水戸藩が徳川頼房を初代として始められた慶長14年(1609)の頃、城東・城南の低地帯は、少しの雨にも千波湖の氾濫に悩まされるばかりか、わずかの日照りにも旱害に見舞われること再々であった。
この時、水戸藩の民生をつかさどる幕府の関東郡代伊奈備前守忠次は、藩の重役とはかり、治水と水田地帯への利水を兼ねて、慶長15年(1610)非常な困難を克服して「備前堀」を開き、千波湖の水を引いた。
堀は別に 「伊奈堀」 とも呼ばれ、下町の商工業の繁栄を招来したばかりか、当時の浜田村以東21ヶ村の水田を潤し、その恩恵は現代に及んでいる。
道明橋
備前堀由来碑
伊奈備前守忠次像
この橋は、江戸時代に本一丁目(現在の本町一丁目)の酒造業者・道明作兵衛が田畑に往来するため私的に架けた橋であり、その名前から道明橋と呼ばれるようになったという。道明は紀州から水戸に移り住み、寛文年間(1661-73)に酒造で富豪になった人と伝えられている。江戸時代には豪商による街づくりが行われていた。