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北国西脇往還  (松本~会田宿)


平成27年9月21日(月)  ☀   松本 ~ 会田宿   <歩き17.0㎞>
今回はシルバーウィークの4日間は久し振りの晴天に恵まれるということから観光客が多く、松本での宿泊は街道からやや離れたホテルとなってしまった。
今朝は午前7時前にホテルを出て昨日の続きからスタートすることになったが、途中の松本市民芸術館脇を抜けて行くことにした。空はやや曇が多いが、今後晴れることを祈って出発した。

スマイルホテル松本 堅石由十君之碑 緑橋 松本郵便局発祥の地
街道からやや離れているが、真っ直ぐ深志二丁目交差点までなら約10分程であろう。
ホテルの駐車場は満車で秋の行楽シーズン到来といったところである。
深志神社の東にある松本市民芸術館の裏手に秋山白巖(通称隆道・白巖は号)揮毫の堅石由十君之碑がある。
堅石由十(かたいしよしじゅう)は、明治時代、県議会議員や市会議員を務めており、堅石由十の徳を讃えて大正7年(1918)に建立された碑である。近くには三部山碑、深志公園碑などがある。
昨日通った緑橋のもう片方の石の欄干である。小川はこの橋から暗渠となって流れている。 街道左手の松本信用金庫の角に松本郵便局発祥の地のモニュメントがある。
ここには、かつて本町問屋倉科家があり、歴代の松本藩主より陣屋、問屋を任され、公用荷物の輸送を取り仕切っていたという。一角には飛脚の像、書状集箱、松本郵便局発祥の地碑がある。

えびす神 本町標柱 道標 牛つなぎ石
深志二丁目交差点の左角にえびす神が祀られている。
このえびす神は道標を兼ねており、「右松本城 左松本駅」 と刻まれている。
街道の両端に色々石柱や石碑などがあり、この本町は江戸時代末の旧町名である。 中央二丁目交差点の左角に黒い道標が建っている。
道標には 「左野麦街道 右せん光寺道」 と刻まれている。
道標を渡った角地の牛つなぎ石がある。
戦国時代、武田信玄の軍が塩不足に陥り、敵方の上杉軍が塩を送ってきたときに、塩を運んできた牛をつないだと言われる伝説の石である。
この先の街道脇にも句碑が建っているが文字が消えて読めないものもある。

道標 四柱神社 女鳥羽川 鎮神社
牛つなぎ石の先右手に道標があり、右手矢印でせん光寺道と刻まれている。左側面には大町街道と刻まれている。
ここを右に入って行くと海鼠壁の建物などで整備された旧街道の風情が漂う道となる。
道標を真っ直ぐ進むと女鳥羽川に架かる千歳橋(せんさいはし)の右手に四柱神社がある。四柱神社は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、天照大神(あまてらすおおかみ)の四つの神を祭神としていることから、その名がついた。全ての願いがかなう 「願いごとむすびの神」 として知られている。
女鳥羽川は、ふるさとの川整備事業で川底を掘り下げて整備され、一帯は松本市民の憩いの場となっている。
江戸時代初期は、女堂田川と呼ばれており、この辺りを裏小路と呼び、川向こうの四柱神社辺りを縄手と呼んでいたという。
女鳥羽川に架かる大橋を渡ると左手に川に面して見えるのが鎮神社である。
鎮神社は寛政6年(1794)に造営されたもので、御祭神は氾濫を防ぐ守護神の「罔象能賣命(うすはのめのみこと)が祀られている。

旧光屋 道標 正行寺 松本城
大橋の直ぐ先に国登録有形文化財の旧光屋がある。
建物は明治20年(1887)に建てられたもので、現在は東に位置する母屋を日本料理店(ヒカリヤヒガシ)として、西に位置する蔵は地元食材を利用したフレンチ店(ヒカリヤニシ)として利用している
街道を進むと右手の正行寺へ入る道の角に道標が建っている。
道標には 「旧宿場町旅籠屋東町三丁目 右善光寺街道 左正行寺小路」 と刻まれている。この道を入って行くと旧町名標柱などが建っている。
街道から道標を右に曲がった突当りに真宗大谷派の正行寺がある。
正行寺は、かつて松本市島立の栗林にあったが、松本城の天守を築いた石川数正が、自分の菩提寺とするために移したものである。その後、数次の火災に逢い全焼、
現在の建物は明治20年(1887)再建の庫裡と、昭和50年(1975)再建の本堂のみとなっている。
街道に戻って左手の路地を進んで行くと文禄(1593~1594)年間に建てられた五重六階の天守として日本最古の国宝松本城がある。
この日は観光客で賑わっており、天守へ入るための行列が出来ていた。

