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北国西脇往還  (会田宿~麻績宿)


平成27年9月22日(火)  ☀   会田宿 ~ 聖高原   <歩き17.0㎞>
ゲストハウスKAJIYAは玄関のカギは掛けないというので早朝5時40分に出発して、会田宿の道標までの2㎞の間にある寺社を巡って行くこととした。早朝の道は全く往来が無いので車道を歩いて行くことができた。たった2㎞の間であるが、多くの石造物、寺社神社があり道標までたどり着くのに1時間ほどかかり、昨日の街道の続きは6時40分からのスタートとなった。

KAJIYA 石塔群 神明神社 石塔群
早朝のゲストハウスKAJIYAは静まりかえっているので、扉の音にも注意して静かに出かけて来た。
県道302号線の前に何かの缶を利用した看板が建っている。
KJIYAを出て間もなく左手の久保製作所の前に庚申塔・念仏塔・道祖神・筆塚の5基の石塔が安置されている。 追石塔群から程なく右手の石垣の上に神明神社がある。
鳥居は両部鳥居で両脇に天明6年(1786)の鬼瓦の乗った竿石が建っている。
緩やかにうねる県道302号線を左手にリンゴ畑を見ながら進むと赤い消火栓の脇に石塔群があり、西国坂東秩父百番供養塔・馬頭観音・記念碑である。右手の道路を挟んだ向かいには頌徳碑が建っている。

石塔群 小社 子安神社 神明神社
頌徳碑の直ぐ先の左手に石塔群がある。
二十三夜塔・風化の激しい双体道祖神・明治13年(1880)の馬頭観音である。
石塔群の先を進んで藤松屋商店を過ぎると左手の民家の土蔵の脇に小社がある。
周囲には、新四国坂東秩父廻國供養塔・二十三夜塔・男女双体道祖神がある。
小川を越えると左手段上に子安神社がある。
境内奥にはブロック造りの覆屋の薬師堂があるが、中を見ることは出来ない。両部鳥居の脇には法華六千部供養塔・風化した男女双体道祖神がある。
子安神社を出ると真正面から朝日が射し始め、右手に雀踊りの棟飾りの大きな家をみて進むと左手に神明神社がある。
境内には蠶神社・八幡神社・天満宮・秋葉神社など多くの境内社が祀られ、傍らに地蔵堂・不動堂などがある。

街道口 鶴屋 常夜燈 道祖神
朝露に光る街道の草を見ながら進み、KAJIYAを出てから約1時間で昨日の続きの道標のある坂道にたどり着いた。
いよいよ立峠へのアプローチが始まる。
坂道を進むと右手に鶴屋の屋号の付いた白壁の家がある。
ここから振り返ってみても、かなり上ったことが分かる。先には竹屋、梅屋、若松屋などの屋号の家がある。
会田宿の外れに来ると街道の両脇に松本市指定重要文化財の常夜燈が建っている。
この常夜燈は町内および善光寺参詣の旅人の安全を祈って安政2年(1855)に建てられたものである。
常夜燈の先左手に覆屋に安置された道祖神がある。
左に真新しい男女双体道祖神があり、隣に2基の道祖神碑が建っている。

馬頭観音 廣田寺参道入口 松澤家長屋門 弘法堂
道祖神の直ぐ上の民家の前に新しい小社があり、馬頭観音が安置されている。
電柱の脇には小さな嘉永2年(1849)の馬頭観音碑が建っている
馬頭観音の上のなまこ壁の土蔵の向かいに曹洞宗廣田寺への入口がある。
入口を進み岩井堂沢川に架かる寺前橋を渡ると廣田寺の総門がある。総門の周囲には筆塚・頌徳碑があり、寺前橋の手前には角柱の庚申塔が安置されている。総門から山門までの参道脇には幼児を供養した106体の観音像が並んでいる。
廣田寺から街道に戻って進んで行くと右手に松澤家の長屋門がある。
松澤家は天保2年(1831)から明治初期まで寺子屋をしており、この長屋門はそれより前の文政10年(1827)に建てられたものである。
更に街道を上り詰めると集落が途切れる右手に弘法堂がある。
ここには嘉永3年(1850)の松澤喜一塚(筆塚)・弘法大師袈裟掛けの松碑・芭蕉句碑がある。右に入ると念仏供養塔・廻國供養塔・地蔵菩薩があり、この先は無量寺の参道へと続いている。

