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甲州街道    (高尾~鳥沢)

高尾(駅)から鳥沢までは、駒木野宿、小原宿、与瀬宿、吉野宿、関野宿、上野原宿、鶴川宿、野田尻宿、犬目宿、下鳥沢宿、上鳥沢宿とあり、約36kmの道程である。

平成25年4月14日(日)☀   高尾~藤野  17.1㎞
本日は、久し振りの登山となるので気合いを入れて家を出た。8時30分、高尾駅を出発してまもなく、西浅川から旧道に入ると、この道にも旧跡が残っている。

高尾駅近辺 浅川 地蔵尊 小仏関跡
日本橋から51キロの標識が立ち、道路のかなたに高尾の山並みが見える。 JR中央線のガードを潜ると清流の浅川が出迎えてくれる。
旧街道の脇を流れるのは、西浅川である。
小仏関までの途中に新しい地蔵尊と4体の古めかしい石像が安置されている。 江戸時代、甲州道中でもっとも堅固と言われた関所である。
江戸時代の絵図によると、関所には東西に門が設けられ、敷地の北側に番所が設けられていた。東門の外には川が流れ、駒木野橋が架けられていた。
関所跡は昭和3年に国の史跡に指定されている。

手付石と手形石 駒木野宿の碑 念珠坂 石碑
番所の前には上面が平たくなった石が2つ置かれている。
番所側の石は 「手形石」 と呼ばれ、通行人がこの石の上に道中手形を置いたという。
もうひとつの石は 「手付石」 で、手形の吟味中にこの石に手をついて待ったと言われている。現在でも2つの石は残っており、「史跡小佛關址」 と刻まれた石碑の前に並んでいる。
小仏地域には東(小仏川下流沿い)に駒木野宿、西(同上流沿い)に小仏宿という2つの宿場町ができた。
駒木野宿には旅籠が12軒、本陣、脇本陣がそれぞれ1軒ずつ、小仏宿には旅籠11軒、本陣、脇本陣はなかった。
規模としてはそれほど大きくはない。。
旧街道を跨ぐように高速道路が横切っている。 緩やかな念珠坂の途中に地蔵尊をはじめとした石碑が安置されている。

上行講の碑 蛇瀧水行講道場 常林寺 赤レンガガード
道の左側に無人の古い家屋があり、家の脇にはパイプで引かれた湧き水が流れている
橋の手前には、蛇滝で水行を行う人達が講を組んでやってきたことを示す 「上行講」 の碑があり、「上行講 是より蛇滝まで八丁」 と彫られている。
やがて道は三叉路にぶつかり、角地に 「蛇滝水行道場入口」 の案内がある。
左折すると老人ホームがあり、 その先の高いところに千代田稲荷神社がある。 
道の山手に曹洞宗常林寺が建っており、その奥には中央高速道路が見える。
境内には、比較的新しい六地蔵が並んでいる。
JR中央線に架かる赤レンガガードをバスが通過する。
完全に通過して若干広くなる場所に来るまで待たねばならない。

小さな美術館 浅川神社 宝珠寺 水場
赤レンガガードを越えると右手に 「小さな美術館の家」 と看板を掲げている民家がある。
店主に話を聞いてみると、定年退職してから始めたということで、縁側には 「手のひら仏像作家」 と書かれた名刺があり、小さな仏像や猫などの作品がたくさん展示されていた。
宝珠寺のすぐ下に鎮座している。 寶珠寺は、臨済宗南禅寺派の寺で、断食道場として知られている。
本堂へ登る石段の左手の斜面には、都天然記念物のカゴノキの木があり、その下には沢山の石仏が安置されている。
境内の不動堂の隣の小さな山王社の前に、「甲府三度飛脚中」 と刻んだ常夜燈がある。
三度飛脚とは、月に三度甲府と江戸の間を往来した飛脚のことで、三度笠は三度飛脚が被ったつばの深い菅笠をいうが、 この常夜燈は小仏宿を定宿としていた飛脚たちが奉納したものである。
最終駐車場から暫く進むと右手に 「水場」 がある。
汗をかいた顔を洗うと、冷たくてとても気持ちが良かった。

