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旧水戸街道   (奥谷~水戸


平成30年5月16日(水)    ☀    奥谷~水戸    12.0㎞
昨日、国道6号線沿いのビジネスホテルで宿泊したが、このホテルは、かつてラブホテルであったもので、内部はほぼ従前のままであり、広さは通常のシングルルーム8室分くらいの広さがあった。昨日の続きは涸沼川に架かる高橋からであり、距離的には午前中に旧水戸街道終点に着ける予定である。

日の出 涸沼川改修記念碑 高橋 旧道痕跡
この時期の日の出は早く、午前5時にホテルの窓を開けると、既に陽は上っていた。
ゆっくりと朝食を済ませ、国道6号線に出て関鉄バスで奥谷へ向かう。
高橋の手前左手の旧富久集旅館前に涸沼川改修記念碑が建っている。
当初、この富久集旅館を候補にしていたが、少し前に廃業したという。
涸沼川に架かる橋は高橋であり、現在の橋は、昭和30年(1955)12月竣工で、橋長は108mである。 高橋を渡ると右手に旧道痕跡があるが、先へ進まないとこの旧道跡には下りられない。

旧道口 こどもや 思案橋 諏訪神社
先に進んで、小鶴信号Y字路の左から旧道に入っていく。 旧道を進むと、右手に昭和3年(1928)の 「こどもや」 が建っている。
ノスタルジックな外観の建物で、店内には昔懐かしい駄菓子やおもちゃが所狭しと並んでいるという。
直ぐ先でT字路に突き当たり、街道は右に進んでいく。このT字路を流れる水路に小さな思案橋が架かっている。 先に進むと左手筋角に諏訪神社社標が建っており、社標を左に進むと突き当りの段上に諏訪神社がある。
諏訪神社の創建年代等は不詳であるが、境内には愛宕神社のほか、たくさんの小社が並んでいる。

如意輪寺 長岡橋 旧道口 高岡神社
続いて100mほど先左手に、天台宗の龍谿山如意輪寺がある。
如意輪寺の創建年代等は不詳であるが、常陸国第六番霊場であり、本尊は如意輪観音で水戸光圀の寄進と言われている。
境内には、如意輪堂・地蔵堂のほか、十九夜塔・如意観音・二十三夜塔などの石造物がある。
街道を進むと涸沼前川に突き当たり、長岡橋の上流側に架かる歩道橋で渡っていく。
歩道橋を渡ると県道18号線に合流し、その先の信号から右に入っていく。
県道18号線に合流して間もなく、信号Y字路を右に進んでいく。 先に進むと信号十字路を越えた先から坂道となり、上り坂を200mほど進んだ右手に高岡神社社標があり、その奥に高岡神社がある。
高岡神社は、平安朝第六十六代一条天皇の御代長徳元年(995)、式内名神大社酒烈磯前神社の分霊を勧請して創建された。
境内の裏側には古墳があったようだが、拝殿・本殿までしか確認できなかった

旧家 旧長岡宿脇本陣跡 旧家 旧長岡宿本陣跡
街道に戻ると、左手に城壁を思わせる塀を構えた旧家がある。 坂道を上り詰めると、右手に板塀を巡らした脇本陣木村家住宅がある。
木村家は戦国時代から長岡に住み、江戸時代に脇本陣・問屋・庄屋を務めた。当家は安政4年(1857)の長岡宿火災により焼失し、現在の建物はその後の建築である。門扉は閉ざされており、先に行って回り込んでみたが中には入れない。塀越しに写真を撮っていたら当主と思われる方が、自宅の庭から入れると言うので、中に入らせていただいた。
脇本陣木村家住宅に向かい合って、T字路信号前に立派な門を構えた旧家がある。 旧家の右隣に道路を挟んで総合衣料センター 「みくらや」 がある。
ここは旧長岡宿の本陣があった場所だというが、遺構も標柱等も無く、全く面影を残していない。

