阿利耶側道橋

明治4年(1871)の成田山永代護摩木山供養碑

慶応4年(1868)の永代護摩木山供養碑

弘法大師像

道祖神石祠

道祖神社

 この場所を不動尊旧跡という。由来は即ち、天慶3年(940)に寛朝大僧正が平将門の乱の鎮定と万民豊楽を祈願して、ここから南約1.7㎞の並木町公津ヶ原(不動作)と呼ばれる地に仮堂を設け、京都より不動明王の御本尊を移し安置し奉ったが、その後江戸時代の安政5年(1858)成田山新勝寺本堂(現在の釈迦堂)が完成した際、入仏供養の行列は本来ならば公津ヶ原の仮堂から出発すべきところ、あまりに遠方のため、この地に仮の安置所を設けここから出発したという故事に基じている。これにより現在に至っても毎年7月7・8・9日に行われる祇園祭には、御神輿と御稚児の行列は当地から出発する習わしとなっている。
 また、この地区を不動ヶ岡というのは、昭和7年(1932)に印旛郡宮里村大字日吉倉の一部であった論田、苅分、申新田、中弘、向山、大田、橇田を成田町に編入した際、不動尊ゆかりの地であるという理由から7つの小字を大字不動ヶ岡と改称したものである。京成線陸橋「阿利耶橋」(阿利耶とは聖の意味)もまたこのゆかりにちなんで名付けられた。

地蔵菩薩立像

不動尊旧跡由来

4体の弘法大師像