この柊は老樹名木の蘗(ひこはえ)で景行天皇の御代に日本武尊が東征の際、この地に至り社前の柊の根元に憩い 「清き土なり」 とおおせられたので、爾来この村を 「清土」 と称したが、何時の頃よりか 「清戸」 と改められたと言い伝えられている。
 当時の柊の老樹は大正年間の台風により風損したが、其の根株より生じた蘗(ひこはえ)である。

柊と地名の由来

柊(ヒイラギ)

御嶽神社築山

境内社の御嶽神社石鳥居

御嶽神社石祠

境内社の八雲神社

水天宮石鳥居

水天宮拝殿

 本殿のまわりには腰組付(こしぐみつき)の切目縁(きりめえん)をまわし、軒(のき)はニ軒(ふたのき)の全扇垂木(ぜんおおぎたるき)になっています。
 日枝神社は江戸時代、山王社大権現と呼ばれて神仏習合でした。本殿の建築様式は、和洋を基本としながらも軒を扇垂木にするなど禅宗の様式をとり入れています。雲紋(うんもん)を主にあしらった彫物の模様をはじめ全体に江戸時代中期の特徴をよく示している建物です。
 基壇(きだん)の石組に宝暦9年(1759)と彫られており、本殿もそのころ建てられたと推定されます。
(清瀬市教育委員会)

 一般に杉の老木や巨木は山地か丘陵に生育していますが、日枝神社の杉は台地にしっかりと根を張って巨木になりました。樹齢は約400年といわれています。このように台地で巨木になった杉はめずらしいものです。
(清瀬市教育委員会)

推定400年の杉

日枝神社本殿説明

宝物庫・獅子保存庫

拝殿に掛かる日枝神社の扁額

日枝神社拝殿

 二基の石燈籠は、参道の両側に向かい合って建てられていました。竿は六角柱で、それぞれに 「見ざる」 「聞かざる」 「物言わざる」 の三猿が彫刻されています。日枝神社は山王様と呼ばれて人々に親しまれ、猿は山王様の使いと信じられていました。
 燈籠の竿部に 「山王開闢(かいびゃく)天正七天(1579)中嶋築後守信尚開之」 と彫られ、さらに寛文4年造立の燈籠には山崎傳七良以下 下清戸村11名が、又宝永7年のものには中清戸村小寺字佐衛門尉重政の名が刻まれており、中世末から近世にかけて、清戸の開発を知る貴重な手がかりとなっています。
(清瀬市教育委員会)

手水舎

日枝神社山王鳥居

天皇陛下御即位十年記念石燈籠は

境内社の白山神社

境内社の金刀比羅神社

境内社の御霊神社

三猿の石燈籠説明

三猿の石燈籠