地蔵清水 萬年屋 稲荷神社 林昌寺
松本城の北側の市役所北交差点の手前に地蔵清水がある。
松本城主・小笠原貞慶が城下町整備の際に井戸を掘らせたところ、地下の清水とともに地蔵尊が出てきたといわれている。
ここには地蔵尊出現碑と由来碑が建っている
街道に戻ると城東二丁目交差点角に旧地名標柱があり、交差点の先左手に漬物の萬年屋がある。
この萬年屋には、捨堀の土塁が保存されている。解説によると松本城の防護強化のために惣堀の東側に堀をめぐらす工事を起したが、徳川幕府の知るところとなり、未完成のまま打ち捨てられたことから捨堀と呼ばれたものという。
萬年屋の先左手の小さな公園の奥に稲荷神社がある。
小さな社殿で地域のお稲荷さんといった感じの神社である。
稲荷神社から街道に出て右手の路地を入って行くと突当りに浄土宗の林昌寺がある。
境内にはかわいい顔をした馬頭観音などあり、境内隣の林昌稲荷神社には大日如来、阿弥陀如来などの石像が並んでいる。

庶民の井戸 長称寺 紙すき川 大安楽寺
林昌寺の参道を出て右に進むと民家の前に 「庶民の井戸」 と解説付きの井戸がある。
解説によると横田町にもこの庶民の井戸がここより先に幾つもあったが、上下水道が完備し、往来の通行の邪魔になるとして取り除かれ、今では貴重な井戸として残っており、誰が何時作ったかは分からないが、今でも近くの人々の憩いの場になっているという。
庶民の井戸の直ぐ先右手に浄土真宗本願寺派の木曽山義仲院(ぎちゅういん)長称寺がある。境内には国重要美術品の銅鐘がある。
この銅鐘は、元禄12年(1699)鋳造、宝暦3年(1753)の改鋳で、信濃国左方惣官鋳物師・田中伝衛門吉隆の作といわれる。
長称寺を出てそのまま右手に進んでいくと突当りに紙すき川が流れている。
この川は花見池の湧水で南に流れて女鳥羽川に合流する生活用水路であった。紙漉きは町に住人が増えたので湧水の多い清水の地に移ったとのことである。
紙すき川で突き当たった道の右手奥に大安楽寺が見えている。
大安楽寺は延長2年(924)一条修理太夫が大護摩祈願したのが始めで、行基が開山したと伝えられている。松本城の鬼門(北東)方向にあるため、城の鬼門を鎮めるための寺だった。
本尊は大日如来で松本市重要文化財に指定されており、境内には多くの石造物がある

岡宮神社 寶栄寺 子育地蔵尊 安原町標柱
大安楽寺の北側に岡宮神社の鳥居が見えている。大安楽寺と同様に松本城の鬼門の方向を守っているといわれる。
祭神は諏訪神社(健御名方命 たてみなかたのみこと)を主神とし、左右に熊野神社(伊邪那美尊 いざなみのみこと)と正八幡宮(誉田別尊 ほむたわけのみこと=応神天皇)を配祀している。境内には境内社社殿が3つあり多くの神社が祀られている。
岡宮神社から街道に戻って直ぐ右手に真宗大谷派の寶栄寺がある。
寶栄寺は寛永19年(1642)水野氏に従って、三河国吉田より松本に入り、次の城主戸田氏は寶栄寺に書院畑八反五畝を寄進したので、そこに移転し城の鬼門を鎮護してきた。
善光寺道は、この寶栄寺の前を左折して行く。
寶栄寺の前を左折して直ぐ右手奥に子育地蔵尊と世育稲荷社がある。ここにはかつて摂取院
という浄土宗の寺があったが、明治の廃仏棄釈により取り壊された。
子育地蔵尊は、江戸時代中頃、信濃の良寛さんと慕われた摂取院の和尚さんを偲んで建てられもので、世育稲荷社は米田家の屋敷神として祀ってあったお稲荷さんを社殿を建てて祀ったものである。
街道に戻って進むんだ最初の十字路右角に安原町の標柱が建っている。
この辺りは古くは安左端野原と呼ばれていたが、天正10年(1852)に深志の地を松本と改めた後、同13年(1855)に城下町の町割りを行った際に安端野原の前後二字を取って安原となった。
この角を右に曲がって行くのが善光寺街道である。

