当門は、水戸徳川藩士加藤本家より、加藤伊衛門の代に水戸から分家して当地常陸国東茨城郡堅倉に郷士として土着したとき、母屋と一緒に建てたものでありましたが、幕末に藩主の世継問題に端を発した天狗党の乱が起こり、元治元年(1864)当時加藤家は名主職を務めていた関係もあり、反乱軍天狗党のために母屋と共に門を総て焼打ちに遭い、その際門の前柱二本のみが焼け残りました。門柱上部の黒い部分が焼跡です。そのため当時の祖先の苦労を偲び又戦乱(内乱)の歴史を後世に残すべく、焼け残った二本の前柱をそのまま使用してここに復旧を完了いたしました。
(平成4年9月 加藤謙二)
加藤家新門
加藤家向かいの旧家門
復旧門と新門を繋ぐ長い塀
復旧門の由来碑
復旧門
門柱に焼跡が残る