小仏峠 林の中の旧道 中央高速 甲州古道底沢の道標
小仏峠は広くなっており、広場の中央にはたぬきの置物があり、小仏峠頂上 海抜560mと書かれた道標がある。
また茶屋跡の脇には、明治天皇御小休所址の碑と三条実美が高尾山薬王院を訪れた時に詠んだ歌碑あり、「来てみれば こかひはた織 いとまなし 甲斐のたび路の 野のべやまのべ」 と彫られている。
古仏峠から下ると写真のような林道が続き、途中すれ違う人もなく、何となく寂しい景色が続く。
やがて木々の間から中央高速道路が見えてきて、車の通る音が聞こえる。 林道から車道に出るところに案内板と底沢の道標があり、また 「甲州道中の迂回路は右折」 と書かれた木柱が立っているので、そのまま車道を進まずUターンするように進んでいく。

美女谷温泉 馬頭観音 小原一里塚下 小原の郷
美女とは、浄瑠璃伝説に登場する照手姫のことである。
ここには照手姫が鏡の代わりに利用したという照手姫水鏡七ッ淵がある。
今でも水量は少ないが流れは有り、いくつかの淵が残っている。

この照手姫は、中山道では岐阜県の青墓で小栗判官の恋人として登場する。
美女谷温泉から中央自動車道の高架を見ながら降りてきて、 高架下をくぐるったところに道の右側の石の上に馬頭観音碑がある。

中央本線の高架手前の電柱の横に今にも倒れそうな木柱が立っており、「小原宿一里塚下」 と書かれている。 小原地域の優れた自然環境及び小原本陣に保管されていた古文書や文化財を活かした観光拠点として建てられた施設がある。

小原本陣跡 ひら乃の分岐 えんどう坂 与瀬の分岐
小原宿本陣は、江戸時代に信州の高島、高遠、飯田三藩の大名及び甲府勤番の役人が、江戸との往復の時、宿泊するために利用した建物である。
屋敷門の前には 「甲州街道 小原宿 本陣」 の石碑がある。
養蚕に使われていたという二階には、昔の道具 (石臼、千歯、大八車等) が展示されている。
分岐には、旅館ひらのがあり、旧道は右側を登っていく。 ひら乃の分岐から中央高速道路に近づくように登って、やがて下りになるが、右側に階段があり 「甲州道中はこの階段を降り、えんどう坂を下り、桂北小学校前に出る 」 と書かれた木標がある。
階段を降りると坂道が続いており、正面に中央本線の線路が見えて来る。
市立桂北小学校前に 「甲州道中与瀬宿」 と書かれた木柱があり、ここを右折して行く。

与瀬本陣跡 慈眼寺 与瀬神社 甲州道中横道
与瀬宿本陣は代々清水家が務めていて、建物の建坪は百十一坪で、門構え、玄関のある建物だったが、当時の建物はない。
明治天皇与瀬御小休所址の碑と消えかけた文字の木柱だけが立っている。
慈眼寺は、高野山真言宗に属し、天正年間に、頼源阿闍梨により開創されたと伝えられる寺である。
寺の下には中央高速道路があり、寺へ行くには高速道路を跨ぐ陸橋を渡ることになる。(茶色の部分の下が高速道路)
神社のしおりでは、与瀬神社は、大和吉野山の蔵王権現を祀ることから、権現様と親しまれている神社であり、古い昔より、よせのごんげんさまとよばれていたそうである。
この神社は、 新編相模国風土記等によると、古より相模川の北岸に在ったお社を現在の所にお祀りしたそうである。
神社からは、相模湖を望むことができる。
与瀬上宿の分岐で中央高速道路の下を抜けてラーメン店の脇を通っていた旧道を捜したが見つからず、再び高速道の下を潜って坂を登って行くと旧道らしき道と合流する。
合流してすぐ右側の駐車場の一角に、 「甲州道中横道」 の道標が建っていた。
ここから高速道路方向をを見下ろすと相模湖が一望できる。 .

