三又水門

 備前堀は、水戸初代藩主徳川頼房公の時、関東郡代伊奈備前守忠次によって、下市及び以東の村々に対する用水と千波湖の溢水対策のために、利水と治水を兼ねて開削したものである。そして備前堀が江戸時代に農業用水としてもたらした恩恵は、流域21ヶ村の耕地千町歩に及んだという。しかし細谷・吉沼・渋井地区は、本流より1メートル以上高地のため、水門を2つ築き、水門の開閉により水量の調整をし導水を図った。その水門の箇所で二俣に分かれ、下市中央部を流れる掘割が 「町裏江」 と呼ばれ、今は水門だけが残っている。備前堀より枝分かれし、水の流れが三又であったので、三又水門、三又橋の名で現在も呼ばれている。

三又橋下流の左に水門入口が残っている

三又水門の由来