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児玉街道   (川越~菅谷)


平成29年4月23(日)    ☀     川越~菅谷  23.0㎞
児玉街道は川越から上州藤岡までの街道で、中山道の脇往還として使用された川越・児玉往還の内の道である。大名などの大行列は中山道を通ったが、将軍の代替わりごとに派遣される巡見使や諸役人・一般旅人は、距離の短いこの街道を通ったという。川越宿を出ると、塚越宿・石井宿・高坂宿・菅谷宿・奈良梨宿・今市宿・赤浜宿・小前田宿・広木宿・児玉宿を経て藤岡宿を通り、中山道に合流する。今日は寄り道を考慮すると28㎞程度になる。

時の鐘 蔵町並み 川越市役所 札の辻
本川越駅から蔵町を進むと、川越のシンボルともいえる時の鐘が聳えている。
城下の面影を残す建造物で、江戸時代初頭から城下町に時を告げ、庶民に親しまれてきた鐘撞堂である。鐘撞堂は、当時の川越藩主酒井忠勝によって創建されたが、度重なる火災で建て替えられ、現在のものは4代目に当たり、明治26年に起きた川越大火直後に再建されたものである。
現在の蔵造りの多くは、川越大火後に建てられたものである。
江戸の景観を受け継ぐ重要な歴史的遺産として、「時の鐘」 をはじめとするこの一帯は、平成11年(1999)に文化庁の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
川越市役所前の交差点から児玉街道が始まる。
川越市役所前には、太田道灌像・大手門跡碑などが建っている。
市役所前交差点の西にある十字路が札のt辻である。札の辻は、川越城下町の中心として高札場があったところで、現在、ポケットパークとなっており、常夜燈風のモニュメントが建っている。
モニュメントには 「御高札有之に依て御判塚とも言、本町、高沢町、南町、北町の四街の巷にて、此所川越の中央にて総て四方への行程も是よりして斗る。江戸の日本橋の如し」 と刻まれている。

大蓮寺 六塚稲荷神社 見立寺 高沢橋
札の辻の先右手に浄土宗の来迎山大蓮寺がある。大蓮寺は、感譽上人が蓮馨尼の菩提を弔うために開山されたと言われている。
現在の本堂は万延元年(1860)再々建で、境内には延命地蔵菩薩、徳本の南無阿弥陀仏名号碑などがある。
街道に戻ると右手の段上に六塚稲荷神社がある。昔、太田道真がこの地に住んでいた時、荒野を開拓する際に6つの塚(丘)を崩し、そこに稲荷社を6つ建てたが、その後、5社を無くして1社に合祀したのが始まりという。
境内には、八幡神社・三峯神社・琴平神社の境内社などがある。
高沢橋の手前左手に浄土宗の壽昌山見立寺がある。見立寺は、永禄元年(1558)後北条氏の重臣で川越城の城将・大道寺政繁が建立して建立寺と名づけたが、その後、一族中の存貞和尚を小田原伝肇寺より招請して見立寺と改めた。境内には、赤穂浪士・矢頭右衛門七の妹の墓などがある。 街道に戻ると新河岸川に架かる高沢橋がある。

観音寺 本應寺 愛宕神社 直線の街道
高沢橋の渡り詰め左側に天台宗の高澤山妙智院観音寺がある。
観音寺の創建年代等は不詳であるが、長盛(寛永18年寂)が開山したと言われ、境内には馬頭観音・如意輪観音などの石造物がある。
街道に戻ると直ぐ右手に日蓮宗の長久山本應寺がある。
本應寺は、谷中感應寺の日長上人を勧請開山として、日春が寛永3年(1626)に草創したという。
山門は鐘楼を兼ねた仁王門で、境内には川越城主秋元喬朝の家臣で国家老を務め、松尾芭蕉の門人でもあった高山繁文の墓がある。
街道を進み、石原町信号交差点を越えた左手一本目の路地を入って、直ぐ右に曲がると愛宕神社がある。
愛宕神社の創建年代等は不詳であるが、社殿は高台にあり、鳥居脇に文化3年(1806)の手水石がある。愛宕神社の隣には、鉄筋コンクリート造の石原町公民館がある。
街道に戻って石原町北交差点の五叉路を過ぎると、県道256号線となり家屋は無くなり、田畑が広がる中に真っ直ぐな街道が延びている。

