江戸幕府は今から約400年前の江戸時代初めから、江戸を中心とした陸上・水上交通網を整備しました。江戸と水戸を結ぶ「水戸道中」は水戸徳川家や常陸周辺の大名が江戸との往来に利用し、東海道などの「五街道」に」次いで重視されました。水戸道中は奥州道中の千住宿から分岐し、新宿(葛飾区)~松戸宿~小金宿~我孫子宿を結び、江戸初期は布佐から竜ケ崎経由で水戸を目指していましたが、天和2年(1682)年には第一小学校入口交差点を北に進み、取手宿を経由するルートに変更されたことが資料から判明しています。
 江戸中期の宝暦8年(1758)に書かれた「土浦水戸道中絵図」の我孫子宿(吾孫子と表記)では、カギの手状に曲がった道に沿って70軒ほど家並みが続き、幕府や大名等の公用旅行者の宿泊所である「本陣」(小熊郷右衛門宅)が白い蔵を伴って建っている様子が描写されています(本陣は現在地の北約50m)。また、現在地付近には伝馬(馬・人足)と公用文書の輸送(継飛脚)を管轄する役所である「問屋場」が置かれていました。本陣・問屋場ともどのような建物が建っていたかは不明ですが、ここから約1㎞東にある旧村川別荘の母屋は、本陣の離れを大正10年(1921)に解体移築したものと伝えられ、当地角に立つ寛政元年(1789)の「子ノ神道標」と合わせて、江戸時代の我孫子宿を偲ぶ数少ない資料となっています。

大正~昭和初期の旧水戸道中沿い

明治13年(1880)測量のフランス式彩色図(常磐線開通前)

史跡等案内

従是子神道

寛政元年己酉四月吉日

水戸道中と我孫子宿解説

土浦水戸道中絵図