仁和寺宮嘉彰新王は、伏見宮邦家親王の第八子。
安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法新王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗。
東伏見宮嘉彰親王と改称した。同4年1月の鳥羽・伏見の戦に、征東大将軍として参戦。明治元年(1868)6月会津征伐越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。
会津藩降伏後、高田を経て東京へ向かう途中、岩下村・尾崎儀兵衛宅を御小休所とした。
明治10年(1877)5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。
同15年(1882)には、小松宮彰仁親王と改称。同20年(1887)、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。
同31年(1898)元帥府に列せられる。
同36年(1903)2月18日、58歳で薨去。
墓は東京都文京区大塚の豊島園墓地にある

明治11年(1787)8月30日、明治天皇、北陸東海両道御巡幸に御発輦。
9月7日小諸行在所より牧家・田中を経て午後3時20分岩下に至り、当所・尾崎惣作邸で御小休。
岩下御小休所は門構を入り、式台から取次の間に上ると右手奥に今回のため新築された一段高い御座所の間があった。また屋根には菊花御紋章を戴く。
供奉する者は、岩倉具視・大隈重信・井上馨などの太政官と内務・大蔵・陸軍省・警察局で総勢数百余名である。
昭和11年(1936)11月2日文部大臣より聖蹟として指定され隣接地に記念碑が建てられた。戦後指定解除。

仁和寺宮嘉彰親王御遺跡碑

明治天皇岩下御小休所跡碑