八咫(やた)神社 平塚橋 馬頭観音 天満宮
街道を東西に横切る水路に架かる寺山橋を渡り、次の左手の筋を400m程進んだところに八咫神社がある。
八咫神社の創建年代等は不詳であるが、古い記述によると奈良時代に僧祐阿弥が再興したと云われている。八咫神社には、川越市指定の無形民俗文化財の 「まんぐり」 と 「上寺山の獅子舞」 の2つがある。
街道に戻って進むと入間川の堤防に突当り、その先で入間川に架かる平塚橋を渡る。
平塚橋は昭和46年(1971)に架け換えられたもので、全長は218mである。歩道は橋の右側(下流側)に設けられている。
平塚橋の渡り詰めを右に折れて、左手の集落を回り込むように進むと、竹林の前の街道脇に文政13年(1830)の馬頭観音が建っている。 街道を進むと左手の平塚橋から直進してきた道に近い所に天満宮がある。
天満宮の創建年代は不詳であるが、境内には三峯神社・八坂神社などの境内社がある。

棘(とげ)橋 馬頭観音 旧道口 馬頭観音
街道を先に進むと古畔川に架かる棘橋がある。棘橋には伝説があり、「昔、小畦川は流れが速く、橋桁にする杭を打ってもすぐに流されてしまった。ある日、ダイダラボッチがやってきて、下小坂の辺りを通った際、足に棘が刺さってしまい、その棘を抜いて小畦川の真ん中にさしていった。その棘は、流されることのない橋の杭となり、無事、橋が完成し棘橋と名付けらた。」 というものである。 棘橋の先の逆Y字路の中央に年代不明の馬頭観音が建っている。 逆Y路を過ぎて次の信号の先左手に旧道口がある。
この旧道は200m程先で再び合流する。
旧道を入って行くと、右手の畑の中に馬頭観世音と刻まれた碑が2基建っている。
この隣に覆屋があり、中に本殿らしき社がある。
社には不動明王と思われる仏像が見える。

神明神社 慈眼寺 馬頭観音 石碑
旧道から合流して先に進み、理容こじまの向かいの筋を入って行くと神明神社がある。
神明神社の創建年代等は不詳であるが、社殿は林の中に有り、八坂神社・天満宮などの境内社がある。
神明神社の西側に真言宗智山派の由城山慈眼寺がある。
慈眼寺は、安土桃山時代、慶長6年(1601)法印可説和尚によって開かれたと伝わっている。本堂には、本尊の十一面観音像のほか、巨大な閻魔坐像などが祀られており、境内には、宝暦5年(1755)に隆章和尚が第10世の住職となり、現在の堂宇・境内などを整備した頃に植えられた推定樹齢270年のシダレ桜がある。
街道に戻ると左手の三光建設本社の脇に天明3年(1783)の三面六臂の馬頭観音が建っている。 馬頭観音の先で街道が右に曲がる左手の㈱エヌ・エス・ビーの隣に石碑が2基建っている。
1基は梵字の墓碑のようで、もう1基は草むらに隠れた観応元年(南朝正平5年・1350)の上部が折れた石碑である。

馬頭観音 馬頭観音 馬頭観音 大穴城跡
2基の石碑から程なく、左手の富士仮設株式会社の手前に明治14年(1881)の小さな馬頭観音が建っている。 富士仮設株式会社の斜向かいの筋の入口に風化の進んだ馬頭観音が建っている。 暫く街道を進み、セブンイレブンを過ぎた先の押しボタン式信号機のある交差点の右角(民家の庭先)に宝暦8年(1758)の三面六臂の馬頭観音が建っている。 馬頭観音の建つ路地を右に入って行くと、左手に大穴城跡がある。
現在は、公園になっており、はっきりした遺構が残っている訳ではなく、丘上に解説板が設置されているだけである。

大穴橋 石造物 順拝供養塔 諏訪神社
街道に戻ると、直ぐ先で大谷川に架かる昭和50年(1975)竣工の大穴橋がある。 先に進んと観音堂バス停のところで、左手の畑の奥に石造物が並んでいる。
石造物の向かいに建物があるが、これが観音堂かもしれない。石造物は、宝篋印塔の上部、常夜燈、庚申塔、地蔵菩薩などである。
観音堂バス停の直ぐ先、左手路地入口に順拝供養塔が建っている。
碑面には、「奉順拝 月山・湯殿山・羽黒山・四国・坂東・秩父・四国 供養塔」、台座には 「高麗郡下廣谷村」 と刻まれている。
順拝供養塔の路地を進んで、十字路を右に入ると左手に諏訪神社がある。
諏訪神社の創建年代等は不明であるが、社殿と狛犬は最近新しくなったようである。