秋葉神社 馬頭観音 観福寺 秋葉神社
甲州道中横道をさらに行くと右手の畑の上に秋葉神社がある。
道路わきには、地蔵尊、庚申塔、二十三夜塔などが並んでいる。
秋葉神社から丸一産業㈱を過ぎた次の集落の手前に二十三夜塔など石碑があり、さらに登ったやました生花店の先の民家の脇に馬頭観音が安置されている。
馬頭観音を過ぎて更に登ると、左側の民家の前に 「甲州古道 子の入」 の道標が立つ四叉路に出る。
古道は左折して中央高速道路に向かって下っていく。
中央高速道路を越えて 「甲府古道 赤坂」 の道標のあるところで農道のような道になり、「甲府古道 椚手」 の道標を右に行くと真言宗観福寺に出る。
観福寺を過ぎてからもいくつかの道標があり、道標の上部に歩く方向が書いてある。
道路右側の斜面に石碑があり、二十三夜塔、蚕影山(こかげやま)と書かれた石碑があった。
蚕影山は養蚕の神とのこと。

吉野宿の高札場 吉野本陣の碑 郷土資料館 吉野橋
甲州古道は、国道20号線に合流するが、そのちょっと手前に高札場の木柱が立っている。
木柱の左側には、首から上が後から作成されたとみられる六地蔵尊が安置されている。
本陣の建物は、江戸末期に計画され、明治9年に完成した五層楼を含む壮大なものだったが、 明治29年の吉野大火で焼失し、唯一土蔵だけが残ったという。 この建物は、かつての旅籠 「ふじや」 で吉野大火の後、明治30年に建てた木造二階建ての建物である。
現在は、郷土資料館ふじやとして公開されている。
屋根裏を含めた3階の展示場に 当時の様子を示した模型などの展示の他、藤野町の民具や養蚕などの用具が資料として展示されている。
相模湖に架かる橋の一つで、橋を越えると藤野駅に出る。
本日はここで終了し、駅前で一息ついてから帰途についた。

  平成25年5月3日(金)☀   藤野~鳥沢   19.3㎞

  4連休の初日で、朝から絶好の日和である。前回の続きで、本日も長丁場になりそうなので、8時ちょうどに藤野駅を出発する。


甲州古道 中央本線跨橋 関野本陣跡 増珠寺
藤野駅を出て、国道20号線を渡って相模湖方向に降りていくと急な下り坂である。
坂は長くはなく、やがて中央本線を横切ることになる。
藤野というだけにいたるところに藤の花が咲いている。
藤野駅から来た古道はここで中央本線を越えることになるが、跨橋の手前に 「甲州道中 関野」 と書かれた木柱が立っている。 関野本陣は、延宝2年(1674)に設定され、江戸から18里の位置にあり、隣の吉野宿へは26町(2.8㎞)、甲斐の国上野原宿へは24町(2.6㎞)のところにあった。
道幅は2間(3.6m)あまり、民家が相対して軒を並べ、本陣・脇本陣を備えた宿場であったが、明治2年の大火とその後の2度の大火で建物は消失してしまった。
増珠寺は、曹洞宗の津久井功雲寺の末寺で、功雲寺七世、潮翁能音大和尚が永世年間(1504~1521)に沢井の古寺に開山したのが始まりといわれる。
御本尊延命地蔵菩薩に因んで境内及び寺山に百八番の石地蔵巡拝道を設け、毎月18日は観音参り24日は無縁供養をしている。

坂の上の道標 御留坂の道標 下小淵下の道標 境沢橋
増珠寺を過ぎ、関野町小渕の横断歩道橋を過ぎたところで、右へ入る坂道があり、角地に 「甲州古道 坂の上」 の木柱が立っている。 坂の上の道標から坂を登って、間もなく 「御留坂」 の木柱があるので、ここを左に下って再び国道20号線に合流する。 国道20号線沿いの学校法人明泉学園相模湖セミナーハウスを過ぎたところに 「下小淵下」 と書かれた道標が立っているので、ここで国道20号線をそれて左の坂を下って古道に入る。 境川に架かる橋で、相模国(神奈川県)と甲斐国(山梨県)の国境だった。

