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大山街道柏尾道   (不動坂~長後


令和5年10月16日(月)   ☀    不動坂入口~長後    9.1㎞
本日は、1年ぶりの街道歩きである。記録的な暑さの夏が終わり、歩くには丁度良い気候になってきた。朝は薄手の長袖だったが、日中は気温が上り半袖に着替えても背中は汗でびっしょりであった。柏尾道は、旧東海道の不動坂入口から伊勢原の下糟屋を経て、大山までの約39㎞の道であるが、下糟屋から先は矢倉沢往還の青山道に合流するため、今回は不動坂入口から下糟屋までの約24㎞を歩くこととした。

不動坂入口 県道401号高架 富士橋 横浜新道
JR戸塚駅から北東に1.8㎞ほどのところに、旧東海道から分岐する不動坂入口がある。入口から程なく右手に不動堂が建っており、堂内には正徳3年(1713)の大山道道標や不動明王像があるが、御堂の周囲には、大山道道標、一面六臂の青面金剛の庚申塔、為五處橋供養塔、雨降山常夜燈などの石造物がある。 不動坂を下った先で県道401号(瀬谷柏尾線)の高架をくぐり右折すると、その先で東海道本線が柏尾道を遮断している。右手の階段を上がると県道401号の高架(大山跨線橋)上に出るので東海道本線を渡っていく。 東海道本線(大山跨線橋)から300m程先で阿久和川に架かる富士橋がある。富士橋の袂には、旧富士橋の親柱があり、傍らに富士橋の説明碑が建っている。 富士橋の直ぐ先で横浜新道の上矢部インターチェンジの下を抜けていく。

丹後局供養塔 阿久和川沿いの旧道 道祖神 不動堂と富士塚
横浜新道の先を340m程進んだ左手の筋を90m程入ると、右手段上に丹後局供養塔が建っている。丹後局は、源頼朝の愛妾で北条政子の嫉妬に鎌倉を追われ、この地で産気づいて男子を主産したと言われている。 街道に戻ってかもめ橋交差点を右折して阿久和川に出ると、川沿いに旧街道の名残の遊歩道が続いている。阿久和川は、瀬戸区三ツ境付近を源流とし、瀬戸区、泉区、戸塚区に渡って柏尾川に合流するまでの5.4㎞の河川である。この旧道は途中県道401号に出る所もあるが、不動橋辺りまで続いている。 川沿いの道を進んで岡津小学校入口交差点で阿久和川を渡って、川の北側沿いの道を進むと、竹ノ鼻橋の北側筋に風化が進んだ男女双体道祖神が建っている。 直ぐ先の不動橋の右手筋を入っていくと、小山に登る石段が現れる。石段は竹林の中を通り、登り詰めたところに岡津不動堂があり、その裏手に富士塚がある。富士塚は一里塚のような形をしており、塚腹と塚上には食行身禄などの石塔が建っている。

向導寺 不動橋 永明寺別院 永明寺
岡津不動堂の東側に三方を山に囲まれた中に浄土宗の徹底山浄蓮院向導寺がある。向導寺は、用山上人が開山となり創建されたと言われている。明治22年(1889)に中川村が誕生したとき、役場の庁舎が作られるまで仮庁舎が置かれていた。岡津不動堂、金刀比羅宮、富士塚は向導寺の一部のようである。 街道に戻って阿久和川に架かる平成7年(1995)竣功の不動橋を渡っていく。 不動橋を渡ると右手に曹洞宗の岡津山永明寺別院がある。永明寺(ようめいじ)本寺は、この先の坂道を上った所にあるので、そちらでゆっくり拝観することとする。この別院の門前には、享保10年(1725)の庚申塔を兼ねた道標と文政13年(1830)の出羽三山碑が建っている。道標は不動明王像を載せ、正面に 「大山道」、右面に 「ほしのやみち」 と刻まれている。 永明寺別院から80m程先の左手筋を上っていくと曹洞宗の岡津山永明寺本寺がある。永明寺は、木造聖観音菩薩立像を奉安し、前太田左衛門大夫持資入道道灌(江戸城築城を開祖とする。境内に入ると仁王門、鐘楼があり、本堂は段上を上がった先にある。本堂周囲には十六羅漢像、大観世音菩薩像などの石像物がある。

