江戸時代の初め、徳川幕府は全国の主要道路整備の一環として、水戸街道(水戸道中)をつくった。
水戸街道は五街道に次ぐ重要な道路である脇街道の一つで、千住から水戸まで約30里(約120㎞)の道のりであった。
街道筋には一里ごとに一里塚が築かれ、旅人の憩いの場ともなり、道のりを測る目安ともなっていた。この一里塚は、道の向側の「中根一里塚(牛久市)」とともに対になって残されており、貴重なものである。
市内には、そのほか北に向かい、原の前・大町・板谷にもあったが、現在は「板谷の一里塚」が市指定史跡として保存されている。荒川沖の一里塚は、平成10年(1998)、地主の本田春義氏より市に寄贈されたものである。
(土浦市教育委員会)
荒川沖の一里塚
荒川沖の一里塚解説
中根一里塚解説
徳川家康は、慶長9年(1604)頃に全国の主要街道を改修、改良を加えて一里塚を設け、この時期に開かれた「水戸道中」の起点江戸日本橋から17里目に
「中根一里塚」 が築かれた。
一里塚は旅人の標識と休息の施設として、一里(約4㎞)毎に街道の両側に約5間四方(約9m四方)、高さ一丈(約3m)程の塚を築いたものである。市内には、外に
「成井」 「田宮」 に一里塚があったが、現在は 「成井一里塚」 が残されている。
中根一里塚は、昭和61年、江沢大輔氏より市に寄贈されたものです。
(牛久市教育委員会)