国王の奉納品であり、一角には樹齢約600年の叶杉がある。

御仮殿 大護摩堂 本宮神社 四本龍寺観音堂
一の鳥居を潜って右に進むと御仮殿がある。御仮殿は、本社を修理する際、御祭神を一時的に移してお祀りする建物で、現在の社殿は寛永16年(1639)の建立である。
御仮殿ではあるが、御本社と同じく拝殿・相の間・本殿からなる権現造りで、御祭神が御仮殿に移っているときは、全ての神事が御仮殿の境内で行われるという。
日光山輪王寺三仏堂の裏手に大護摩堂がある。大護摩堂の内陣には、ご本尊の五大明王を中心に、七福神や十二天など30躰の仏像・祖師像がお祀りされている。
御堂の前には、比叡山の宝塔に擬して建てた高さ15mの相輪橖・唐銅製燈籠・石塔などがある。
神橋の交差点を渡ったところに本宮神社の入り口がある。日光開創の基と云われるが、ほとんどの人が輪王寺や東照宮へ行くため人の気配がない。
私は輪王寺から御旅所を廻って、本宮神社の脇から入ったため、勝道上人が笈を掛けて休息したという笈掛石の前に出た。
本宮神社の奥に四本龍寺観音堂がある。
天平神護2年(766)大谷川を渡った勝道上人一行は、この地に草庵を結び、四本龍寺を建てた。その後、大同2年(807)下野国司・橘利遠が千手観音を祀る御堂を建立した。
観音堂の隣には朱色の三重塔が建ち、その間に護摩壇がある。