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北国街道

 北国街道は江戸幕府によって整備された脇街道で、中山道からは信濃追分で別れて善光寺を経由して直江津で北陸道に合流している。佐渡の金を江戸へ運ぶ重要な道であり、また善光寺への参拝のために整備された道でもあり、別名善光寺街道とも呼ばれている。

平成27年8月16日(日)  雨/☀   信濃追分 ~ 滋野   <歩き20.0㎞>
前々日に佐久市で用事があったので、そのついでに北国街道を歩こうと思い、早朝、しなの鉄道で信濃追分に出たが、駅に降り立つとどしゃ降りの雨でかなり涼しい。ここで引き返す訳にもいかず、カッパを着こんで傘をさして出発した。途中で雨が上がり陽が射し始めると一気に気温が上がり真夏日となった。

信濃追分駅 追分 旧道口 三ツ谷集落
しなの鉄道の小諸駅から約15分程で信濃追分駅に到着する。駅に降り立つと肌寒く、風雨ともに強いがカッパを着こんで出発した。
街道までは別荘地帯の道を進んで行く。
追分宿の先に中山道と北国街道の追分があり、一番手前に道祖神、その後ろに延宝7年(1679)の分去れ道標があり、「右、従是北国海道 左、従是中山道」と刻まれている。
この他、安永6年(1777)の森羅亭万象歌碑、寛政元年(1789)の常夜燈、子育地蔵尊、元禄6年(1693)の勢至菩薩、寛政7年(1795)の大乗妙典日本廻國供養塔などがある。
追分の直ぐ先で日本ロマンチック街道と名付けられた国道18号線に合流し、暫く進むと左手に御代田駅の道路標識のある旧道口がある。 旧道を進み三ツ谷集落に入ると御代田北小学校交差点の角に石臼を使った石灯篭があり、交差点を過ぎて濁川に架かる濁川橋を渡って行く。

子育弘法大師 美崎神社 高山家 柵口神社
街道を進むと三ツ谷西交差点で国道18号線を横切って馬瀬口の集落に入って行く。
馬瀬口集落の中ほどの右手土蔵の脇に昭和22年(1947)の子育弘法大師像が建っている。
馬瀬口第一会館を過ぎると街道右手の畑の奥に美崎神社がある。
一之鳥居から畑の脇の草道を進むと二の鳥居があり、その右手に簡素な拝殿があり、その奥に美崎神社の石祠がある。
美崎神社から街道に戻って進むと信号交差点の右手前に長屋門の高山家がある。
門の前には明治天皇馬瀬口御小休所碑があり、門の隣には、明治32年(1899)に公爵二条基弘題額により建立された 「馬瀬口村駐輦碑文」 がある。
高山家の先の信号交差点を過ぎると右手に柵口神社がある。
街道に建つ社標は大正8年(1919)のもので、奥に見える鳥居の前の常夜燈も大正8年に建てられたものである。
参道を進むと両部鳥居があり、道路を挟んだ向かい側の段上に柵口神社の社殿がある。

長泉寺 筆塚 白山神社 平原跨道橋
柵口神社よりも街道に近い所に沼流山長泉寺がある。
長泉寺は元和年間(1615~24)に創建されたといわれており、馬頭観音が並ぶ参道をすすむと左に本堂がある。境内には、繭を持った石像、弘法大師碑、馬の石像、徳本念仏供養塔、庚申塔などがある。
長泉寺から街道に戻ると直ぐ右手に明治35年(1902)の筆塚がある。碑には古越石泉先生筆塚文と刻まれている。 筆塚の直ぐ先の右手に白山神社がある。
小さな社殿の中には、4つの社が安置されている。
白山神社を過ぎるとその先で国道18号線に合流し、更に進んで行くと上信越自動車の平原跨道橋を渡って行く。

旧道口 平原一里塚跡 金山神社 長龍寺
平原跨道橋を過ぎて平原東交差点の先で左に入る旧道がある。
旧道口には溶岩と思われる石があり、その先の石垣は溶岩が積まれて出来ている
旧道口から間もなく左手の畑の前に平原一里塚跡があり、寛政5年(1793)の馬頭観音が建っている。
ここは江戸日本橋から数えて40里目の一里塚である。
平原一里塚の先の右手に金山神社がある。
境内には形だけの神橋があり、社殿の左手には大聖不動明王、途中で欠けた御嶽山座王大権現がある。
金山神社の直ぐ先に寛永5年(1628)に創建されたという長龍寺がある。
参道には六地蔵大菩薩碑、観音像が安置され、境内には六地蔵尊、2基の五輪塔がある。

