享保4年(1719)の一面六臂の青面金剛の庚申塔
明治天皇遥拝碑
正徳5年(1715)の一面六臂の青面金剛の庚申塔
日露戦役黒髪塚
玄武(亀)像
亀像
正徳2年(1712)の一面六臂の青面金剛の庚申塔
文久元年(1861)の道祖神
三峰神社
境内社
北野天満宮 ・ 香取神社 ・ 水神
街道に面した鳥居
拝殿に掛かる柴崎神社の扁額
柴崎神社拝殿
景行天皇40年(110)、日本武尊が征途の安全を祈り、武運長久を祈願したところと言われ、承平・天慶のころは平将門の祈願所として崇敬あつく、柴崎左馬督が社殿を修理したが、将門没後は一時社運が傾いた。のち、永禄4年(1561)柴崎城主新木三河守が復興し、天正元年(1573)の役で小田原北条氏に下るや、刀一振を献納して永世二心なきことを誓った。
寛文5年(1665)に甲州武田の旧臣初鹿野伝右衛門が徳川の家臣として柴崎の地を加給せられ、神社の由緒を聞いて家宝の大身槍を奉納し、同11年(1671)に親見弥一郎正徳がこの地の知行主として弓一張を献じている。
享保13年(1728)に現在の石段を築き、享和3年(1803)大鳥居を建て、天保13年(1842)に神社伯王から正一位稲荷大明神の神号を贈られた。明治元年(1868)妙見社の号を北星社に改め、同13年(1880)はじめて柴崎神社と公称するようになった。
手水舎
柴崎神社由緒