慶長5年(1600)に関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は、街道の整備を始めました。東海道・中仙道・日光街道・奥州街道・甲州街道は 「五街道」 と呼ばれ、江戸幕府が直接支配していました。それに次ぐ 「脇街道」 のひとつとして水戸~江戸間に開通したのが、この水戸街道です。石岡は当時、府中松平家の陣屋の所在地であり、水戸街道の宿駅 「府中」 として繁栄しました。








 昭和30年まで、ここから先約2㎞にわたり由緒ある杉並木がありました。徳川幕府時代、街道の並木として松並木は各所で見られましたが、杉並木は日光以外にはこの府中だけに許されたものでした。これは「御三家」の一つ水戸徳川家の分家である府中松平家の当時の地位の高さを物語っています。

 天平13年(741)の聖武天皇の詔により、国ごとに国分寺・国分尼寺が建立されました。国分寺には、中門や仏像を安置する金堂、仏法を学ぶための講堂、さらに七重塔などの建物がありました。ここに暮らす人々の見る風景には、必ず筑波山を背景にしたこの塔がその勇姿を見せており、心のよりどころになっていたのではないかと思われます。国分寺にお七重塔があったことは、この地が常陸国の国府として隆盛を極めていた時代の象徴であり、後世に語り継がれるべき誇りです。

七重塔と筑波山

水戸街道

杉並木

跨線橋から見えるJR石岡駅

跨線橋泉橋親柱

常陸国衙跡

 石岡は常陸国の中心として栄えた街です。国の行政府として成立した常陸国衙。今からおよそ1300年前に人口20数万の国政を担ったその遺跡が、この街に眠っています。人々の往来、文化の交流が現在でも盛んなこの街を、古代の人たちも好んだのでしょうか。