十念寺跡 平原の松 林先生記恩碑 光明寺
長龍寺の先の左手に南無阿弥陀仏碑と弘化2年(1845)の一遍上人初開道場碑が建っている。
碑の間を上がって行くと十念寺は既に残っていないが、土蔵の宝庫が残っている。ここには二十五菩薩来迎会に付ける仏面が納められている。
十念寺跡の直ぐ先に右手に土蔵の前を這うように横に伸びたクロマツの平原の松がある。
参勤交代に通った加賀の前田公も絶賛したと言われている。
平原の松から趣のある街道を下って行くと右手の段上に大正6年(1917)の林先生記恩碑が建っている。 街道を更に下ると右手に光明寺がある。
境内には薬師堂、不動堂のほか、馬頭観音、二十三夜塔、西国三十三所供養塔、庚申塔などの石造物がある。

白山神社 南無阿弥陀仏碑 平原 柏木小右衛門生誕之地碑
光明寺の先の十字路を右に入ると突き当たりに白山神社がある。
境内には稲荷神社、寛政10年(1798)の陽刻の石像、石祠などがある。
白山神社を出て十字路を直進していくと下り坂の右手の家の生垣の中に南無阿弥陀仏碑がある。
碑面には一天四海、皆帰妙法、本宮山などの文字が刻まれている。
更に下って行くと左手に国道141号線の下をくぐるトンネルがあり、越えた先で右手に進んで国道141号線に出て北川橋を渡って平原交差点を左折して国道18号線の坂道を進んで行く。
左手に見える写真の橋が旧道であるが、国道18号線に出る途中で道が無くなっている。
国道18号線の坂道を上り切った先の四ツ谷東交差点でY字路左の国道14号線に入って行くと右手に柏木小右衛門之生誕地碑が建っている。 柏木家は武田家家臣で、柏木城を与えられこの地を統治していたが、武田氏滅亡後、新田開発を行い、江戸初期に柏木小右衛門は御影用水の開発を時の小諸城主青山因幡守宗俊に申し出、新田開発を許可され御影新田830石を開発した。

白山比咩神社 大源神社 道標 加増稲荷神社
四谷交叉点の手前右手の坂道を上がって行くと石川県・岐阜県の県境に立つ白山(標高2,702m)を神体山として祀る白山比咩神社がある。境内の一帯は公園になっている。 白山比咩神社の更に坂上の国道18号線沿いに大源神社がある。
特に拝殿などがある訳ではなく、大源神社碑の脇にある石垣の上に石祠や奇妙な石が並び覆屋が有るだけである
街道に戻って四ツ谷交差点のデイリーヤマザキの右の下り坂を進むとT字路の左角に道標が建っている。
正面に 「南無阿弥陀仏」、右に 「右甲州道」、左に 「左江戸海道」 と刻まれている。
道標の先で小川を越え、緩やかに上って行くと右手の国道141号線を渡ったところに加増(かます)稲荷神社がある。
この神社は、小諸城を築いた仙石秀久が守り神として城内に祀ったのが始まりと云う。境内には文政6年(1823)の石灯籠、文政3年(1820)の常夜燈、石祠などがある。

平和公園 唐松一里塚跡 真楽寺道標 石祠・馬頭観音
街道に戻って進むと程なく国道141号線に合流し、右手の職業安定所の標識のところに平和公園がある。
公園内には、明治天皇御駐輦跡碑、殉国観音像、小室節歌碑などがある。小室節の唄の元は、古くから馬の飼育されていた御牧ケ原から、朝廷に馬を献上する 「貢馬(くめ)」 の道唄であったという。
平和公園の先の唐松交差点で三筋の道に分れており、右手の道の両側に唐松一里塚跡がある。それぞれの塚上に一里塚標柱が建てられ、右の塚には勢至菩薩像がある。
この唐松一里塚は、追分で中山道から分かれた北国街道の第3番目に当たり、江戸日本橋から数えて41里目の一里塚である。
北国街道は中央の道を進んで行く。
街道を進んで行くと唐松一里塚のあった道と合流し、その先の十字路の右手に真楽寺道標が建っており、道標の傍らには、馬頭観音、2体の地蔵尊が安置されている。 街道を外れて真楽寺道標の十字路を蛇掘川に沿って下って行くと左手に石祠と上部の欠けた馬頭観音が建っている。