本応寺別院 圏央道 地蔵菩薩・馬頭観音 聖天宮
街道に戻ると、圏央道(首都圏中央連絡自動車道)高架の手前右手に日蓮宗の広谷山本応寺別院がある。
本応寺別院の創建年代等は不詳であるが、川越城下にあった本應寺の支院で本堂は新しく、墓地もほとんど空きがある状態である。
本堂に祀られたご本尊は、釈迦牟尼佛である。
圏央道は、首都圏中央連絡自動車道といい、都心から半径およそ40km~60㎞の位置に計画された、延長約300㎞の高規格幹線道路で、首都圏3環状道路の一番外側に位置する環状道路である。 圏央道高架を潜って間もなく坂戸市に入り、右手の蕎彩庵の斜向かいの街道脇に、享保2年(1717)の地蔵菩薩と三面六臂の馬頭観音が建っている。 先に進んで比較的広い道路との信号交差点を右に400m程進んだところに聖天宮がある。
聖天宮は、台湾の康國典大法師が、当時雑木林の地を一から整地し、昭和56年(1981)より着工し 台湾の一流の宮大工を呼び寄せ、15年の年月をを掛け、平成7年(1995)に開廟したという。
拝観は10:00~16:00で300円となっている。

茶畑 馬頭観音 八坂神社 光明寺
街道に戻って信号交差点を過ぎると、右手に茶畑が広がっている。 茶畑から程なく左手の山崎建設㈱の入口に年代不明の馬頭観音が建っている。 山崎建設㈱の隣は、塚越南区集会所で火の見櫓も建っており、その一角に八坂神社がある。八坂神社の由緒などは不明であるが、毎年7月に 「塚越ばやし」 という祭礼が行われているという。
八坂神社拝殿の裏側には、御嶽神社の小社が建っている。
八坂神社の先の塚越交差点の手前左手に光明寺がある。
光明寺の宗派など一切は不明であるが、境内には六地蔵尊など地蔵菩薩が多数並んでいる。

大宮住吉神社社標 塚越神社 大宮住吉神社 西光寺
塚越交差点から300m程先の変則4叉路の右角に大宮住吉神社の社標が建っている。 大宮住吉神社社標の建つ筋を、右(東)に200m程入ったところに塚越神社がある。
塚越神社は義家塚ともいい、文治3年(1187)9月、鎌倉将軍頼朝の命によって、源義家の忠魂を勧請したものである。
塚上には小さな石祠が安置されており、この塚がこの地の地名 「塚越」 に由来するという。
塚越神社から更に400m程道なりに進んで行くと、大宮住吉神社がある。
大宮住吉神社は、平安時代の天徳3年(959)山田長慶が長門国一宮である住吉神社の御分霊を勧請したことに始まる。
文治3年(1187)には、源頼朝により入間・高麗・比企などの北武蔵十二郡の総社に指定された。
大宮住吉神社の裏手に曹洞宗の寶福山西光寺がある。
西光寺は、越後の大名・上杉氏に仕えた小島豊後が、屋敷内に庵を建て西光庵と称したことに始まる。その後、小島豊後の子越後によって、天文年間(1532-55)に庵が再興され、西光寺と呼ばれるようになった。山門前には、元禄12年(1699)の石造りの仁王像があり、境内には薬師如来・日光菩薩・月光菩薩の薬師三尊などを祀った薬師堂がある。

庚申塔 谷治川橋 宗福寺 小社
街道に戻って変則4叉路を先に進むと、30m歩先右手の民家の塀脇に元文4年(1739)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。 程なく谷治川に架かる谷治川橋がある。 谷治川橋を渡って、石井下宿信号を越えると、右手に曹洞宗の宗福寺がある。
宗福寺は、平安末期以来この地を領した勝呂氏の館跡に隣接して建立されたが、地元豪族の庇護を受けた遊行僧がこの地にとどまり、鎌倉末期から南北朝期に道場を設けて多くの民衆に念仏を広めたと言われている。境内には、文和5年(1356)の開山教覚の三回忌に建てられた六字名号板碑がある。
宗福寺の直ぐ先にある信号十字路の右角に小社がある。
近くに社標も解説もなく、愛宕神社か、ここから700m程東にある勝呂神社の遥拝所なのか不明である。

