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日光街道   (石橋~宇都宮)


平成28年10月20日(木)  ☀|☁   石橋~宇都宮  15.1㎞
今日は宇都宮までの短い距離であるが、夕方から東京で会合があるため、今朝は6時40分に石橋駅に降り立ち、昨日の続きの石橋交差点に出て出発である。この先は宇都宮宿まで間に雀宮宿の一宿があるだけである。

石橋宿名主跡 開雲寺 馬頭観音ほか 旧家
石橋交差点の手前右手に伊澤茶舗があるが、この家がかつての石橋宿名主を勤めた伊澤家跡である。 石橋交差点を過ぎると右手に真言宗智山派の石橋山開雲寺がある。
開雲寺は、宝亀12年(781)恵雲律師が薬師如来を本尊として瑠璃光院東光寺として開山したのが始まりで、江戸時代には徳川将軍より寺領七石を下賜され、日光社参の際の休憩所となった。境内の塀には、矢狭間・鉄砲狭間があり、寺紋は三つ葉葵である。
開雲寺を過ぎると左手にあるマクドナルドの斜向かいに当たるブロック塀に4基の石仏石塔が建っている。
かなり風化が進んでいて、やっと判別できるのは馬頭観音と如意輪観音である。
馬頭観音の直ぐ先右手に大谷石の塀と大谷石の石蔵に挟まれた古めかしい門の大きな家が建っている。
この家の角から右に入ると個人経営の石橋あやめ園があり、5月から6月にかけて見事な花が見られるという。

石祠ほか 地蔵堂 大ケヤキ 上三川町
左手の東京から94kmポストの建つバス停を過ぎると、市村運輸の入口に赤い鳥居が目についたので失礼して入ってみた。
赤い鳥居の奥には石祠が2基つ建っており、その傍らには、明治22年(1889)の馬力神・南無妙法蓮華経題目碑が建っている。
市村運輸から50~60m程進むと、左手に一見ただの小屋にしか見えない御堂がある。
御堂の前には香炉が置かれているので、それと分かる。御堂の中には、木造の地蔵菩薩立像や観音菩薩が無造作にたくさん並んでいる。
地蔵堂の先で街道が右に緩やかにカーブすると、左手の邸宅内に大きなケヤキが立っており、街道の面影を残している。 痕跡が全く残っていない下古山一里塚のあったという下小山交差点を過ぎると、東京から95kmポストの建つところで上三川町(かみのかわまち)に入って行く。
下小山一里塚は、江戸日本橋から数えて24里目の一里塚である。

解体中のそば処本陣 石蔵 鞘堂地蔵尊 星宮神社
下野警察署を過ぎると左手に解体工事中のそば処本陣がある。
馬に乗った家康公像も間もなく解体されると思われる。
街道右手には、大谷石を使った石蔵が建っている。
この辺りの家には、こうした大谷石で造った石蔵が多く見られる。
石蔵から程なく右手に鞘堂地蔵尊と記された行灯らしき標柱が建っている。
この奥は遊具が置かれた公園で、その一角に地蔵堂がある。天授6年(1380)小山義政が領地争いで宇都宮基綱を殺害したため、鎌倉幕府が小山義政追悼令を出し、3度の戦いで義政を滅ぼした。その際、戦死者の鞘を拾い集めて埋めたところに御堂を建てたことから、鞘堂という地名になったという。
程なく左手の林の中に星宮神社がある。
星宮神社の創建年代は不詳であるが、ここ鞘堂の鎮守である。
拝殿横には5基の石祠が並んでおり、拝殿の裏の森の中には庚申様、雷電の神様、疱瘡稲荷があり、疱瘡稲荷の手前に昭和初期鳥居跡標柱が建っている。

北関東自動車道 宇都宮市 南無妙法蓮華経題目碑 自衛隊宇都宮駐屯地
星宮神社の先に東京から96kmポストが建っており、その直ぐ先に北関東自動車道の高架が街道を横切っている。
北関東自車道は、群馬県前橋市、栃木県宇都宮市、茨城県水戸市の県庁所在地を通過している。
北関東自車道の高架をくぐると、その先の藤原整形外科の前の交差点で宇都宮市に入って行く。 宇都宮市に入ると右手のホームセンターカンセキ雀宮店の手前にある茂原児童公園の中に、明治34年(1901)の南無妙法蓮華経題目碑が街道を向いて建っている。 街道の左手に自衛隊宇都宮駐屯地がある。
宇都宮駐屯地は、警察予備隊発足の3ヶ月後の昭和25年11月、224名の設営隊が旧軍需工場 「関東工業株式会社」 跡地に入ったのが始まりという。