十王堂跡 天白神社 一里塚跡 元原町標柱
街道を進むと右手に消えかけた文字で十王堂跡と書かれた標柱が建っている。
見回しても何も無いが、この先の十字路を右に曲がると十王堂跡地に倒れた南無阿弥陀仏碑や墓石が建っている。
この標柱が建っている辺りが十王堂への入り口だったようである。
十王堂跡の向かいに天白神社がある。
天白神社は、天正元年(1573)に松本城に入った石川数正が城の鬼門鎮護のため、出身地・岡崎より勧請したといわれている。
水野氏の時代になって、ここに城外侍屋敷が造られると、この天白神社にちなんで町名が天白町になったという。
境内には鳥居から拝殿までに三対の常夜燈が建っている。
萩町交差点の手前に一里塚跡・木戸跡・番所跡がある。
解説が建っているのみであるが、解説には 「ここ萩町は城下町の入口で、城下に出入りする旅人や物資を番所役人が改めていた。一里塚は木戸の左右両側にあり、盛土の上に松が植えられていた。」 とある。
萩町交叉点を越えた信州大学付属松本中学校の向かい側に元原町標柱が建っている。
元原町は昭和初年の町名である。

分岐 男女双体道祖神 なまこ壁の長屋門 筆塚
信州大学付属幼稚園のところでY字路となり、善光寺街道は左手の道を進んで行く。
進んで行くと途中に赤い鳥居の弁財天社があり、その先で国道143号線を横断して行く。
街道を進むと田近石材店の前に男女双体道祖神と掘りかけのような石柱が建っている。
これは田近石材店が建てたもののようである。
緩やかに上って行く街道脇になまこ壁の長屋門の家がある。新しい造りのようであるが、立派な家である。 岡田小学校の向かい側に筆の形をした筆塚がある。
松本藩の士族大澤政一氏の長男政恒氏の頌徳碑である。明治22年(1889)に岡田学校に任命され、後に校長を務めて大正5年(1916)に辞めているが、子弟・父母・老人がその功績を讃えて建立したものである。

旧参道のケヤキ 岡田村役場跡 稲荷社・白山社 地蔵堂
筆塚の先で県道284号線に突き当たるが、その左手分離帯に大きなケヤキが二本立っている。
ここは岡田神社の旧参道で昭和60年(1985)の県道拡幅整備工事で特に残されたものであり、奥に鳥居も残されている。
岡田神社はここから奥まったところにあるため寄らずに先へ進んだ。
県道284号線を越えた左手の松本市岡田体育館前に岡田村役場跡の標柱が建ってる。
岡田村は昭和29年(1954)昭和の大合併で松本市に編入された。
岡田村役場跡碑は合併30周年記念で建てられたものである。
コスモスの咲く街道を進むと右手の岡田希望の家に行く路地の左手に赤い鳥居の白山大権現・稲荷大明神を合祀した神社がある。 街道を進むと程なく左手に地蔵堂がある。
善光寺参りや旅人の安全を祈願して享保6年(1721)に安置されたものである。
御堂の中には、地蔵尊のほか天保15年(1844)の大日如来、如意輪観音、文政2年(1819)・嘉永3年(1850)の馬頭観音がある。

道祖神・本陣跡 岡田宿跡 道標 蓮台場
地蔵堂の先の右手の大きな家の隣の家の前に開道記念碑がある。
その先街道左手の岡田町掲示板の脇に嘉永5年(1857)の道祖神と本陣跡標柱が建っている
本陣跡の直ぐ先に岡田宿公園があり、岡田宿跡標柱、岡田宿の概要などがある。
公園の上隣には卯辰を上げた立派な家が建っている。
更に進んで行くと右に曲がる枡形の先にY字路があり、中央に道標が建っている。
道標の傍らには南無阿弥陀仏碑と道祖神があり、道標の向かい側は岡田口番所があったところである。
善光寺道は左に進んで行く。
街道を進むと左手に鉄棒・滑り台などの置かれた小公園がある。ここは蓮台場と言われ、旧善光寺街道の往来が盛んな頃、旅人の無縁墓地でもあった。前庭は葬礼場で、棺桶を乗せる木または石の台があった。その台を仏・菩薩が座る蓮の形をした台座になぞらえて蓮台と言ったことから蓮台場と呼ばれたという。ここには地蔵堂があり、周囲には馬頭観音、庚申塔、南無阿弥陀仏碑などがある。