須賀神社 勝呂廃寺跡 運動公園入口 注連松橋
小社の先を進むと変則十字路の右手に須賀神社がある。
社殿脇には、明和9年(1772)の地蔵菩薩・小さな種子板碑が建っている。
須賀神社の変則十字路を右に入って行くと、突当り勝呂廃寺跡がある。
飛鳥時代の終わりごろ(680年頃)、この地に寺院が建てられていた。発掘された塔の相輪で重層の塔が建っていた可能性がある。建物の柱が建っていた部分にコンクリート柱を埋め建物の一部を示している。
街道に戻って進むと、左手に坂戸市民総合運動公園へ向かうケヤキ並の道が延びている。
公園の一帯には、勝呂公民館・坂戸市民総合運動公園体育館がある。
運動公園入口の直ぐ先に、飯盛川に架かる注連松橋がある。
橋の名前は、かつて街道筋に注連縄を巻いた大きな松があったことに由来するという。

注連松地蔵尊 田圃道 道祖神 常夜燈
注連松橋を渡ると、右手にわずかに残る旧道跡に享保4年(1719)の注連松地蔵尊がある。
地蔵堂脇には、日本廻國供養塔があり、堂内には南無阿弥陀仏の六字名号板碑・種子板碑がたくさん収められている。
注連松地蔵尊の先は右手に田圃が広がり、左手は石井水処理センターの施設がある。 田圃道の先の変則五叉路から集落が始まり、集落の入口の右手に小さな道祖神が建っている。
道祖神の隣には、長屋門の家があり、その先から越辺川の土手まで島田宿の集落が続いている。
島田の集落を進んで行くと、中程にあたる右手の民家の入口に常夜燈が建っている。
常夜燈には、「天保?年、石尊大権現、大聖不動明王」 と刻まれている。

長屋門 石造物 島田橋 田圃道
常夜燈から程なく左手に大きな長屋門の家が建っている。 島田の集落の先で越辺川の土手に突当り、土手下に11基の石造物が並んでいる。
石造物は、馬頭観音・庚申塔・地蔵尊・水神宮・廻國供養塔などである。
土手に上がると、その先には越辺川に木製の島田橋が架かっている。
かつては島田の渡しがあった所で、明治時代に橋が架けられたが、何回か流されており、現在の橋は平成27年に架け換えられたものである。
島田橋を渡って対岸の土手上に上がると、田圃の中に真っ直ぐな道が延びている。
土手は越辺川側も田圃側も菜の花が一面に覆っており、黄色と緑が鮮やかである。

道標 九十九橋 地蔵菩薩・庚申塔 大黒部公民館
田圃道を進んで国道407号線に突き当たると、左手に安永3年(1774)の道標が建っている。
道標は、かなり風化が進んでいるが、正面に 「左江戸道・右八王子道」 と刻まれている。
国道407号線を横断すると、九十九川に架かる九十九橋がある。
九十九川は、東松山市岩殿付近の丘陵から流れる川で、下流で越辺川に合流している。
九十九橋を渡って間もなく、左手に享保4年(1719)の地蔵菩薩と元文5年(1740)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が安置されている。 地藏菩薩・庚申塔の先は緩やかな上り坂で、暫く進むと右手の大黒部公民館の前に六地蔵尊と馬頭観音・廻國供養塔が建っている。
大黒部公民館は、観音堂を兼ねたもので、敷地奥に如意輪観世音御堂兼会館改修記念碑が建っている。

愛宕神社 長松寺 高坂神社 東光院
先に進んで、そば屋 「大政」 の筋を右折すると五叉路の右手角に愛宕神社がある。
愛宕神社は、文政11年(1828)以前に毛塚のお寺に創建され、明治42年(1909)には宮鼻八幡神社境内に合祀され、その後、大黒部の鎮守として、昭和39年(1964)にこの地に遷座された。鳥居は街道方向(西)を向いているが、社殿は東を向いて建っており、境内には八坂神社の境内社がある。
街道い戻ると直ぐ左手に浄土宗の寂照山不二院長松寺がある。
長松寺の創建年代等は不詳であるが、御本尊は湛慶作と伝えられる阿弥陀如来坐像で、本堂は元文4年(1739)に再建されたものである。境内には、宗祖法然上人像と御詠歌がある。
長松寺の先の信号十字路を右折して300mほど進んだ左手に高坂神社がある。
高坂神社は、大同年間(806-10)坂上田村麻呂がこの地を通った時、日本武尊の武徳を追慕して社を建立し八剣明神社と称したのが始まりという。江戸時代には、この地を領した加賀爪氏の守護神であった。
高坂神社と改称したのは、明治42年(1909)で、境内には当時の手水石が残っている。
街道に戻って先に進んだ十字路を右に150m程行くと左手に天台宗の放光山東光院がある。
東光院の創建年代等は不詳であるが、境内には観音堂があり、御堂の前には三面六臂の馬頭観音が建っている。

