江戸時代から明治時代にかけて木下河岸は、利根川水運の要衝の地として栄えた。安政5年(1858)、赤松宗旦は、「利根川図志」のなかで 「木下といえば江戸にも隠なく・・・古この地僅に十軒ばかりなりしが、寛文のころ此処に旅客の行舟を設けたるに因りて、甚だ繁栄の地と為れり。そは鹿島香取息栖の三社に詣し、及び銚子浦に遊覧する人多かればなり」 と述べている。
 木下河岸は、竹袋村の小字名で、利根川の渡し場として成立したが、明暦の頃(1655-57)から河岸場として発展していく。直接手賀沼へ船が航行できた寛永年間(1624-42)には、木下に寄港する船も少なかったが、寛文の頃(1661-72)、のちに木下茶船の名で知られる乗合船が発着するようになり、利根川下流へ向かう旅客や銚子・九十九里方面からの鮮魚荷物などで賑わうようになった。最盛期には50軒余りの旅籠屋や飲食店が軒を連ねていた。
 文化・文政期(1804-29)に盛んとなってきた江戸近郊への寺社参詣を兼ねた遊山の旅の流行とともに、利根川を下って香取・鹿島・息栖の三社を参詣し、銚子の磯巡りを楽しむといった木下茶船の旅が江戸町民の人気を集めた。同船は貸切り遊覧船で、8人乗りの和船である。寛政初め(1789)頃には、年間4500艘前後の出船が見られ、17000人程度の乗客があった。
 木下河岸は、明治期に入っても蒸気船の発着場として地域経済の中心的な役割を担っていたが、明治34年(1901)の木下駅の開業に加え、大正初めの利根川堤防の改修工事により、河岸の家並みの多くが移転を余儀なくされ、次第に衰退していった。(印西市)

木下河岸三社詣出船之図

木曽路名所図会

木下河岸

木下河岸

木下河岸跡説明

木下河岸跡標識