無量寺 道祖神 道標 崖道
弘法堂を右に入ると常夜燈が一対建っており、その間を上って行くと曹洞宗の無量寺がある。無量寺は弘法大師を開祖として、弘仁10年(819)に仁科5代和泉守が開いた真言宗寺院を前身とし、天正2年(1574)に仁科25代武田五郎盛信が父信玄の菩提のため曹洞宗に改宗して再興したと言われている。
本堂、庫裏、鐘楼は登録有形文化財に登録されている。
無量寺から街道に戻って右手の半鐘櫓の先左手に男女双体道祖神が建っている。 道祖神の先を更に進み数軒の集落内の旧道を過ぎて行くと左手の細原加圧所の手前に道標が建っている。
道標には 「左善光寺近道 弘法大師霊場」 と刻まれている。細原加圧所の上の左の坂道が弘法大師霊場への道である。
土の坂道は崖道に代わり、右手には細い鉄柱に鎖が張られている。

観音堂 虚空蔵山 一里塚跡 虚空蔵山登山口
観音堂は、弘法大師伝説のある古くからの霊場で、善光寺街道筋の信濃三十三番中二十番札所である。
ご本尊は千手観音で観音堂の周囲には、百体観音の内の52体を始めとして、岩山に多くの石仏が点在しており、隣の大岩には210㎝の地蔵菩薩の磨崖仏がある。
観音堂から下ると舗装された道に出るが車が一台通れる位の道幅である。
更に上って行くと正面に虚空蔵山が見え、手前に岩井堂砂防堰堤が見える。この砂防堰堤の所を通るのが旧街道であるが、先がどうなっているか分からないため、舗装路を迂回して旧街道の出口に進んだ。
砂防堰堤の先の迂回路との合流地点に一里塚跡がある。
ここには弘法大師により掘り出されたという 「うつつの清水」 の水溜め石がある。うつつの清水はこの地より東に50m程の岩井堂沢の対岸にあり、そこから竹筒で水を水溜め石に引いていたという。折れた松の根元には、3基の馬頭観音が建っている。
一里塚跡の先を進んだ突当りに虚空蔵山登山口がある。この右手の砂利道を進むと虚空蔵山である。
虚空蔵山は信仰の山であり、城跡でもある。虚空蔵山城は山の広い範囲に築かれた城砦群とも呼ぶべき城で、山頂の峯ノ城、山腹の秋吉城、背後に大土塁を構え石垣を巡らせた広い平坦地を構える中ノ陣城などから構成されていた。

立峠登り口 ロープの道 峠までもう少し 立峠
虚空蔵山登り口からS字の道を進んで行くと左手に農業用のコンクリート貯水地があり、その手前の左に立峠登り口がある。
この登り口の向かいには、背を向けて建っている文化14年(1817)の三面六臂の馬頭観音がある。旧道は東の沢沿いにあったため沢の方向を向いている。周囲には沢山の馬頭観音碑がある。
登り口から一気に急坂となり、立峠1000mの標柱を過ぎて左に曲がるガレ場に張られたロープの道となる。 ロープの道を過ぎて尾根に出ると 「峠まで500m」 の標柱が有り、右に進んで行くと 「峠まで300m」 の標柱の辺りから右手に会田宿方向を望むことができる。
その先に 「峠までもう少し」 の標柱があってホッとする。
最後の坂を上り詰めると立峠である。
ここは広場になっており、当時は茶屋 「みたらしや」 が一番大きく、他に3軒の茶屋があったという。峠から聖山方向を望めば、これから向かう善光寺への道も見え、ここで一服といった場所であったという。
また木曽義仲の四天王の一人・海野氏の一族で藤沢大道が館を建てたという唐鳥屋城跡への入口がある。

地蔵原 芭蕉の小路・石畳 旧道口 九龍大権現
峠からの下り道は歩きやすい林道であり、途中、左手に 「古峠」 の道標があり、そこを入ると 「地蔵原」 の標柱が有り、近くに苔むした地蔵尊が安置されている。
「古峠」 は古代の東山道(官道)だったといわれている。
古峠道標の先で芭蕉の小路の道標が各所に建っている。
やがて石畳の道となる。将軍の代替わりごとに巡検使が見えて、その度に上乱橋村から立峠まで道普請の沙汰があったため石畳にしたようである。石畳は林道花川原線に突き当たるまで800mに渡って続いている。
林道を少し下ると左手に中部北陸自然歩道の道標が建っている。
この草道を下って行くと回り込んできた林道と合流し、乱橋宿の集落の外れに出る。この右手の藪の中に筆塚と馬頭観音がある。
街道を下ると右手の畑の奥に簡素な造りの木の鳥居があり、昭和8年(1933)建立の九龍大権現の社殿がある。