日限地蔵堂 かど屋 北国街道与良館 高浜虚子庵
石祠の先で国道141号線に突き当たり、右に進んで行くと左手に日限地蔵堂が建っている。
日限地蔵尊は日を限って祈願すると願いが叶えられるといわれる地蔵菩薩である。
堂の中央に日限地蔵尊が安置され、その下に沢山の石造物が安置されている。御堂の傍らには、宝暦13年(1763)の道祖神、明治12年(1879)の馬頭観音などがある。

日限地蔵堂から街道に出る角地に屋号かど屋が建っている。
この家は国土交通省の補助事業で小諸宿周辺地区修理修景事業によって整備された家である。こうした家が街道に幾つか建っている。
かど屋の先の右手に北国街道与良館が建っている。与良館は旧北国街道沿いの旧松屋(江戸時代漆器屋で、その後家具問屋となる)を整備した地域交流の拠点施設である。
敷地内には小諸藩の御用金蔵の銭蔵も移設され、神輿蔵、祇園石なる尾張の国津島の祇園様が祀られた石も安置されている。
北国街道与良館の先に高浜虚子庵入口があり、入って行くと北国街道与良館の裏手に当たるところに高浜虚子旧居が建っている。
高浜虚子は、昭和19年9月、激しさを増した戦火を避けて、この地に疎開し、昭和22年9月まで足かけ4年をここで暮らした。

小山家 長勝寺 佛光寺 八幡神社
高浜虚子庵の直ぐ先左手に重厚な造りの小山家が建っている。
この家は400年前以上に建てられたもので、江戸時代には与良町の庄屋を務めており、当時のままの玄関や座敷を残している。小諸藩の殿様が時々訪れたという床の間には、いざという時に殿様が身を隠すための隠し扉が今も残されているという。
小山家の斜め向かい側に真言宗の長勝寺がある。この寺は、武田信玄が川中島の合戦に赴く際にここを通り、勝利を祈願して、長松寺を長勝寺と改名したと伝わる寺である。
参道脇には青面金剛と刻まれた石碑、元文6年(1741)の種子字と思われる石碑、火袋の無い常夜燈があり、山門脇には安産祈願の十九夜堂、與良蛭子神社がある。
街道を進んで荒町交差点を右に上がって行くと右手にトタン屋根の佛光寺がある。
ここは徳川将軍家のお寺の住職という最高の地位を捨てた呑龍上人が、鶴殺しの孝子 「源次兵衛」 の一命を救うため、源次兵衛を連れて隠棲した草庵である。
元和7年(1621)呑龍上人は徳川第2代将軍秀忠公から許されて群馬県太田の大光院へ戻っている。
佛光寺の先を進んで行くと突当りに八幡神社がある。八幡神社は、第54代仁明天皇皇子滋野親王が望月牧の牧監として在任当時に勧請したと伝わっている。
八幡神社の八朔相撲は、元禄4年、時の小諸城主石川能登守の命により、奉納相撲として始められ、今日に亘り由緒ある伝統行事として受け継がれている。

熊野神社 全宗寺 酢久商店 海應院
八幡神社に隣接して熊野神社がある。
熊野神社は、上信越国境碓氷峠に鎮座の熊野皇大神社より勧請し、当初、熊野堂に鎮座していたが、元禄16年(1688)に現在地に遷座した。
街道に戻った荒町交差点の2本目の路地に曹洞宗の全宗寺がある。
この寺は寛永19年(1642)頃、海應院第6世根山格道大和尚により開山された。
境内には福徳稲荷大明神、夜泣き地蔵と呼ばれる岩舟地蔵尊がある。
全宗寺を過ぎて次の十字路の先に延宝2年(1674)創業の酢久商店(小山家)がある。
小山家は山吹味噌のブランドで全国的に有名な味噌屋で、屋号は 「酢久」 もしくは 「やま九」 と呼ばれてきた。
建物の入口に掲げられている 「御味噌」 という看板には、見事な彫刻が施されている。
酢久商店の向かいに天文5年(1536)に創建された曹洞宗の海應院がある。
関ヶ原合戦の際、徳川秀忠の率いる東軍が、上田城に籠城する真田氏を攻撃したが、その時の和睦の仲立ちをしたと言われており、徳川家より賜った高麗茶碗や団扇が今も受け継がれているという。
境内には樹齢400年近い潜龍の松がある。

