下野市庁舎歩道にある日光街道案内

民家生垣と畑の間の道

街道は下野市庁舎の真ん中を通っている

江戸幕府は、江戸日本橋を起点とした五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)を幹線とする全国的な交通網を整備し、一定の距離をおいて宿駅(宿場)を定めました。
下野市役所周辺は笹原新田といわれ、小金井宿と石橋宿の間に位置しています。庁舎建設に伴う発掘調査では、側溝をもつ幅約8~10mの日光街道跡が3時期確認されました。
笹原新田は、「日光道中略記」 によると 「当所は万治二年小金井宿の民、此の地の民と協力して開発せし故、金井村新田と呼びしが、其はじめ笹原なりしを以て元禄の頃より笹原新田と改む」 とあり、万治2年(1657)、小金井宿の住民とこの地の住民が力を合わせて、笹の生えた原野を切り開いたことをうかがうことができます。また、 「日光道中絵図」 には、庁舎敷地の南側、杉並木のある日光街道を挟んだ両側に 「野池」 が描かれており、「日光道中記」 によると、野池の説明が 「暮春のころはカキツバタ見事なり」 と書かれ、カキツバタの名所とされていました。
この野池周辺は、土地が低かったため土橋が架かっていたのか、土橋という地名が残っており、現在も土橋公園と公園南側の土地が低く、野池の名残を見ることができます。