八幡宮は、飛鳥時代、第40代天武天皇の白鳳年中(672-85)に大伴氏が勅命を奉じて、豊前国宇佐八幡宮より八幡神を勧請したのが始まりとされる。
 八幡宮の神事は、古来から射弓が重要な役割を持っており、この仕切りと伝統を守り射弓舎を管轄するために 「矢場元」 という制度があります。矢場元は、古来から当八幡宮の神主家により世襲されてきましたが、明治に神主の世襲が廃止された後は、その当地の門人から門人へと受け継がれております。
 現在の 「射弓舎」 は、天保5年(1834)に建替えられたもので、屋内には 「奉納的中額」 が多く掲げられており、約330年前の貞享2年(1685)の奉納的中額が残されております。
 奉納的中額に書かれる項目は、弓術流派・師範名・氏名・的中年月日・住所であり、射抜いた翌年に神社に奉納する。
 弓神事は、神社を中心とする村の五穀豊穣・村中安全・無病息災を祈願し、金的を射止めることでその厄難を取り除くことが目的とされる。そのため、金的は悪霊・災いを象徴しており、金的に矢が当たらないと厄が落ちないといった理由から 「神幸祭」 の御旅が出来ない。

磯良社 ・ 一品社 ・ 諏訪社 ・ 須佐之男社 ・ 鍬社 ・ 若宮社

外宮

内宮

国の重要文化財の八幡宮本殿

当宮は、第40代天武天皇の白鳳年中(7世紀後半)に勅命を奉じて、豊前国の宇佐神宮より一国一社の八幡宮として当地に八幡大神様の御神霊を御奉安申し上げたのが起源です。往古は、朝廷より神戸、神領を賜った大社でした。
 国司が国府に在庁の時代は、国府八幡宮とも称して崇められ、国司が祭祀を掌り、三河国内神名帳の筆頭に八幡三所大菩薩と揚げられております。 源頼朝は、先祖以来八幡神に崇敬の念篤く、当宮に建久4年(1193)社領一千町歩寄進し、以後武家代々この規範は継承されました。
 その後、駿河国の守護今川氏が東三河地を領した時代、当国内に八幡村を始め六ヶ村を社領と定めその武将牧野氏からも多くの寄進を受けました。 往時は、本宮を中心に境外四辺に摂社末社や神宮寺を配して祀り、現在の十倍以上とも云われる広大な社域を有し、社領も千五百石余を領しておりました。
 徳川家康は慶長7年(1602)八幡村内に社領百五十石の朱印状を下し、明治維新になるまで代々の将軍に継承されました。当宮の社格は、明治4年郷社、同13年に県社に列せられました。

拝殿内

拝殿に掛かる八幡宮の扁額

八幡宮由緒

三の鳥居

二の鳥居

参道右手の林にある沖社 (弁財天社)

三本の神橋

矢場 (射弓舎)

奉納的中額 (貞享2年の額もある)

八幡宮の奉納的中額説明

六所神社

稲荷社

天満天神 ・ 高良社

金刀比羅社 ・ 秋葉社 ・ 天王社 ・ 碓丸社 ・ 春日社 ・ 住吉三社

さざれ石

参道右手の東御門社

八幡宮拝殿

参道左手の西御門社

神門

手水舎