宗心寺 道標 光岳寺 つるや
海應院を出ると八十二銀行の先右手に曹洞宗の宗心寺がある。
狭い参道の左は土蔵が並んでおり、山門前には明和5年(1768)の寒念仏供養塔が建っている。境内には見事な松が植えられている。
街道には常夜燈を模った道標が建っており、荒町一丁目交差点にもこの道標がある。 街道は荒町一丁目交差点の先で直角に左に曲がっているが、この右角に浄土宗の光岳寺がある。この寺は徳川家康の母(お大の方「伝通院」)を弔うために小諸城主松平憲良が寛永元年(1624)に開いた寺である。
街道に面して立つ山門は元小諸城の足柄門を移築したもので、正面両側の柱に小さな屋根を持つ高麗門である。山門の先には享保元年(1716)に建立された八脚の楼門があり、境内には多くの石造物がある。
光岳寺山門の正面に延びる街道を進むと右手に天和2年(1682)創業の旅籠つるやがある。
文化人の泊り客も多く、小諸義塾の先生だった島崎藤村や画家の円山晩霞などに会いに来た画学生などが1ヶ月も泊まり込み、宿代が払えなくなったというエピソードもあるという。
植栽の中に小諸宿碑が建っている。

大塚味噌醤油店 骨董古民具店 そば七 健速神社
旅籠つるやの向かいに味噌・醤油を造って売っている老舗の大塚味噌醤油店がある。
右の主屋は江戸後期、左の蔵は明治時代の建物である。お店に隣接する蔵を袖蔵といい、この袖蔵には味噌・醤油の黒い漆喰の鏝絵の看板が付いている。主屋は2階が高いので出格子にして、その上に庇(ひさし)を付けてデザインを整えている。
街道左手の大和屋紙店の隣に熊の置物、戎面、古箪笥など雑多なものが店先に並んだ骨董古民具店がある。 骨董古民具店の隣がそば七で江戸時代に脇本陣代として建てられた建物で、入口の向拝が特徴である。
向拝は文化3年(1806)頃のものと伝えられ、当時流行った松や鳥が彫刻されている。
街道を外れてそば七の向かいの路地を進んでみこし橋を渡ると突当りに健速(たてはや)神社がある。
この神社は、健速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)を祠る神社であり、神輿は勇ましい暴れ神輿で、神社で浦安の舞が奉納され、神事が厳かに執り行われ、健速神輿の宮出しから始まり、石段落としの後、威勢の良い掛け声と共に街中を練り歩くという。

実大寺 ほんまち町屋館 小諸郵便局発祥の地 枡形
健速神社の隣に日蓮宗の実大寺がある。
階段脇には延宝7年(1679)の南無妙法蓮華経題目碑、日進上人の南無妙法蓮華経題目碑があり、境内には宗祖日蓮上人を祀った御堂がある。
実大寺から再び、みこし橋を渡って街道に出ると正面に黒い格子の綺麗な塩川塗料店があり、その先右手にほんまち町屋館がある。
町屋館の裏には、みはらし庭があり浅間山方向を一望できる。また町屋館には、健速神社の神輿が納められている。
ほんまち町屋館の先右手の武重医院西隣の駐車場前に古びた門があり、小諸郵便局発祥の地と書かれた木札が建っており、その前に書状集箱と書かれた箱がある。
郵便取扱所は地方の地主など有力者が任命されることが多く、小諸では ここで 「巴屋」 という旅籠を営んでいた小山六左衛門家に最初の郵便取扱所が設置されたという。
本町交差点の右手角にある 「ひしや釣具店」 の手前を右折すると右手に権兵衛坂の道標があり、ここを左折して 「そば蔵丁子庵」 のところで国道141号線を横断した先の 「味噌の富士屋」 の脇を通って行く。

