江戸時代前期、御三家のひとつ水戸徳川家の本拠水戸と江戸の間(約120㎞)を結ぶために整備されたのが、水戸道中(俗称・水戸街道)であり、小金宿は、千住・新宿・松戸の次、四番目の宿場に指定された。小金宿は次の我孫子宿と手前の松戸宿など、公用旅行者の求めに応じて人足と馬を出し、また本陣・脇本陣を設けて公用旅行者の休憩・宿泊の役目を負っていた。こうした負担の一方、周辺の農村には許されなかった特権が与えられた。一般の旅行者の宿泊(旅籠屋)や、公用のない時に人足・馬で旅行者・荷物を運び駄賃を得ること、宿内での商業・飲食店の営業許可など、経済活動の特権である。そのため、小金宿は町場として江戸時代に発展した。
 なお、江戸時代以前にも小金城に近く、金宿(こがねしゅく)と史料にも登場するので、江戸幕府が水戸道中を整備するにあたり、小金が宿駅に指定されたのだろう。
 街道は小金宿の中を南北に縦貫し、南から下町・中町・上町の順に北上、上町から東に曲がって横町と区分されていた。宿繋ぎで運ばれてきた人馬を継ぎ替える問屋場、大名・旗本・公用旅行者などが休憩・宿泊する本陣・脇本陣があったのが中町で、宿の中心だった。また、この中町には水戸徳川家の専用旅館があった。
 水戸藩主は、常府といって参勤交代の義務がなく、常に江戸屋敷で暮らすことになっていたが、時々幕府の許可をもらい水戸に帰った。江戸からの距離で初日に宿泊する場所が小金宿となったので、専用旅館が置かれたのだろう。また、水戸藩では藩主が常に江戸にいるため、水戸と江戸の間を毎日往復する家臣が多く、その場合も専用旅館が利用された。
 小金宿の家数は、江戸時代中期の寛政元年(1789)で169軒と、松戸宿と比べれば小さいが、横町には小金牧を管理した野馬奉行の役宅(小金御厩役所)が、中町には関東十八檀林(学問所)の一つ浄土宗東漸寺が、下町には虚無僧の本山一月寺があるなど、特徴的な宿場であった。
 なお、下町には宿場時代の旅籠の建物をそのまま残す玉屋がある。

明和5年(1768)の道標

八坂神社御跡地碑

右水戸海道

右水戸道中

右側の小金宿解説

 小金地域は約3万年前の旧石器時代にはすでに人が住み、約6千年前の縄文時代には、当時の人たちが緑豊かな台地で暮らした大きな集落があったことが幸田貝塚から推測されます。
 今の小金が形成されたのは鎌倉時代から室町時代にかけてであると言われており、特に鎌倉時代、小金城主であった高城氏の支配下の元、所縁の寺社、東漸寺(浄土宗)、大勝院(真言宗)、広徳寺(曹洞宗)等が根木内・栗ヶ沢から城周辺に集められました。
 そしてこの小金地域は歴史上、政治的に重要な役割を担っていたようです。
 駅の北は紫陽花寺として有名な鎌倉時代に創建された本土寺や大谷口の高城氏の居城、小金城址が歴史を偲ぶ公園として残っており、南は枝垂れ桜で有名な徳川家康が定めた関東十八檀林の東漸寺や根木内歴史公園があり、江戸時代には旧水戸道中の起点日本橋から数えて四番目の宿場町小金宿が栄え、名のある屋敷跡や旅籠が歴史遺産として点在しています。
 今日まで小金町は松戸市の中でも歴史文化を大切に継承してゆく思いが色濃く残るちいきであって「歴史と花と縁のある街」のイメージを子供から年配の人まで共有し住んでいる人達が一つになり魅力ある豊かな街づくりを進めてきました。
 近年の昭和29年10月に小金町は東葛市(現在の柏市)と市境を変更する形で旧小金町の大部分が松戸市に合併して60周年を迎える年となります。
 当時の小金町の人口は8千人、現在、平成27年には4万3千人となりました。
 ここに、平成26・27年度、小金町記念事業として次世代に向けた伝統の継承を祈念し小金宿観光モニュメントを設立いたします。

左側の小金宿解説

文化5年(1808)の本土寺道道標

水戸街道道標2基・八坂神社御跡地碑