山が迫る 伊深の一里塚跡 石仏石塔群 塩辛遺跡
蓮台場の先は街道正面に山が見えて来る。これから越える刈谷原峠の方向である。
どんどん進むと蕎麦畑や黄金に実った稲田が街道脇に見えて来る。
右手の稲田の前に伊深の一里塚跡がある。善光寺街道での一里塚は洗馬宿を起点としている。
松本城下では安原木戸の一里塚の次が伊深の一里塚である。
一里塚跡の直ぐ先に石仏石塔群がある。
ここには大きな道祖神のほか、明治26年(1893)・大正8年(1919)・昭和18年(1943)の馬頭観音などがある。
石仏石塔群の先で国道254号線に突き当たるが、その手前に塩辛遺跡の解説がある。
古代において伊深・洞・稲倉に広がる一帯を塩辛と称し、縄文時代中期から平安時代までの竪穴住居跡、古墳時代から平安時代の大型・中型の掘立柱建物跡などや遺物が多く出土しているという。

道祖神・問屋場跡 石碑石塔群 石碑 廻國供養塔
国道254号線の下をくぐり抜けてると刈谷原峠まで2㎞の中部北陸自然歩道の道標があり、暫くコスモスの咲く街道を上って行くと左に道祖神と道標「右むらみち 左松本道」 がある。道祖神の先には解説が有り、明暦2年(1656)岡田町が宿場となる前には、ここに所氏の問屋場があり問屋原と呼ばれていたという。 坂道を進むと右手に溜池があり、左手段上に墓地があるが、その斜面に頌徳碑、百八十八番供養塔、寛政5年(1793)・慶應2年(1866)・明治5年(1872)・大正11年(1922)の馬頭観音、昭和3年(1928)の大日如来などが並んでいる。 集落の最後の民家の手前に石碑があり、「信濃百○」 と下の文字あたりから折れてしまった文政12年(1829)の石碑がある。
この石碑の下部は、この先の分岐の先で出会うことになる。見えなかった下の文字は 「番供養塔」 であり、繋げると 「信濃百番供養塔」 となる。
最後の民家を過ぎると街道右手に明和4年(1767)の大乗妙典六十六部日本廻國供養塔が建っている。
年代の上に天下和順、碑の側面下部に草間仲右衛門と刻まれている。

分岐 侵入防止ゲート 石切場跡 南無阿弥陀仏碑
廻國供養塔の先でY字路となり、左は馬飼峠、右は刈谷原峠の道標や解説が建っている。
このY字路の山上に秋葉神社の岩社があり、毎年5月に伊深町会の住民が麓の鳥居の前で幟を立てて遥拝しているという。また、この辺りには鎧塚があり、天文年間(1532-54)伊深城が武田勢に攻められて落城し、戦死者の鎧を埋めた所だとも言われている。
街道を上って行くと道の真ん中に動物侵入防止ゲートがある。
野生動物から農作物を守るための施設で開けたら必ず閉めるように注意書きがある。
ゲートの先の左手に石切場跡がある。
解説よると文禄2年(1593)松本城主石川玄蕃頭康長が天守築城に当たり、太鼓門の石垣に大岩を使わせるために、この辺り一帯から大岩を切り出して城下まで運んだという。
石切場の先の林の前に南無阿弥陀仏碑が建っている。
寛政9年(1797)の建立で、この碑の道路を挟んだ向かい側には茶屋が一軒あったという。

商人石(あきんどいし) 馬頭観音・橋跡 急坂の街道 馬頭観音群
次第に急になる坂道を上って行くと商人石の解説がある。
昔、この場所に 「こぶしくらいの石」 の群れがあり、商人石と呼んだ。世間の景気が良い時には、その小石の群れが道より上に有り、景気が悪い時には道の下の場所にあったという。商人がここで追剥に殺されて、その怨念が石に残ったとも言われている。山側の大岩の前一帯には石畳があったというが壊されてしまった。
街道左手に黒い石の慶應2年(1866)の馬頭観音が建っている。
馬頭観音の左の沢水は道を横切る石垣積の川を流れ、橋が架けられていたが、現在は太い管を入れて埋められている。沢側に石積の名残がある。
坂道は幾重にもくねって急になって行く。 坂道の左手に峠の各所にあったという馬頭観音が安置されている。
峠道は急峻で過酷な労働のために倒れて死んだ馬が多くあり、飼い主は貴重な労働力である馬の供養や無病息災を祈願して馬頭観音を建てた。峠の各所には百体余の馬頭観音があったというが、時の流れと共に忘れ去られ、多くが心無い人に持ち去られたという。

