関所番士屋敷跡
栗橋関所址碑
栗橋関所跡 「房川渡中田・関所」 解説
江戸幕府は、交通統制と治安維持のために、主要な街道が国境の山地や大河川を越す要地に関所を設け、特に「入り鉄砲と出女」を取り締った。
栗橋関所は、日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで「房川渡中田・関所」と呼ばれた。東海道の箱根、中山道の碓氷と並んで重要な関所であったという。
関所の位置は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあり、寛永年中に関東代官頭の伊奈備前守が番士4人を置いた。以後、番士は明治2年関所廃止まで約250年間、代々世襲で勤めた。
関所跡の記念碑は、大正13年に旧番士三家・本陣・宿名主の発起で町内と近在の有志により、徳川家達の揮毫で、旧堤上に建碑され、数度の堤改修により、建設省利根川上流工事事務所の配慮で、今回ここに移設された。