布袋尊像 安塚街道入口 正光寺 雀宿脇本陣跡
茂原自衛隊前交差点を過ぎた右手のイエローハット宇都宮南店の駐車場に巨大な布袋尊像が建っている。 安塚街道入口交差点から左折する道が安塚街道と呼ばれており、壬生町安塚と宇都宮市雀宮を結ぶ一般道である。
この交差点を越えた辺りが、雀宮宿の入口である。
安塚街道入口交差点を越えると左手に天台宗の犬通山正光寺がある。
正光寺は、正徳5年(1715)の開基と云われるが詳細は不明で、参道両側は墓地となっている。
境内には不動堂があり、如意輪観音・庚申塔などの石造物がある。
雀宮駅前交差点の右手に脇本陣跡芦谷家があり、表門などの遺構が残っているが修復中であり、稲荷社など一部が周辺に置かれていた。
雀宮宿は、天保14年(1843)の記録によると、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠38軒、人口268人であったという。
本陣跡は街道左手にあったというが、現在道路の改修中で標柱などは見当たらず、別の場所に退避している可能性がある。

石蔵 馬頭観音 雀宮神社 自衛隊北宇都宮駐屯地
雀宮駅前交差点を過ぎると右手に、門柱から塀に大谷石をふんだんに使った家があり、広い庭の奥に大谷石を全体に使用した立派な石蔵がある。 直ぐ先の雀の宮上町公民館の脇に小社があり、中には安政5年(1858)の馬頭観世音、2基の馬力神が安置されている。
馬力神は、東京から94kmポスト付近の市村運輸の入口にもあったが、栃木県周辺に多く見られるもので、愛馬供養のためのものである。
雀の宮上町公民館の隣に雀宮神社がある。
雀宮神社は、長徳3年(997)に源八幡太郎義家によって創建され、御諸別王を主祭神とし、素盞嗚命、大山祇命を祀っている。
正徳3年(1713)、東山天皇から金文字で 「雀宮」 と書かれた勅額が下賜され、この額が社頭にあったため将軍家を始め諸大名は、下乗して参拝したと云われている。勅額は本殿に保存されている。雀宮宿の北口がこの辺りであったという。
国道121号線を越えて進むと左手に自衛隊北宇都宮駐屯地がある。
北宇都宮駐屯地は、昭和17年(1942)から中島飛行機(株)が工場・飛行場用地の買収を開始し、昭和19年(1944)飛行場の運用が開始されたのが始まりで、その後、米軍管理、防衛庁管理など諸々の変遷を経て現在に至っている。

寿鶴薬師堂 菅原神社 江曽島一里塚跡 石仏
北宇都宮駐屯地の直ぐ先で東京から102kmポストを過ぎると、左手の空地脇に寿鶴(すづ)薬師堂がある。
ここには解説もなく詳細は不明であるが、薬師堂内には 「南無薬師如来」 の書が掛けられており、如意輪観音・地蔵菩薩・十九夜塔・石碑などが安置されている。
先に進むと右手に菅原神社がある。鳥居の横に宇都宮市消防団横川第2分団倉庫があり、その奥に台新田集会所があって、更にその奥に菅原神社がある。
菅原神社は、学問の神様として知られる菅原道真公を祀る神社である。
ここ台新田は、慶長年間(1596-1614)石高258石の村として成立したという。
東京から103㎞ポストを過ぎると一里交差点があり、交差点の右手にJR東北本線の一里踏切がある。
この付近の北寄りに江曽島一里塚があったというが、鉄道の開通により完全に撤去されて痕跡は残っていない。
ここは江戸日本橋から数えて26里目の一里塚である。
一里交差点を過ぎるとポルシェセンター宇都宮店の隣の雑草が生い茂るところに石仏が背を向けている。
廃材置き場か石材屋の跡地か不明である。