道祖神・庚申塔 薬師堂・十王堂跡 乱橋宿 高札場跡
更に下ると左手段上に双体道祖神と庚申塔が並んでいる。
上町公民館の裏に薬師堂・十王堂跡がある。
標柱の後ろには百番観世音供養塔、僧侶の墓石などが建ち、薬師堂には塗装の剥げた薬師如来座像などが並んでいる。
街道を下って乱橋上町の橋を渡ると本城村消防団第二分団車庫の前で右からの道と合流すると乱橋宿の標柱が建っている。
標柱から右手4軒目の屋号「二🈶軒」 の前に安政5年(1858)の頌徳碑が建っている。
屋号「二🈶軒」 の向かいの家の角に乱橋宿高札場跡がある。
高札場標柱の脇には、小さな地蔵菩薩が祀られている。

稲荷神社 乱橋分教場跡 旅籠古久屋跡 道標
街道右手に大きなイチョウの木があり、その下に稲荷神社がある。
赤い鳥居の脇には、安政5年(1858)の石灯籠が一対建っている。
乱橋活性化施設みなくる館の前に乱橋分教場跡碑が建っている。 乱橋宿は、会田宿と坂北青柳宿のほぼ中間点にあたり、長旅の小休止の場所として利用された間の宿である。
往時をを偲ばせる家並みが、今でも所々に残っており、宿外れには正岡子規が宿泊した旧大黒屋がある。
旧大黒屋の先で十字路となり、右手角に善光寺街道の道標が建っている。真っ直ぐに善光寺、後方に立峠と表示されている。
この道標を右に200mほど進むと阿弥陀堂があり、左に200mほど進む諏訪神社がある。

阿弥陀堂 諏訪神社 整田碑 棉の実道祖神
善光寺道標を右に200mほど登った左手に阿弥陀堂がある。
御堂の扉は閉められ、中の祭壇の前も閉められているためり仏像などは確認できない。御堂の横には苔むした石塔石仏が11基あり、馬頭観音、如意輪観音、庚申塔、僧侶の墓石である。
善光寺道標を左に200mほど下ると右手に諏訪神社がある。
拝殿横に大きなケヤキの木があり、周囲にある大山祇神などの石碑が樹に飲み込まれようとしている。境内奥には境内社の覆屋があり、脇に石祠群がある。
諏訪神社の前の道路脇に乱橋地区圃場整備事業の整田碑が建っている。
碑の奥には山村の稲田の風景が広がっており、諏訪神社の脇でも稲刈り作業が行われていた。
善光寺道標の前を直進して坂道を進むと左手斜面に棉の実道祖神がある。
男女双体道祖神が握っているのが綿の実だという。乱橋地区では、江戸時代から綿の実が多く栽培されたと言われている。

中の峠 馬の水呑み場 道標 中の峠一里塚跡
斜面の道を進んで行くと右手に乱橋集落と立峠方向が見え、間もなく中の峠に出る。
峠の三叉路角は墓地となっているようで南無阿弥陀仏碑や墓石があり、その上に物種太郎塚がある。
物種太郎は松本地方の民話で、2日前に通った塩尻市広丘吉田の横断地下道の壁面に塩尻市立丘中学校の製作による絵物語が描かれている。
峠を下って間もなく左カーブになるところに馬の水呑み場がある。
今でも水は枯れておらず、傍らに馬頭観音が2基建っている。この先の右手にも明治期の馬頭観音が1基建っている。
緩やかに蛇行する街道を更に下ると右手に集落が覗いている道があり、この角に中部北陸自然歩道の道標がある。
あいにく倒れていたが、その先には善光寺街道北国西街道の石碑があり、傍らに聖湖16.9㎞の中部北陸自然歩道の道標が建っている。
道標の先の僅か数軒の集落を進むと最後の家の角に中の峠一里塚跡がある。
塚は残っておらず、標柱が建っているのみである。どんどん下ると左カーブの右手に山伏塚、その先左手に野口炭鉱事務所跡の標柱が建っている。