高済寺 道路工事 高一会館(蓮台寺跡) 供養塔
街道に戻り、高坂駅入口交差点を過ぎて、その先の比較的広い道路との交差点を右に入ると曹洞宗の大渓山高済寺がある。
高済寺は、小田原北条氏家臣の高坂氏の館跡であったが、旗本加賀爪氏が高坂地区の半分を領有するようになり、ここに陣営を置いたことから、本堂左手の土塁上に加賀氏累代の墓がある。
高済寺から交差点に戻ると、その先の道路は東松山橋詰交差点まで道路工事中であり、有るはずの道標もなく、左手に入る旧道も廃止されるとの看板が置かれていた。 旧道が塞がれいるため東松山橋詰交差点まで進んで、回り込むようにして旧道に出ると、右手に高一会館がある。
ここは旧蓮台寺跡のため、奥には墓地があり、その手前に十王堂が建っている。境内の入口には、一面六臂の青面金剛の庚申塔が安置された庚申堂があり、その隣に馬頭観音・南無阿弥陀仏名号碑が建っている。
短い旧道の先で東武東上線の踏切を渡り、右手の河原沿いの砂利道に入ると、右手に文政2年(1819)の道標を兼ねた供養塔が建っている。
供養塔には、「普門品講中
石橋・五ヶ所供養塔、右やきゅう・左ちちぶ・小かわ道」 と刻まれている。

旧道 富士浅間神社 虚空蔵菩薩 悪戸の石造物群
旧道の砂利道は、左を流れる水路に沿って続いている。 街道を進んで、左手から水路が合流するところで左の細道を進み、県道344号線を越えると段上に富士浅間神社がある。
富士浅間神社の創建年代等は不詳であるが、この地は5世紀前半の古墳の跡で、社殿は墳丘上にあり、社殿脇には境内社が建っている。
街道に戻って砂利道を進んで行くと、右手の田圃の中に中に小社がある。
田圃の畦道らしきところを通って行ってみると、小社には虚空蔵菩薩が安置されている。小社には虚空蔵如来の扁額が掛かっている。
街道が県道344号線に近づいたところに石造物が並んでおり、悪戸の石造物群と呼ばれている。
ここには安政6年(1859)の大山常夜燈、九頭龍大神、宝永4年(1707)の地蔵菩薩、三面六臂の馬頭観音などが並んでいる。

馬頭観音 土手道 唐古橋 川北公民館・石造物
悪戸の石造物群の先は、旧街道が消滅しており、県道344号線に出るか、右手の都幾川土手を通るかのいずれかである。
土道を選んで土手方向に進むと、突当りに明治24年(1891)の馬頭観音が建っている。
都幾川の土手に上がると、菜の花に覆われた道がわずかに見える程度である。
河川敷には、群生する紫の花が灌木の下に咲き乱れている。
土手道を進んで唐古橋の手前でトンネルを潜って上流側に出たが、渡し場跡の遺構は無いため、戻って階段を上がり唐古橋に出る。
唐古橋は都幾川に架かる橋で、並行して関越自動車道が上流側を走っている。
唐古橋を渡って、一旦右側からUターンして唐古橋と関越自動車道の下を潜り、流側に出て土手を進むと、右手に川北集落へ下りる旧道がある。
旧道に出ると左手に川北公民館があり、その右脇に石造物が並んでいる。
石造物は、普門品供養塔・一面六臂の青面金剛の庚申塔などである。

大山常夜燈 萬蔵寺 定宗寺 馬頭観音
石造物から程なく、左手の㈲本郷自動車の脇に明治32年(1899)の大山常夜燈が建っている。 大山常夜燈の先の十字路を、左に150m程入ったところに天台宗の萬蔵寺がある。
萬蔵寺の創建年代等は不詳であるが、参道口に宝暦10年(1760)の地藏菩薩・風化の進んだ石仏が建っている。
街道に戻って道なりに進んで行くと、県道344号線に突き当たり、左折して程なく左手の高橋モータースの向かいの筋を北に入って行くと天台宗の八正山定宗寺がある。
定宗寺の創建年代等は不詳であるが、境内には十三仏が祀られた六角形の堂宇・納経堂などがある。
街道に戻ると高橋モータースの脇から左に入る旧道があり、進んで行くと右手の畑の中に昭和11年(1936)の馬頭観音が建っている。
この旧道は、250m程先で県道344号線に合流する。

