ここ稲荷神社は、人格神で、二柱の神を祀ってあるのである。
   奥の院 父 小松原惣佐エ門
   前の院 子 小松原庄左エ門
 享保17年(1732)の大飢饉は、天明、天保の飢饉と共に近世の三大飢饉といわれる。 記述に依れば、その年の夏、イナゴの大群の襲来を受けて伊勢、近江以西の西日本を含めて、稲作の大減収により、全国的な大飢饉となった。 罹災者は約260万人、餓死者は1万2千人、牛馬の被害は1万5千頭と伝わっている。 当時の荒川沖の領民も日増しに飢餓線上にあったのである。 この時、牛久藩庁代官所の役人で荒川沖宿の担当であった小松原父子は、牛久藩主に藩の倉庫より救済米の放出と年貢2ヶ年の免租、そして助郷夫役2ヶ年間の軽減等、荒川沖の領民救済の為請願し奔放されたのであった。
 こうした小松原父子の必死の働きによって、荒川沖領民からは、一人の餓死者も出すことなく済んだということである。 その後、荒川沖の住民は、小松原父子に篤い恩義を感じて、それに報いるために、元文5年(1740)奥の院、前の院の2祠を建立以って神として祀り、以後子孫代々氏子が継承し、現在に至っているのである。

稲荷神社(奥の院)本殿

稲荷神社(奥の院)鳥居

石祠

稲荷神社(前の院)鳥居

稲荷神社由緒

稲荷神社(前の院)本殿