石藏 ㈱柏屋肥料店 八塚稲荷神社 長岡公園
程なく左手に大谷石で造られた石藏の建つ、広い敷地を有する旧家がある。 先に進むと左手に旧旅籠を思わせる建物の㈱柏屋肥料店がある。
建物の詳細は不明であるが、店舗はこの建物の左側にあり、奥の方に大きな倉庫のような建物が見える。
㈱柏屋肥料店の直ぐ先、左手筋に鳥居があり、鳥居の奥を200mほど入ると八塚稲荷神社がある。
八塚稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、境内には稲荷神社らしい狛狐がいくつか並んでいる。
八塚稲荷神社鳥居の前には、長岡公園がある。公園入口は狭いが、奥(南東)の方はかなり大きな広場になっている。

馬頭観世音碑 国道6号線合流 茨城町東インター 浅井家矢頭泉寿院不動尊
先に進み長岡十字路信号を過ぎると、右手段上に馬頭観世音碑が二基建っている。
左側は昭和10年(1935)の馬頭観世音碑、右側は明治16年(1883)の馬頭観世音碑である。
直ぐ先で国道6号線に合流し、しばらく車の騒音の中を進んでいく。 国道6号線に合流し、矢頭南交差点で左側に渡って進んでいくと、北関東自動車道の茨城町東インターチェンジがある。
北関東自動車道は、国道6号線の下を通っているので、矢頭跨道橋で渡っていく。
茨城町東インターチェンジを過ぎて間もなく、左手に浅井家矢頭泉寿院不動尊がある。
矢頭泉寿院不動尊の詳細は不明であるが、門扉は開くので中に入ってみると、御堂が一棟と手前に天明元年(1781)の月山湯殿山羽黒山大権現供養塔が建っている。

水戸市 交通安全碑 分岐 旧道口
矢頭泉寿院不動尊の50mほど先で、茨城町から水戸市へ入っていく。 水戸市へ入って直ぐ、左手のココス水戸東野店前に交通安全碑が建っている。 交通安全碑のところから、左の県道180号線へ分岐していく。 先に進み、茨城県自動車学校水戸校の前を通り、その先の吉沢Y字路で、右手の旧道(県道180号線)へ進んでいく。
旧道に入ると極端に車の往来は少なくなり、歩道が無くとも安心して歩ける。

熱田神社 ケヤキ 天神社 南無妙法蓮華経題目碑
先に進むと、右手に熱田神社がある。
熱田神社は、文禄4年(1595)吉田村吉田神社の分霊を勧請して創建され、以来この地の守護神として信仰されてきたという。祭神は日本武尊で、拝殿は瓦葺きの屋根であり、境内にはたくさんの小社のほか、石裂大権現碑・南無妙法蓮華経題目・鬼子母神像などの石造物がある。
街道に戻ってどんどん進み、信号交差点を一つ過ぎたその先右手に、ひときわ目立つケヤキが立っている。
このケヤキは指定保存樹で、推定樹齢150年という。
程なく右手に村社天神社がある。
天神社の創建年代等は不詳であるが、境内には素戔嗚神社・三峰神社・稲荷神社・疱瘡神社・天照皇大神宮を合祀した小社がある。
街道を進むと、左手の広瀬電機商会の隣に、明治25年(1892)の南無妙法蓮華経有縁無縁供養塔が建っている。

元吉田一里塚跡 道祖神 金山稲荷神社 分岐
程なく街道右手に元吉田の一里塚跡がある。
看板の奥には、榎が植えられた小さな塚が残っており、塚脇には如意輪観音・地蔵菩薩などの石造物が安置されている。
ここは江戸日本橋から数えて29里目、千住宿から27里目の水戸街道最後の一里塚跡である。
一里塚跡から140~150mほど先の信号T字路の左角に、自然石の道祖神がある。 更に140~150mほど先で国道50号線(水戸バイパス)を越えると、左手に金山稲荷神社がある。
金山稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、境内には大杉神社の境内社がある。
金山稲荷神社から400mほど先に分岐があり、街道は左の道を進んでいく。