相模湖 諏訪関所跡 諏訪神社 諏訪橋
境沢橋からつづら折りの山道を登っていくと眼下に相模湖が見える。 坂道を登りきる手前の右側の石垣の上に 「上野原市史蹟 諏訪番所跡」 の木柱と 案内板、その先に 「諏訪関跡」 の石碑と 「鎮魂碑」 が建っている。
諏訪番所は、甲斐二十四関の一つで、境川番所とか境川口留番所とも呼ばれた。 当初は諏訪神社東にあったが、宝永4年(1707)に境川と相模川の合流点の展望のきくこの地 (上野原諏訪木) に移された。
諏訪関所跡を過ぎると平坦な道となり、道を横切って流れる用水には満々と水が流れている。
西野化成㈱の前に諏訪神社が鎮座している。境内には大きな杉が5本並んでいる。
中央自動車道に架かる諏訪橋から高速道路を望む。

疱瘡神社 福泉寺 諏訪神社 石碑
疱瘡神社は、江戸時代から明治にかけて流行した疱瘡(水疱瘡から天然痘)からの守護を祈った神社であるが、 一里塚の跡地に移転して祀られたという。
この神社の裏に 「塚場一里塚跡」 がある。
日本橋より17番目の一里塚で塚木はカヤであった。
新町交叉点の右に入った細い道の先の高台には曹洞宗の寺の福泉寺がある。
高台にあるため町内を一望できる。
上野原名物の酒まんじゅうという大きな看板があったので、つい入って2個食べてみたが大変おいしかった。 山梨中央銀行がある三叉路を左に入って少し行った民家の庭先に文政10年(1827)と彫られた石碑が建っていた。

鶴川歩道橋 鶴川 鶴川宿の碑 藤の花
歩道橋を渡って左に降りていくのが甲州街道である。
右に行くと上野市役所の方に出てしまう。
鶴川橋から鶴川を望む。
非常に透き通った流れを見ることができる。橋を渡ると上野原宿から鶴川宿に入る。
鶴川橋を渡ると坂の上り口に旧甲州街道鶴川宿と書かれた石碑がある。
これより鶴川宿である。
鶴川宿に入ってマンション明鶴の前の分岐を左に入って行く。
だらだらと長い上りの道が続き、あちらこちらに藤の花が咲いている。
なんとも気持ちの良い甲州古道である。

切通し 大椚一里塚碑川 大椚道標 吾妻神社
野田尻の分岐から暫く登り続けて行くと中央高速道路にぶつかる手前で切通しを通る。 大椚の一里塚は江戸から19番目の一里塚である。
現在は、その跡は残されていないが、鶴川宿から大椚集落に入る手前の道の両側にあったことが江戸時代の絵図などからわかる。
この近くの民家の前には、大きな二十三夜塔が建っている。
吾妻神社の少し手前に小さな祠と石塔があり、その前に木の道標がある。
支柱には 「大椚宿発祥の地」 と書かれ、方向を示す上部には、左に 「上野山鶴川宿」、左に 「野田尻宿・犬目宿」 と書かれている。
境内に大きな椚(くぬぎ)があったことから大椚宿となったようである。
階段を上ると観音堂があり、二体の仏像が安置されている。
上野原町の説明では 「百姓持ち本尊二体・大日如来・千手観音・左右に百番観音」 と甲斐国誌に記す。御詠歌は 「いづるより、いるそとなきや長峰の、しょうじせうやの大くのぎ堂」 とあり、慎み深い村人と旅人の思いを大樹と共に今に伝える。

長峰砦跡 野田尻宿道標 切通し 野田尻宿
甲斐の国の東口を北条の侵略から防衛するために築かれた砦があった。
現在は、石垣がわずかに残るのみである。
この場所の前には中央高速道路が走り、行きかう車を見ることができる。
また、山並みが迫り、いたるところに藤の花が咲き乱れている。

