庚申塔

猿が向かい合って刻まれた庚申供養塔

五輪塔が刻まれた供養塔

石燈籠

弁財天堂

弁財天堂前のとぐろを巻いた蛇の石像

聖徳太子堂

この神社は、信仰に篤い二宮尊徳の子弥太郎が文久2年(1862)に寄進したが、戦乱に遭い消滅した。その後、弥太郎の子金之亟・延之輔等によって復興した。伝えによると-金之亟の妹に夜泣きする人がいて、そばを献上し、祈願したら直ちに治ったという-以来「そば喰稲荷」と云われるようになった。
今市は、そばのまちとして全国的にその名を聞くところとなったが、そのルーツはここにある。
そばが150年以前から、此の地に存在し神に捧げるものとして尊ばれ、現在まで永い伝統に培われ、守り、愛されて、引き継がれている。

<傍らに建つ解説より>

正一位沢蔵司稲荷大明神御修復料永久増益仕法の遺産である。
文久2年(1862)二宮弥太郎創設
51か年計画(元金12両、終計152両)
日光神領仕法中の特異な神社仕法である。
元金を地元住民に貸与し、一割の利子中3分を浄泉寺祈料、金子取扱世話料、檀家世話方雑用に当て、残り7分を繰り入れた福利計算をもって、稲荷維持の永久的計画をたてた。
仕法6か年後、明治戊辰の戦乱にあい焼失したが、安政2年(1855)弥太郎の長子・二宮金之亟をはじめ、世話人白河屋、傘屋等の尽力により数百人の寄進者を刻んだ玉垣がしている。
仕法様式は大正年間まで継続し、地元に多大の恩恵を与えた。

「沢蔵司稲荷仕法の跡」 解説

沢蔵司稲荷神社 (そば喰稲荷)

沢蔵司稲荷神社本殿

薬師堂本堂

薬師如来の扁額の掛かる御堂内陣

地蔵菩薩坐像 ・ 如意輪観音2基

街道に面した民家脇に建つ浄泉寺道標

浄泉寺薬師堂

薬師堂に掛かる瑠璃殿の扁額

本尊は慈覚大師作の薬師如来が祀られており、脇侍に運慶作の日光菩薩・月光菩薩が祀られているという。