石祠 西原交差点 不動堂 不動前通り
川田入口交差点を過ぎると左手にこんもりとした林が見える。
この林の街道近くに石鳥居とその奥に大正7年(1918)の石祠がある。
東京から104.4kmポストの西原Y字路交差点で国道4号線と別れて、直進する国道119号線に入って行く。
日光まで31㎞の標識と日光の社寺41㎞の標識が建っている。
先に進むと不動前交差点を渡った角に不動堂がある。
ここは旧奥州街道との分岐であり、左に進むと日光街道で、かつての奥州街道は北東に進んでいく田川沿いの道筋であったという。
不動堂脇には、昭和3年(1928)の御大典記念の道標が建っており、「正面東京に至る」、「右奥州街道及び日光街道」、「左裁判所前に至る」 と刻まれている。
不動堂から左に入る道が不動堂前通りで、車は不動堂の右を直進して行くので、この通りは車の往来も少なく、歩道上には花が植えられていて気持ちの良い道である。

蒲生君平勅旌碑 台陽寺 熱木山不動尊 神明宮
東武宇都宮線のガード下をくぐると、右手の覆屋に明治2年(1869)建立の蒲生君平勅旌碑がある。
蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに 「寛政の三奇人」 といわれた人で、朝廷の官職についてまとめた 「職官志」 や国防についてまとめた 「不恤緯」 などを著した。覆屋の前には蒲生君平勅旌碑標柱・解説碑などが建っている。この辺りが、宇都宮宿の南口で木戸・土塁・番所があった。
先に進むと左から合流する富士見通りとの交差点を過ぎた左手に曹洞宗の西原山台陽寺がある。
台陽寺は慶長10年(1605)宇都宮藩主が城内に建立したが、その後、町割りによってこの地に移ったという。参道には、宇都宮藩主戸田氏の守り地蔵尊だったという子安地蔵尊・大乗妙典供養塔などの石造物がある。
台陽寺の先で十字路交差点を越えると、左手に熱木山不動尊がある。
この不動尊は、初代下野の国司宇都宮宗円が奥州征伐の際、城山村多気山頂に陣を張ったときに、戦勝を祈願して造った三体の不動尊のうちの一体である。
熱木山不動尊の先の変則十字路の右手に神明宮がある。
神明宮の由緒は不明であるが、境内には石祠が2基と、カメとウサギの石像がある。

一向寺 天満宮 報恩寺 光琳寺
神明宮の直ぐ先左手に時宗一向派の清照山一向寺がある。
一向寺は宇都宮景綱による開基であり、宇都宮家第12代当主であった宇都宮満綱によって、応永12年(1405)に建立された銅造阿弥陀如来坐像が安置されている。この像は、世の中に異変が起こると汗をかくと云われ、別名 「汗かき阿弥陀」 と云われ、日曜日に拝観できる。境内には、宇都宮景綱公の歌碑・鷲谷七菜子の句碑などが建っている。
一向寺の斜向かいにあるT字路交差点の右手に天満宮がある。
天満宮は、宇都宮城築城の際、城の東方の中河原天神社と同時に城の西方を守る守護神として西原に祀られたと伝えられている。
境内には、学問の神様を祀るということからか二宮金次郎像がある。
天満宮の向かいの道路を60~70mほど入ると右手に臨済宗妙心寺派の松嶺山報恩寺がある。
報恩寺は、宇都宮藩主奥平家昌の正室仙遊院(本多忠勝の娘)により開山され、粱津玄棟和尚によって寛永16年(1639)に創建されたと云われている。
境内には、戊辰戦争で亡くなった官軍兵士の墓などがある。
街道に戻って進むと、次の交差点を西に150m程入った突当りに浄土宗の清映山光琳寺がある。
光琳寺は、応永32年(1425)松が峰に建立され、その後、伊賀町に移ったが火災により焼失した。慶長10年(1605)に六道に再建された。
山門の手前の両側に六地蔵尊が並び、山門をくぐると右手に戊辰の役官軍因幡藩士之墓がある。

観専寺 安養寺 宇都宮簡易裁判所 追分
街道に戻って中央分離帯のある大通りを越え、その先の信号で左手の一方通行路を入ると右手に浄土真宗本願寺派の稲木山観専寺がある。
観専寺は、建永元年(1206)信願房(清和天皇の後胤、佐竹常陸介義隆の次男稲木次郎義清)により建立された。
観専寺の北側の道路を隔てたところに浄土真宗本願寺派の安養寺がある。
安養寺は、宗祖親鸞が花見ヶ岡で大蛇済度のときに草庵を創建し、弟子の順信房に譲ったのが始まりと伝えられている。
安養寺から街道に戻ると大通りに突き当たり、この突当り左に宇都宮簡易裁判所・家庭裁判所がある。 裁判所前を右折して間もなく左に曲がる道角に本郷町通りの標識が建っている。
江戸時代からの街道は、ここで日光街道と奥州街道に分れた。北へ向かう清住町通りが日光街道、東へ向かう大通りが奥州街道に当たり、多くの人馬で賑わった場所である。

