能化稲荷様正式には「能化自在大善神」、別名を「会所の稲荷」と称し、旧本一町目に鎮座する。会所とは寄合の場所、水戸城下に出入するお客様方をおもてなしもした南側会所(当所)のことなり。
 水戸二代藩主徳川光圀公は、生母久昌院菩提のため、延宝元年(1673)に七堂伽藍の精舎を建立する悲願を立て、常陸太田に久昌寺を創立、これを成就された。また僧侶の学問所、檀林を寄進し、その任をまかせるべく京都深草より親しく交流のあった日乗上人を招きし時、上人が随身して来られたのが能化稲荷尊で、その祭神は宇迦之御魂命であった。その後、京都本国寺日隆上人が光圀公から、久昌寺の住職(第二世・元禄11年・1698)として招かれ来たり、この会所に数日ご滞在の折、「衆生の利益のため、われを本一町目の地に鎮座せしめよ」と大善神のお告げがあった。上人は自ら藩主に請願され、ここに御尊体をお移しし、能化自在大善神と称して奉崇されしなり、後に大火、戦災に幾度も遭遇するも篤信者の護持を受け、その信仰は大切に受け継がれている。霊験顕著にして信徒数も多い。平成14年には、堂宇が再建、全域が整備され、本町守護の善神として、また末法濁乱のこの悪世を一生懸命生きる人々に、そのあらたかな能化自在の霊験を施すべく、その請願を果たすべく鎮座されている。堂宇がいつも北向き(本町商店街、旧水戸城・太田久昌寺方面)とされてきたのはそのためである。

拝殿に掛かる能化堂の扁額

能化稲荷神社拝殿

能化稲荷神社由緒

石祠と狛狐

稲荷神社

手水舎