刈谷原峠 地蔵尊 馬頭観音 馬頭観音
馬頭観音群から20分程進み最後のS字を登ると刈谷原峠である。
標高920mの峠は平らな広場となっていて、ここには三軒の茶屋があったといわれ、その石垣と井戸が残っている。
峠からは広い道となり下って行くと右手に地蔵尊が2体安置されている。
地蔵尊の向かいは谷になっていて水が湧き出ている。
更に下ると斜面に馬頭観音が1体あったが、よく見ると周囲の石は馬頭観音が倒れたものであることが分かり安置し直した。
半分欠けたものと顔が削られたものであった。この先は杉や松の茂る快適な道となる。
3体の馬頭観音から杉林の道を下って行くと左手の岩の上に嘉永6年(1853)の馬頭観音が建っている。

刈谷原峠一里塚跡 侵入防止ゲート 道標・馬頭観音 庚申塔・道祖神
S字の坂道をどんどん下ると右手に刈谷原峠一里塚跡がある。 杉林の道の右手の沢に砂防ダムが見えたところに野生動物侵入防止ゲートがある
本来の旧街道はこの砂防ダムで通行不能である。
舗装された街道を下ると駐車場の脇に昭和7年(1932)の馬頭観音があり、その横に道標が建っている。道標の隣の刈谷原峠の解説は腐ってずり落ちている。 道標の前を下って行くと左手の沢の土手上に庚申塔と道祖神がある。
庚申塔は元禄2年(1689)の青面金剛の二鶏三猿のものである。傍らには道祖神と馬頭観世音菩薩と刻まれた石碑がある。
本来の街道は砂防ダムのところからこの前を通っていたようで刈谷原峠に至ると書かれた標柱が立っている。

刈谷原宿 道祖神 横山不動尊 神明社
刈谷原宿は幾度か大火に遭ったため古い家は残っていない。
家の表札代わりに北国街道と書かれた行灯などが有り、途中に刈谷原町玉成学校跡がある。
集落の真っすぐな道を下って来ると突き当たりに白壁の大きな家がある。
ここを鉤型に曲がると集落を抜けた右手の斜面に道祖神がある。
道祖神の先で国道143号線を渡った正面に横山不動尊がある。
鳥居脇に鳩山一郎氏書の昭和公園碑、筆塚があり、階段を上り詰めると不動妙王の安置された御堂がある。
横山不動尊の前の道を下って行くと再び集落があり、左手に神明社の社標がある。
少し入ってみたが、先に両部鳥居があるだけでその先に社殿は見られない。かなり山に入ったところにあるというので寄らずに進むことにした。

洞光寺 小社 圃場整備竣工記念碑 馬頭観音・地蔵尊
神明社の隣の家の脇に石造物があり、石造物の間の藤棚をくぐって進むと洞光寺がある。写真中央の石は木曽義仲の初戦である会田・小見の合戦の際、義仲が兜を置いたという伝説の石である。
境内には瑠璃殿(薬師堂)、地蔵堂、弘法大師像などがある。
川中島の戦いで武田信玄が刈谷原城に攻め入った際、城主であった太田弥助(太田長門守資忠)は戦死し、洞光寺に葬られたという。
洞光寺の石造物の先を下って行くと左手の斜面に上る階段があり、上ってみると忘れ去られたような小社がある。
木の鳥居は朽ちかけて傾いているが、小社はブロックで囲われて安置されていた。傍らに馬頭観音が建っている。
更に下ると県道302号線に突き当たり、この角地に中部北陸自然歩道の道標が建っている。
街道を左に進んで行くと右手に広がる田圃の前に圃場整備竣工記念碑が建っている。
右手に広がる黄色く実った稲穂を見ながら進んで行くと左手段上に馬頭観音碑、天保3年(1832)の馬頭観音、地蔵尊が建っている。