旧商家上野家 弥勒堂 三峯神社 正行寺
清住町通りに入って直ぐ右手に、周囲の建物と比べて際立って目立つ古めかしい土蔵のある家が建っている。
この家は、江戸時代中期に油屋の屋号で油売業を創業し、後に副産物の油粕を肥料として売っていた上野家である。
土蔵のある家の向かの駐車場奥に赤い屋根の弥勒堂がある。
弥勒堂には、旧本郷町にあった妙覚院廣隆寺の境内にあった二十三夜尊が祀られている。
弥勒堂の先のアパート前に張り付くように三峯神社がある。
この三峯神社は、天保3年(1832)武州三峰山(火防の神)の分身を勧請して建立したのが始まりと云われている。
社殿には八坂神社が合祀されており、参道には金網で覆われた昭和12年(1937)の常夜燈が建っている。
街道を少し離れて、弥勒堂の前の一方通行路を東に進むと左手に浄土真宗本願寺派の正行寺がある。
正行寺の創建年代等は不詳である。

二里山地蔵尊 真福寺 延命院 宝勝寺
正行寺の近くを流れる釜川の傍に二里山地蔵尊がある。
近くに解説もなく詳細は不明であるが、地蔵堂には3体の地蔵尊が安置さている。
二里山地蔵尊から西へ向かって街道へ戻る途中に黄檗宗の慈運山真福寺がある。
真福寺の創建年代は不詳であるが、明治元年(1868)の兵火で本堂・庫裡・書院等を焼失し、僅かに開山堂・宝篋印塔が残っただけで、昭和5年(1930)鐘楼堂を建立し、昭和15年(1940)に本堂を新築再建した。
真福寺の北側の街道近くに真言宗智山派の摩尼山宝珠寺延命院がある。
延命院は、康平6年(1063)藤原宗円が源義家の持仏で比叡山横川にあった定朝作の延命地蔵菩薩立像を捧持して宇都宮城内に祀ったのが始まりで、元和6年(1620)宇都宮城主本多正純が城郭周囲を拡張整備した際に現在地に移転した。
境内には延命地蔵堂・不動堂・推定樹齢350年のトチの木などがある。
延命院から街道に戻ると、左手に時宗の蓮池山宝勝寺がある。
宝勝寺は、鎌倉時代に宇都宮景綱が蓮池から拾い上げた阿弥陀如来を祀るために草庵を建てたのが始まりと云われる。本堂には本尊の阿弥陀如来立像と恵心僧都作と言われる日限地蔵尊が祀られている。
墓所には、宇都宮出身の川柳家前田雀郎の墓がある。

桂林寺 琴平神社 二荒山神社 JR宇都宮駅
宝勝寺の先の変則十字路右手に曹洞宗の松峰山桂林寺がある。
桂林寺は、応永3年(1396年)宇都宮家第12代当主宇都宮満綱によって建立された。最初に高麗門があり、その奥に山門があるため城内を思わせる参道になっている。
境内には、八角地蔵堂、一見地蔵菩薩に見えるマリア観音があり、墓所には蒲生君平の墓がある。桂林寺の前辺りが、宇都宮宿北口の木戸があったところである。
桂林寺に隣接して琴平神社がある。
琴平神社の創建年代等は不詳であるが、主祭神は大物主命を祀り、境内には菅原神社・三峯神社・稲荷社の境内社のほか、神楽殿・不動堂などがある。
今回の街道歩きは、ここで終了しJR宇都宮駅へ出て帰ることとした。
街道からJR宇都宮駅へ向かう途中に二荒山神社がある。
二荒山神社は、第16代仁徳天皇の御代(今から約1600年前)に祖神である豊城入彦命を荒尾崎(現下之宮)に祭神として祀ったのが始まりで、その後、承和5年(838)に現在の地臼ヶ峰に遷されたと伝えられている。境内には初辰稲荷神社・女体宮・須賀神社・市神社などたくさんの境内社がある。
二荒山神社の先で田川に架かる宮の橋を渡ると、突当りがJR宇都宮駅である。

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