忠魂碑 地神塔・道祖神 旧道消滅 中川地区センターの庚申塔
街道に戻って130m程坂道を進むと、左手の段上の奥に忠魂碑が建っている。忠魂碑の前に建つ標柱によると、旧中川地区出身の戦没者慰霊碑のようである。 忠魂碑から50~60m程先に進むと、左手に安政2年(1856)の地神塔と文化3年(1806)の男女双体道祖神が建っている。 地神塔から170m程先で石垣に突き当り、ここで旧道は消滅している。この先は右折して、中川地区センター前を通って迂回していく。 地神塔前の土手にあった庚申塔などが中川地区センターの駐車場前に集められている。

西が岡公園 急坂の旧道 宝篋印塔・馬頭観音 開けた旧道
中川地区センターを過ぎると西が岡公園の多目的広場が目の前に見える。ここから左折する道は坂道になり、桂坂交差点に出る。 桂坂交差点を右折し、突き当りを左折して右手の弥生台グラウンド前を通り、左折すると旧坂の旧道が目の前に見える。この急坂の左手は国際親善総合病院である。 急坂を上り詰めてT字路を左折し、更に直ぐ先のT字路を左折して進むと、右手に宝篋印塔と嘉永6年(1853)の馬頭観音が建っている。この付近は高台の頂上に当たり、眺望が良い。 街道に戻って350m程先に進むと、開けた道となり、左右に畑が現れ、前方に微かに大山が確認できる。

庚申塔 供養塔 供養塔前の分岐 分岐
農園などがある道を進んでいくと、和泉小学校入口交差点に出る。旧道を横切るバス道路は県道402号で、昔は八王子道と呼ばれ、鎌倉と八王子を結ぶ軍事用の道であった。この交差点の右角に文化6年(1809)の道標を兼ねた文字庚申塔が建っている。。 和泉小学校入口交差点を過ぎると、前方に微かに大山が確認できるようになり、交差点から500m程先の右手畑の前に供養塔が建っている。供養塔の右面が街道に面しており、正面は東方向(右側)になっている。この供養塔は、天保14年(1843)の出羽三山碑(月山・湯殿山・羽黒山大権現碑)である。 柏尾道は、供養塔の前の左筋を進んでいく。 供養塔前から左筋に入って50m程先でまた分岐があるが、ここは右に進んでいく。

庚申塔 蚕御霊神塔 神明社 和泉橋
分岐から300m程進むと、右手に青面金剛の庚申塔と思われる石造物が並んでいる。いずれも風化が激しく、年代等も確認はできない。 庚申塔から道なりに600m程進むと長後街道(県道22号)の泉区総合庁舎東側交差点に出る。交差点を渡ったところの塚上に神明社があるが、その斜面に明治11年(1878)の蚕御霊神塔が建っている。傍らに文化5年(1808)、万延元年(1860)の文字庚申塔が建っている。万延元年のものは道標を兼ねており、「右大山道 左藤沢道」 と刻まれている。 蚕御霊神塔の段上に神明社がある。ここには泉小次郎伝承地標柱が建っている。泉小次郎は、鎌倉時代、和泉郷を支配した泉小次郎親平であり、幕府の地頭であったと言われる。ここ神明社は、泉小次郎が城を築いた時の鬼門除けであったと言われている。 街道に戻って150m程進み、和泉川に架かる和泉橋を渡っていく。橋の手前右手は、横浜市泉区役所、泉公会堂などが建っている。和泉川は、旭区との境にある瀬谷市民の森付近を源流とし、瀬谷区・泉区を流れ、戸塚区で境川に合流している。