枡形道 吉田小学校跡 吉田村道路元標 藤田流舞踊会館
分岐の先を進むと枡形道となり、右に曲がって、直ぐ左に折れていく。 枡形道を抜けた右手の伊藤家の庭に、旧吉田小学校誕生の地標柱が建っている。
側面には、旧吉田村立吉田小学校明治6年創立と記されている。
吉田小学校跡の直ぐ先の十字路右手角に、吉田村道路元標が建っている。 吉田村道路元標から40~50mほど先の左手に、日本舞踊の藤田流舞踊会館がある。

県道235号線 枡形道 薬王院 神楽屋敷跡
藤田流舞踊会館の先は、県道235号線で分断されている。
県道235号線は中央分離帯のある広い道路のため、右手の県道180号線の元吉田十字路交差点で迂回して、向かい側に出る。
迂回して進むと直ぐ先で枡形道となり、右に曲がって、直ぐ左に折れて県道180号線を進んでいく。 県道180号線に入って程なく左手に薬王院門柱があり、200mほど参道を進むと仁王門があり、薬王院境内へ入っていく。
薬王院は、青蓮院直末の天台宗の寺院で、桓武天皇の勅願所として建立されたと言われる。江戸時代には水戸藩の菩提所となり、代々の水戸藩主が深く帰依した。本堂・仁王門・木造薬師如来坐像・五輪塔などが重要文化財に指定されている。
街道に戻ると、直ぐ左手に水戸藩御用神楽屋敷跡碑があり、碑には次のように刻まれている。
水戸太神楽はこの地より発祥した。宝暦・天明の古記録によると、水戸御免の御祭礼渡御行列には必ず供奉したことが記されている。天明5年(1785)の春、台町の栗林氏から足黒村(現茨城町)の宮内氏に代譲りがあり、以後、足黒神楽と称し受け継がれ、明治以後、その道統は柳貴家正楽家に継承され今日に至っている。

車丹波守憤恨の地 清巌寺 五叉路 吉田神社
神楽屋敷跡碑の向かいの筋を入っていくと、左手に車丹波守憤恨の地碑がある。
碑文によると、ここは慶長7年(1602)、佐竹氏の旧臣車丹波守斯忠らが、佐竹氏の秋田移封に抵抗して水戸城を奪還しようとしたものの捕らえられ、処刑された所という。
碑の奥の木の根元に祠があり、中に小社が祀られている。
街道に戻ると左手に浄土宗の西月山東照院清巌寺がある。清巌寺は、大永元年(1521)に常福寺の八世空誉上人が久慈郡新宿村に開基したと言われ、その後、火災で焼失し、文禄3年(1594)に現在地に移転した。
また清巌寺は、常陸三十三所観音の第4番札所になっており、聖観世音菩薩立像が安置され、境内には延命地蔵堂・観音堂などがある。
先に進むと五叉路となり、車の往来は右斜めの道を水戸市内へ向かうが、街道は直進して直ぐ先で右折して坂道を下っていく。 坂道を道なりに下って行くと、左手に吉田神社鳥居があり、朝日山上に吉田神社がある。
朝日山は、日本武尊が東征の折、舟で那珂川を遡ってこの地に上陸し、宿営した所と伝わっている。その聖域に吉田神社が祀られ、古来常陸国内第三社とも称された。創建年代は古文書から推定すると、顕宗天皇(485)から仁賢天皇(498)の間と言われている。境内には松尾神社・多賀神社・住吉神社・八幡宮など15社の境内社がある。

