磐裂霊水

板垣退助像

植栽に隠れた板垣退助碑

天海大僧正像

120有余年前日光開山の祖勝道上人がこの地に清水を発見し、以来修験者が神仏に供えた霊水と伝えられる。
この水は男体山系湧水で、日本でも最もおいしい水として定評がある。
<傍らの解説より>

板垣退助は、「板垣死すとも自由は死せず」の名言で知られる明治の政治家です。明治初期に自由民権運動を展開し、自由党を編成。土佐(高知)出身。
明治9年(1868)戊辰戦争の時、彼は新政府軍の将として、日光廟に立てこもった大島圭介らの旧幕府軍を説得し、社寺を兵火から守ったと言われます。
その遺徳を讃え昭和4年に建設されたが、最初の像は第二次大戦中に軍需に徴収された。昭和42年に再建。彫刻家、新関国臣の作。

<傍らの解説より>

天海は比叡山で天台宗の奥義をきわめた後、徳川家に仕え、日光山の貫主となる。当時の日光は、豊臣秀吉に寺領を没収され、荒廃の極みにあった。家康が亡くなると天海はその遺言を守り、久能山から遺骨を日光に移して、東照宮の創建に尽くした日光山中興の恩人である。
天海は、寛永20年(1643)108歳で大往生した。この銅像は、日光出身の彫刻家、倉沢実の作。

<傍らの解説より>