大穴の小高い丘の上に、陣屋があったと伝えられています。中世に築かれた城を、江戸時代に陣屋として利用したと考えられています。陣屋は城や居館、役所などとして使われた建物です。 現在は、当時の面影を残す土塁がわずかに残っているだけです。
江戸幕府によって江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」に「小字大穴に、古くからここに陣屋があったと伝えられ、周囲をめぐる土手が残っている」と記述されています。また、「三芳野村郷土誌稿」にも「中小坂稲荷社の四方に城跡があり、大穴と言われる。誰の居城か分からないが、鎌倉街道に続くので、当時の陣屋跡だったかもしれない」とあります。
 東坂戸団地の建設で、周囲の様子は大きく変わってしまいましたが、このあたりの雑木林が残る小高い丘の上には、土塁がわずかに残っています。中世にこの地を治めていた土豪については全く記録が伝わっていません。大穴城跡より北方の、川越市下広谷にある大堀山館跡などと関連があると考えられます。
ここは五反山または、御殿山とも呼ばれ、一説には江戸時代初期の旗本本多九蔵秀玄が、天正18年(1590)以降に陣屋を置いたと言われています。これが事実ならば、これまであった中世の館を改修して利用したのでしょう。
坂戸市教育委員会

大穴城跡解説板

花壇が整備された公園になっている