加賀爪氏は、徳川家に仕えて禄高一万石を領し、この地に陣営を置いた領主です。しかし、元和元年(1681)に加賀爪氏は、その家禄を断絶されました。
加賀爪政尚は、徳川家康に仕え、長久手の戦い、小田原征伐に戦功があり、比企と相模国高座(神奈川県高座郡)に三千石を領しました。加賀爪忠澄は、関ケ原の戦い、大阪の役に戦功があり五千五百石を領し、江戸町奉行に登用されました。加賀爪直澄は、旗本中の乱暴者として通ったようですが、書院番隊長、寺社奉行等を勤めました。また、茶道にも通じていたらしく、鶴陽舎一明、別に、名月庵鑑とも号していたと伝えられています。
加賀爪氏は、直澄の代に成瀬氏との間で領地問題を起し、天和元年(1681)に領地を没収されています。 (以下、墓碑銘が記されている。)
加賀爪氏累代の墓
城山稲荷社本殿
加賀爪氏累代の墓解説
高済寺山門
山門に掛かる大渓山の扁額
六地蔵尊
高済寺本堂
本堂内陣
城山稲荷社