長峰砦跡を過ぎて中央高速道路を渡る手前に 「これより甲州街道野田尻宿」 と書かれた木の立札がある。
中央高速道路を渡って野田尻宿に入るところに切通しがあり、遠くに見えているのが野田尻宿である。 野田尻宿の集落の手前はのどかな田舎の風景が広がっている。
集落は比較的小さいが、昔の面影を残しており、ほっとする気持ちになる。
簡易郵便局の近くの本陣跡と思われるところに明治天皇御小休所跡碑が建っている。また、旅人のためのトイレもある。

犬嶋神社 西光寺 荻野一里塚跡 荻野~矢立坂分岐
金属製の赤い鳥居があり、境内手前に2基の灯篭が建っており、境内左には舞台のような造りの建物がある。 臨済宗建長寺派の寺院で甲州道中・野田尻宿の高台から地域を見守る環境にある。
寺の入口には、「甲州道中遍路みち」 と書かれた板が立てかけられ、石段の上にはたくさんの地蔵が並んでいる。
寺の裏は甲州古道が通っている。

西光寺から暫く進むと、道路右側の石垣の上に看板が立てられている。
説明書きには、「日本橋から20番20里で、甲斐国に入って3番目の一里塚である。」 書かれている。
旧甲州街道は、右の細い道を登って行く。登り口には案内板が建っている。
矢坪坂の古戦場跡とあり、「長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。享禄3年(1530)4月23日相模国の北条氏縄の軍勢が甲斐に攻めこみ矢坪坂に進んだ。一方、小山田越中守の手勢が坂の上で待ちかまえ、両者は坂をはさんで対峙し、やがて激戦が展開された云々」 とある。。

武甕槌神社 座頭転がし 尾張の殿様定宿家 犬目の兵助の墓
武甕槌(たけみかづち)神社と読むそうである。鳥居から社までは相当登るようなので、寄らずにこのまま古道を進むことにした。
神社の向かいは、のどかな山村の風景が広がっている。
最後の民家の庭先から一人歩くのやっとの小道に入って行く。
最初に 「矢坪坂の古戦場跡」 の案内板書かれていた 「宝筐印塔」 が現れ、続いて 「矢坪金毘羅神社参道」 の石柱があり、さらに進むと 「座頭ころがし」 に出る。
ここは昔、先行していた者の声を頼りに歩いていた盲人が谷底に転落してしまったという場所である。
古道を抜けて集落に出ると立派な門の民家が右側に建っている。
門の脇には、「旧甲州街道新田宿 尾張の殿様定宿家」 と看板が貼られている。
この近くの民家の庭先には、庚申塔と念仏石経塔が建っている。

犬目宿は、天保4年(1833)以来凶作が続き、同7年犬目の兵助と下和田の武七が指導し一揆を起こした。世に言う甲州一揆である。
この騒動は国中に広がり、鎮圧後、武七は捕えられて牢死したが、兵助は逃げ切り、年老いて犬目に帰って来た。

犬目の兵助の実家 寶勝寺 白馬不動尊 恋塚一里塚
兵助は、妻の 「理ん」 に罪が及ぶのを防ぐために離縁状を出し、長い間逃亡生活を続け、その間の日記を残しているが、その日記がこの実家(水田家)に保存されている。 犬目宿の外れは枡形道路になっていて、右に直角に曲がっている。
その角に龍澤山寶勝寺が建っている。
寶勝寺を過ぎて左に大きくカーブするあたりに赤い鳥居がある。
社は山の上のようなので行かずにこのまま進みました。
奥に見える萱ぶきの民家は、「瀧松苑」 という蕎麦屋である。
日本橋から21番目21里にあたる。
ほぼ完全な形で残っている。

山住神社 石畳 国道出口 鳥沢駅
恋塚一里塚を過ぎると途中 「君恋温泉」 の看板があり、近くには小さな温泉宿が一軒ある。
その先、カーブを2つ曲がると赤い鳥居の山住神社が現れる。
山住神社の前を右に行って、集落が終わるところに石畳が残っている。
石畳を抜けると再び舗装道路に出る。
石畳からひたすら3㎞ほど坂道を下る。
中央高速道路の下を抜けると国道20号線にぶつかる。ここが下鳥沢宿である。
近くの食堂浜田屋で少し休憩をして帰りの電車に乗り込んだ。

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