庚申塔 忠魂碑 旧道口 庚申塔
和泉橋を渡ると旧道は、直ぐ右手の筋を入って、相鉄いずみの線の高架下を抜けて、再び、県道22号に出る。県道に合流して直ぐ、右手の塀の中に庚申塔が2基並んでいる。右側は阿弥陀如来像が刻まれた延宝5年(1677)の庚申塔で、左側は文化6年(1809)の文字庚申塔である。 庚申塔から100m程先に進むと、左手に中和田公園があり、境内には西南の役から第二次世界大戦までの忠魂碑のほか、顕彰碑などが建っている。 中和田公園を出て和泉坂上交差点を渡ると、直ぐ左手に入る道があるが、これが柏尾道の旧道である。 旧道に入って250~60m程進むと、右手に延宝7年(1679)の仏像と三猿を刻んだ舟形庚申塔が建っている。

三柱神社 河岸段丘の下り坂 無量寺 旧道口
庚申塔の斜向かいの筋を200m程入ると左手に三柱神社がある。三柱神社は、この地域に古くから祀られていた山王社・稲荷社・天神社を大正元年(1912)に合祀したのが始まりという。境内には、明治29年(1896)の蚕霊神鎮座塔、一面六臂の青面金剛の庚申塔、文字庚申塔などの石造物がある。 街道に戻って境川に向かう河岸段丘の下り坂の先には大山が見えている。 坂を下って突き当った道が鎌倉街道上道であり、ここを右折して県道22号を渡ると、鎌倉街道上道から右に入る旧道の右手に浄土宗の帰命山長寿院無量寺がある。無量寺は、鎌倉安養院第19世深誉上人が文禄2年(1593)に創建したと伝えられている。境内には、六地蔵尊、地蔵菩薩立像、板碑などの石造物がある。 無量寺の前から旧道を進んで鎌倉街道に出ると、直ぐ左手に境川に向かう旧道がある。ファルテック先行開発センター脇を通り140m程進むと、境川に突き当たる。かつては対岸に橋が架けられていたが、今は下流の県道22号が通る高鎌橋で迂回していく。境川は、東京都および神奈川県を流れ相模湾に注いでおり、川の名前はかつて武蔵国と相模国の境とされたことに由来している。

旧道復帰 旧道 庚申塔 旧道口
高鎌橋で迂回して無量寺の前から延びる旧道に復帰する。この先は突き当りを左折して、更に左折すると県道22号から分岐する旧長後街道に出る。 旧長後街道を横断して路地をV字に回り込んで、再び、旧長後街道を横断すると住宅地を抜ける旧道が続いている。 住宅地の間の曲りくねった旧道を300m程進むと、右手に宝暦4年(1754)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。 庚申塔の前から旧長後街道に出て230m程先で変則四差路に出る。この四差路の左手の細い道が旧道である。

庚申堂 仙元塚 長後駅
旧道に入り170m程先で国道467号(藤沢町田線)を渡り、マックスポーツクラブの脇を抜けると、左手に交通安全の扁額が掛かる庚申堂があり、一面六臂の青面金剛の庚申塔が2基祀られている。 庚申堂を過ぎて長後街道を横断し、突き当りを左折して、再び、長後街道に出て小田急江ノ島線を渡り、その先で長後駅入口交差点に出る。この交差点の右角に仙元塚がある。この塚は江戸時代中期の宝永4年(1707)に起きた富士山の噴火時に降り注いだ火山灰を村の各所から寄せ集めて築造したという。ここには仙元塚大権現碑、50年・100年の仙元塚記念碑が建てられている。 今回は仙元塚前で終了し、最寄りの長後駅から帰宅の途に就いた。長後は藤沢市の案内によると、大山街道(旧横浜伊勢原線)と滝山街道(旧藤沢町田線)が交わる交通の要衝・宿場として江戸時代から店や宿が立ち並び、周辺の農村の中心地として栄えたという。

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