養蓮寺 旧脇本陣「粂屋」 旧小諸本陣 小諸城大手門
富士屋の先で街道は直角に左折して行くが、この角に浄土真宗の養蓮寺がある。
この寺は江戸時代の相撲の雷電為右衛門家の菩提寺である。
出世した雷電為右衛門が江戸から着物のたもとに入れて持ち帰ったという 「たもと鐘」 がある。
養蓮寺の枡形から街道に出て間もなく右手に旧脇本陣の粂屋がある。
この建物は江戸時代後期のもので、建物左には駕籠に乗った位の高い人が使用する式台の玄関があり、中央には看板をつるす 「まねき屋根」 が残っている。
旧脇本陣の先に旧小諸本陣兼問屋上田家の建物がある。
建築年代は18世紀末~19世紀初頭と推定されており、現存する問屋場建築では全国に僅か2棟しかなく、その希少価値などから主屋と西隣にある藥医門が国の重要文化財に指定されている。
街道からは外れるが、街道左手に少し入ったところに小諸城大手門が保存されている。
この門は、慶長17年(1612)藩主仙石越前守秀久が小諸城を築いた時代の建築で、大工は江戸から招いたと言われ、当時としては瓦葺の門は珍しかったので 「瓦門」 と呼ばれたと伝えられている。懐古園の小諸城三の門とともに国の重要文化財に指定されている。

鹿島神社 天王社 観音像 臼田亜浪生誕の地碑
懐古園の裏手に当たる千曲川の崖の上に鹿島神社がある。
この神社は、元は小諸城の大手門付近にあったが昭和24年(1949)、小諸駅周辺の整備で現在地に遷座したもので、当時は小諸城主仙石秀久の崇敬もあって社領40石が安堵されていたという。境内には明治12年(1879)に小諸で生まれた俳人臼田亜浪の句碑、石祠などがある。
街道に戻ってしなの鉄道を越えた突当りに天王社がある。
社殿の脇には、神輿蔵と境内社の稲荷社が並んでいる。
天王社を右に進み中沢川を渡って行くと左手のガードレールの手前に寛政2年(1790)の観音像が建ている。
ードレールの左手は谷深い中沢川が流れている。
そば処の幟の立つ井泉庵を過ぎると右手に臼田亜浪生誕之地碑が建っている。
臼田亜浪は、明治12年(1879)小諸に生まれ、大正昭和の俳壇に独自の地歩を築いた俳人で、始めは新聞記者であったが、大正4年(1915)石楠を創刊し、昭和26年(1951)没するまで多くの門人を育てた。

諏訪神社 布引山観世音碑 小林勝五郎碑 道祖神
臼田亜浪生誕之地碑の直ぐ先で街道が右カーブするところに諏訪神社がある。この神社は古くは東山道にあったが、元文6年(1741)頃に此の地に遷座されたという。前に鎮座していた地名の青木から 「青木諏訪神社」 と呼ばれているようである。
境内の一角には、臼田亜浪の解説や亜浪、その門下の妙子、平城の句碑がある。
諏訪神社の先のY字路中央に明治14年(1881)の布引山観世音碑が建っている。
これを左に進むと行基創建という天台宗の名刹布引観音がある。断崖絶壁にかかる観音堂に安置されているのが、牛に化身して強欲な婆さまを善光寺に連れて行き改悛させたという布引観音である。
北国街道は観世音碑の右を進んで行く。
布引山観世音碑の右手の坂を上って行くと右手の土手に小林勝五郎碑が建っている。
竹の葉で隠れて碑文は確認できないが、南摩綱紀などの文字が刻まれている。
小林勝五郎碑の直ぐ先右手に道祖神がある。
この道祖神の奥の民家庭先に南無妙法蓮華経題目碑と宝暦14年(1764)の馬頭観音が建っている。

花川橋 街道沿いのお花 北国街道道標 青木一里塚跡
道祖神の先で変則6差路に出て二車線道路を進むと花川橋がある。
橋の欄干には、小室節小諸馬子唄の一節が描かれ、反対側に懐古園の小諸城三の門のレリーフがある。
花川橋を過ぎると街道左手に良く手入れされたお花畑の一角があり、心を和ませてくれている。 お花畑の先に北国街道道標があり、ここから右に旧道がある。 街道を進んで回り込んできた新道のガードをくぐると、その先左手に青木一里塚跡がある。
ここには青木一里塚跡の標柱があるが、これが無ければはっきり一里塚跡とは分からない。
ここは江戸日本橋から数えて42里目の一里塚である。