旧道口 金刀比羅神社 銷魂橋(たまげはし) 竈(かまど)神社
街道に戻って吉田神社鳥居前を左に進み、僅かに残る旧道痕跡の延長線上に、旧道が北東に向かって延びている。 先に進むと備前堀の手前左手に、金刀比羅神社がある。
金刀比羅神社の創建年代等は不詳であるが、境内にある石碑によると、下市の火難救済の神として讃岐の金刀比羅神社の神霊を勧請して祀ったようである。
社殿前には狛犬ならぬ、狛うさぎが一基建っている。
備前堀に突き当たり右に折れると、左手に備前堀に架かる銷魂橋(たまげはし)がある。
渡詰め右手には高札場跡碑が、左手には江戸街道起点碑が建っている。
ここが水戸街道の終点であるが、この先に水戸街道宿場跡があるので、本町の中を通り浜街道起点碑まで進むこととする。
銷魂橋の渡詰めを左に備前堀に沿って100mほど進むと、竈神社がある。
竈神社は、初め三宝荒神と称して水戸城地内に祀られていたが、寛永3年(1626)市内赤沼(現在の城東)に移り、さらに元禄3年(1690)に現在地に遷座し、天保年間(1830-44)に社名を竈神社と改称したという。三宝荒神とは、仏・法・僧の三宝を守護する神であるが、民間では火の神・かまど神とされた。

伊奈忠次像 三又橋 七軒町碑 宿場入口
銷魂橋に戻って、先に進む前に備前堀を少し見ることにした。銷魂橋の一つ下流にある道明橋に伊奈忠次像が建っている。伊奈忠次は、徳川家康の側近として関東の土地・農業政策の基礎を築き、慶長15年(1610)初代藩主徳川頼房の命で、灌漑用水と桜川・千波湖の洪水防止のため用水堀を造った。伊奈備前守忠次の名前から、この用水は 「備前堀」 と名付けられた。、 道明橋の下流に三又橋があり、下流にこの三又橋の名前の由来となった三又水門が残されている。 街道に戻って銷魂橋の先を進むと、左手に七軒町碑が建っており、碑面には、次のように刻まれている。
藩政初期の寛永2年(1625)頃に開かれた町の一部で、当時七軒の商家があったので
七軒町と呼ばれた。高札場が置かれ、江戸街道の城下への出入口に当たった。
七軒町碑の直ぐ先が宿場の入口である。

道化稲荷神社 江戸町碑 玉姫稲荷神社 江戸(水戸)街道宿場跡碑
先に進むと右手に赤い鳥居があり、その奥に道化稲荷神社がある。
境内の由緒によると、能化稲荷神社は、徳川光圀御母堂久昌院の請願により、延宝元年(1673)久慈郡太田在稲木村に七堂伽藍の精舎を建立したのに起源し、天和3年(1683)久昌寺に布施され、ご尊体は京都深草より日乗上人が守護して来たものである。
道化稲荷神社の南側にある裡一丁目児童公園の東歩道脇に江戸町碑が建っており、次のように刻まれている。
寛永年間(1624-43)に開かれた町で、肴町魚問屋の荷を江戸に送り出す商人居住の町として、江戸肴町と呼ばれた。宝永(1704)のころからは江戸町となる。
街道に戻って、右手のスタミナラーメン松喜吉の角を南に入ると、玉姫稲荷神社がある。
詳細は不明であるが、元々この地にあったものではなく、富商那波屋武右衛門の氏神だったと言われている。
街道に戻って進むと、左手に江戸(水戸)街道宿場跡碑が建っており、次のように刻まれている。
江戸~水戸間を結ぶ重要な幹線であった江戸(水戸)街道には、幕府によりその約30里の道程に21の宿場が整備され、各宿場には問屋場などが設けられていた。水戸の宿場はこの辺りが中心で、諸大名をはじめ旅人の往来も多く、当時水戸城下の下町で最も賑やかな繁華街であった。現在も残る商店街やその町並から往時が偲ばれる。

陸前浜街道起点碑 栗田寛像
先に進むと信号十字路右角に、陸前浜街道起点碑が建っている。
陸前浜街道は、ここから宮城県岩沼市までの道で、街道の名称は、終点の岩沼が陸前国に属することに由来する。
陸前浜街道起点碑の向かい側の角に、栗田寛像が建っている。
栗田寛は、天保6年(1835)に水戸城下で代々油屋を営む栗田雅文の子として生まれ、幕末水戸藩に仕えた国学者・歴史学者である。
像台側面に栗田寛の概略が刻まれている。
ここで水戸街道歩きは終了し、桜川堤を通り、JR水戸駅に出て帰宅の途に就いた。
水戸城跡・偕楽園へ

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