この小路は、二十四小路の一つで享保年間の絵図(享保十三年)によれば親町東町から分岐し、捨堀の南の木戸との間である。小路の長さは二十三間幅は一間四尺であった。ここには冷水の井戸が二つ設けてあったことから、小路の名前となった。また、木戸の内側には番所があり、番人が詰めていた。

捨堀の土塁跡解説

今から三八五年程前秀吉の命で松本に入った石川数正は城の基礎を築き、その子康長によって完成された。
その後更にこれを強化するため惣掘の東側に堀を巡らす工事を起した。しかし徳川の知るところとなり改易の一因になったと言われている。
堀は三百米位で未完成のままに打ち捨てられた(捨堀)
当家に現存している土塁は当時のままに原形を保存してある。堀の部分は明治初年に埋められている。

作左衛門小路

二ツ井戸小路

東町から分岐する六つの小路の一つ。
名主萩原作左衛門がこの小路を開通させた事に因み、この名がつけられた。