道祖神 西光寺 西原神社 六層屋根の建物
青木一里塚の先でしなの鉄道の踏切を渡り、続いて国道18号線を横切て進むと左手に道祖神が建っている。 道祖神の向かいの小諸市消防団第3分団西原部の建物の裏手に真言宗の西光寺がある。
西光寺には本堂はなく、聖観音像の安置された観音堂が有るだけである。
境内には馬頭観音、男女双体道祖神、南無阿弥陀仏碑などの石造物がある。
西光寺から裏手の道を上って行くと西原区の産土神社である西原神社がある。過去には鳴海神社と呼ばれていたという。
御祭神は健御名方命(たけみなかたのみこと)で、境内には天明8年(1788)の常夜燈、明治25年(1892)の常夜燈、石祠などがある。
街道を進んで国道18号線に合流すると右手に6層の屋根の建物がある。
入口には 「たかこの布あそび」 と書かれた看板があるが、何の店かは分からない。

北国街道道標 十王堂 旧家 多古神社
国道18号線に合流して間もなく左手に北国街道の道標の建つ旧道がある。
道標の直ぐ先左手には天保12年(1841)の石仏がある。
旧道に入って右手二本目の路地を入って行くと国道18号線の近くに十王堂がある。簡素な建物に地蔵菩薩と庚申供養塔が安置され、傍らに文久元年(1861)の六臂の如意輪観音、大日如来、道祖神などがが建っている。 十王堂の先の街道には重厚な造りの旧家が並んでいる。この土蔵の右手を入って行くと多古神社がある。 旧家の土蔵脇を進むと正面に多古神社の鳥居がある。鳥居を潜った先は国道18号線で分断され、拝殿へは左手の歩道橋で渡って行く。
この多古神社は、東山道の多古駅からその名が付いたというが定かではない。

石祠群 道祖神 道標 筆塚
多古神社から街道に戻って進むと間もなく左手の広場に石祠が4基置かれた一角がある。 石祠群の直ぐ先左手の電柱の脇に道祖神が建っている。 暫く街道を進んで行くと右手の民家の庭先に手作り道標がある。
道標には 「北国街道赤岩新田海野宿⇒」 と書かれている。道標の裏には 「おもちゃドクター」 と書かれた手作り看板が有るので壊れたおもちゃを修理してくれるのだろう。
火の見櫓を過ぎると変則十字路の右手に明治27年(1894)建立の田口傳吉翁の筆塚がある。
人物については良くわからない。

道祖神 街道脇の水路 八幡神社 牧家一里塚跡
せせらぎのような大石川を越えた右手に2基の道祖神と牛馬観音経一千巻と刻まれた石碑がある
ここには消えかけた文字で刀匠山浦真雄住宅跡と書かれた看板も建っている。
山浦真雄は、文化元年(1804)この地で生まれ嘉永6年(1853)松代藩主真田幸貫に招かれ藩工となり、長巻百振りの製作の命を受け、立派な作品を多く残している。
道祖神の先は街道右手に水路が流れている。水路の水は極めて清らかで、清流に繁殖するバイカモが生えている。 街道を進んで滋野コミュニティセンター前の十字路を右に進み国道18号線を越えた東御市滋野小学校の裏手に八幡神社がある。
参道脇には明治天皇行幸の際に献上され、「片羽御膳水」 と呼ばれる湧水がある。明治11年(1878)北陸巡幸で信濃入りした明治天皇一行に牧家(ほくや)の御小休所で、この水で茶をたてて献上した。
街道に戻ると長い直線の道となり、滋野郵便局の先左手に牧家一里塚跡がある。
かつて、ここには天下無双の雷電為右衛門の石碑があったが移設された。
ここは江戸日本橋から数えて43里目の一里塚である。

力士雷電之碑 櫻井神社 滋野駅
牧家一里塚跡を過ぎて牧家橋を渡った先の十字路に力士雷電之碑が建っている。
佐久間象山の撰文、揮毫により文久元年(1861)建立された手前の碑は、勝負事に利益があるとしてたびたび削り取られ、明治期には碑文はもう読めないほどになっていたため、勝海舟、山岡鉄舟らの発起で新碑が建立されている。
雷電之碑から街道を外れて左手の滋野駅の途中に櫻井神社がある。本殿には太田道灌の山吹の彫刻があるというが覆屋の中の本殿は見ることができない。
ここには大きく聳え立つ御神木のケヤキがあり、社殿周囲に多くの境内社がある。
櫻井神社から坂道を下ると滋野駅である。
今回はここで終了し、小諸に出て上京である。

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