庚申塔・道祖神 庚申塔・道祖神 旧道分岐 坂場一里塚跡
反町集落に入ると左手の青いトタン屋根の民家の手前の坂道に庚申塔と道祖神の納められた鉄製の覆屋がある。道祖神は嘉永年間(1848-53)のものである。
街道を進むと左手の鉄塔の脇から入る道の斜面に庚申塔と道祖神が建っている。
庚申塔は元治元年(1864)のものである。
更に直ぐ先の左手段上に文政年間(1818-29)の馬頭観音があり、更に下って沢屋橋を渡った先に左に入る板場集落の旧道がある。 旧道を進むと右手の県道302号線に下りる道の角に道祖神があり、その先の空き地の隅に板場一里塚跡がある。

二十三夜塔・道祖神 善光寺道標 保福寺橋 浄雲寺
板場一里塚跡の先右手に板場区と書かれた神輿蔵らしき建物があり、その前に二十三夜塔と石祠が建っている。
石祠の中の壁には馬頭観音が刻まれ、台座には板場講中安全と刻まれている。また、二十三夜塔の脇には倒れた善光寺三十三度供養塔がある。
神輿蔵の先で県道302号線に突き当たるが、この手前に善光寺道標がある。
この道標の先に見えているのが善光寺道である。
県道302号線を横切って進み保福寺川に架かる保福寺橋を渡って行く。 保福寺川を保福橋で渡ると右手に浄土宗の浄雲寺がある。
楼門の前には南無阿弥陀仏碑や念仏供養塔などがある。

廻國塔 会田宿のモニュメント 道祖神・馬頭観音 会田宿
山沿いの街道を進むと右手の防火水槽の前に嘉永2年(1849)の大乗妙典日本廻國塔と水神碑が建っている。この直ぐ先の段上には善光寺と刻まれた石碑がある。
アカマツ林の前の街道を進むと左前方に会田宿の集落が見えて来る
信号十字路を越えると左手の松本市四賀支所の前に会田宿のモニュメントが建っている。
会田宿解説の先で穴沢川を渡ると右手に馬頭観音・道祖神の石造物がある。
会田宿は鎌倉時代に小県地方の豪族海野氏が中信に進出し、次男(会田小次郎)を配置して治めさせたのが始まりである。
江戸時代に入ると中山道洗馬から分岐して善光寺へ向かう街道の宿場として栄えた。
田川に架かる会田大橋を渡ると屋号を掲げた家が左右にあり、宿場の雰囲気を醸している。

千本松の道祖神 道標 善光寺街道行灯 本陣跡
宿並みを進んだ会田宿交差点右手に千本松と呼ばれた樹齢350年を越えるアカマツの樹に彫りこんだ道祖神があり、樹の根元は中央に保存されている。
この千本松と呼ばれたアカマツは平成25年6月に松くい虫の被害により枯れてしまったものである。
会田交差点の千本松の道祖神の向かい角地に道標が建っている。
道標正面に 「左○かうし道」 と刻まれているが、○は善が入るのだろう。この道標の奥には宿場の水屋があり、水車が回っている。
松本信用金庫の前に善光寺街道行灯が建っている。
その先に萬屋と大坂屋の屋号の架かる趣のある家が並んでいる。
JA松本ハイランドの向かいに本陣跡がある。
ここには旧横内氏の屋敷があり、本陣を務めていた。宿場の盛時は旅籠12軒、その他の小宿7軒、総戸数94戸があったという。

道標 津島神社 道祖神 KAJIYA
本陣跡の先で小川を渡り、その直ぐ先の右手坂道の角に道標がある。
この道標も上部が欠けており 「○○光寺道 ○○京いせ道」 と刻まれている。善光寺街道はこの坂道を上って行く。道標の直ぐ上にも善光寺道と刻まれた標柱がある。
道標から少し上ったところに石灯籠のある石碑が祀られている。白い標柱の文字は消えているが津島神社のようである。
本日はここで終了し、道標の先を2㎞進んだゲストハウスに泊まる予定である。夕暮れまでには若干時間があったので会田宿交差点の奥にある長安寺に寄ってみたが、堂宇は無くブルーシートで覆われていた。境内には馬頭観音などの石造物が残されていた。
折れた道標の先を宿に向かって進むとY字路の中央に大きな道祖神が建っている。 道標から2㎞hほど先にあるKAJIYAはゲストハウスで民家を改築した建物である。
2階の部屋を使わせていただいたが、天井は無く大きな柱がむき出しである。板の間と畳が敷かれた部分があり、広々とした間取りであった。

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