阿夫利神社御神燈 若宮八幡神社 馬頭観音 唐古神社
旧道が県道344号線の合流するところに、大正10年(1921)の阿夫利神社御神燈が建っている。 県道に合流して進むと、逆Y字路の右手に若宮八幡神社の鳥居が建っている。
鳥居から200m程参道を進むと、若宮八幡神社の社殿が、墳丘の上に建っている。若宮八幡神社は、慶長元年(1596)に鶴岡八幡宮より神霊を分祀して造営されたものである。
この墳丘は、若宮八幡古墳と呼ばれ、3世紀の中頃から7世紀の終わり頃にかけて造られたもので、社殿の建つ墳丘に横穴式石室が残っている。
若宮八幡神社の両部鳥居のところから街道に出て先に進むと、唐古中央公園交差点の右手角の民家の塀に、安永8年(1779)の三面六臂の馬頭観音が建っている。 唐古中央公園交差点を左に進んで、唐古中央公園の先を南に300~400m程回り込むと唐古神社がある。
唐古神社は、応永18年(1411)の創建で、時の領主左兵衛佐藤原重時が秩父郡の椋神社の分霊を奉斎し白髭大明神と称したことに始まる。近隣の村々からは 「唐子のお諏訪様」 の名称で呼ばれている。参道口にある下唐古公会堂の前には、阿夫利神社御神燈・ひび割れた弁財天が建っている。

埼玉太平洋生コン㈱ 千部供養塔 馬頭観音 浄空院
街道に戻って、暫く先に進んで行くと、右手に埼玉太平洋生コン㈱東松山工場がある。 埼玉太平洋生コン㈱東松山工場を過ぎると、右手のひかり食堂の斜向かいの筋角に文化5年(1808)の千部供養塔が建っている。
供養塔には、「千部供養塔、太高山浄空禅院」 と刻まれている。
千部供養塔の筋を左(南)に進むと、浄空院へ向かう道の左手に、天保4年(1833)の馬頭観音が建っている。
この馬頭観音は、道標を兼ねており 「右川越道、左松山道」 と刻まれている。
馬頭観音の向かいの筋から杉林の道を進むと、右手に曹洞宗の太高山本通寺浄空院がある。浄空院は、天正19年(1591)から文化8年(1811)まで此の地を領した菅沼氏の祖定吉が開祖となり、文禄2年(1593)越前の永平寺より喚龍善応和尚を招いて開山の始祖とし、浄空院と号したのが始まりと云われている。本堂は宝暦3年(1753)に再建されたもので、他に坐禅堂・庫裡があり、本堂裏手の菅沼氏一族の墓とともに市指定文化財に指定されている。

七鬼神社 井戸・小社 白山神社 菅谷第一尋常高等小学校跡
街道に戻って、上唐子東交差点の逆Y字路を右折すると、右手に七鬼神社がある。
由緒等の解説もなく全く不明であるが、社殿は大小二社並んでおり、手前に七鬼神社社標が建っている。
上唐子東交差点の左にある岩田園製茶工場の前に井戸と小社がある。 上唐子東交差点から程なく、白山神社南交差点を右(北)に200m程進んだところに白山神社がある。
白山神社は、寛文年間(1661-72)此の地の信仰厚き人々により、菊理媛命・伊耶那岐命・伊耶那美命を祭神に迎え創建したという。その後、嘉永2年(1849)の大火、安政4年(1857)の再建を経て、現在の社殿は昭和52年(1977)に新築されたものである。
街道に戻ってどんどん進み、国道254号線嵐山バイパスを越えて進むと、右手の岡松屋和菓子店の向かいに菅谷第一尋常高等小学校跡碑が建っている。

武蔵嵐山駅
本日は、菅谷第一尋常高等小学校跡の直ぐ先の嵐山駅入口交差点を右折して、東武東上線の武蔵嵐山駅に出て終了である。
開駅当時は、土地の名から 「菅谷駅」 と称していたが、京都の嵐山に似た風光明媚な景勝の地で、槻川橋付近の景色は特に京都の嵐山に似ていることから、「武蔵嵐山」 と呼ばれ、昭和10年(1935) 「武蔵嵐山駅」 と改称した。

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