JR篠ノ井線 馬頭観音 皿吊るし道祖神 西條神社
更に街道を下ると右手の斜面に2基の石祠が有り、その先でJR篠ノ井線に突き当たる。
街道は右手の道標のある細道を進んでJR篠ノ井線の 「きご沢橋梁」 の下をくぐって行く。
きご沢橋梁をくぐって沢沿いの道を進むと国道403号線に突当り、正面に中部北陸自然歩道の道標があり、右に進むと崖下に馬頭観音が3基並んでいる。 馬頭観音から右に30m進むと金網の張られた崖にくり抜かれた穴の中に皿吊るし道祖神が安置されている
八十二文化財団によると 「皿吊るし」 とは、慶安(1648-51)の検地帳に記載されている小字名で、武田信玄の軍師山本寛助がこの道祖神に目の快癒を願掛けしたと伝えられているという。
国道403号線を進むと左手の駐車場奥に忠魂碑があり、その先の山の上に西條神社がある。
一之鳥居・二の鳥居は山の中腹にあり、上り詰めると西條神社拝殿・舞台・地蔵堂・社務所などがある。
社務所裏には車道があり、忠魂碑の脇から回り込んで来ることができる。

道標 本城小学校跡 本城村役場跡 宿並み
国道403号線の右手に築北村役場本城総合支所があり、その先でY字路となり善光寺街道は国道403号線と分れて左に進んで行く。
ここには中部北陸自然歩道の道標が建っている。
分岐を右に入って直ぐ右手に日本ウェルネス高等学校があるが、ここは本城小学校の跡地である。
入口には本城小学校跡碑・本城中学校跡碑・校歌碑などが建っている。。
街道を進むと右手の西条郵便局の前に本城村役場跡碑と本城村道路元標が建っている。
平成17年(2005)10月、本城村、坂井村、坂北村は合併により筑北村となった。
西条宿は、宿場間が長い場所や途中に難所ながあったところに、茶店などを置いて休憩用として設けられた間宿であった。
街道を進むと多くの旧家が建っている。

観音寺 茶屋本陣跡 川遊び 石祠
街道右手に富蔵山観音寺がある。
観音寺は明治の初めに一時西条学校として使われていたため、仁王門前に西条学校跡標柱がある。この寺の御本尊は馬の守護神である馬頭観世音であり、境内には馬と牛の像がある。本堂内に奉納されている絵馬には、千頭の馬とその中に一頭の牛が描かれていて、この牛を見つけた人の末世には幸せがあると伝えられている。近年までは毎年百余頭が参加する草競馬が行われていた。
観音寺の斜向かいに茶屋本陣跡がある。
門脇に明治41年(1908)の大きな石碑があるが、判読できず何の碑か分からない。この少し先右手に滑車の付いた釣瓶井戸がある。
街道を進むと正面に半鐘櫓があり、その下で女の子が3人で川遊びをしていた。
何をしているのか見ていると、小川に蟹がいるので捕まえているのだという。見せてもらうとクモの子のような小さな沢蟹である。何とも懐かしい思い出が蘇えった一時である。
半鐘櫓の先の松の木のある家のブロック塀の前に小さな石祠があり、中にセトモノの狐がいくつか納められ、傍らに天保10年(1839)の常夜燈が建っている。

西条大橋 刈谷沢神明宮参道口 石塔 道祖神
西条宿の外れに東条川に架かる西条大橋がある。
川には殆ど水が流れておらず藪状態である。橋を渡って突当りを左折すると道標があり、東条川に沿った直線の道となる。
東条川に沿った直線の道を進むと十字路の右手に刈谷沢神明宮の一之鳥居が建っている。
鳥居前には安政5年(1858)の常夜燈が一対建っており、社殿は鳥居から約700m登った四阿屋山麓に鎮座しているため寄らずに先に進んだ。
街道の右手にある筑北農協倉庫脇に3基の石塔が建っている。
一番大きいものは4面に文字が刻まれており、確認できる文字は 「南無妙法蓮華経」、「泰唱涵題目三百十万遍」、「陀羅尼一百巻成就」、「安永三甲午夭五月吉祥日」 であり、石塔の傍の草むらには馬頭観音もある。
筑北農協倉庫の向かいに半鐘櫓があり、その下に注連縄が巻かれた道祖神がある。

坂北分教場跡 馬頭観音 山清酒造 福田屋
筑北農協倉庫の隣が坂北分教場跡である。
標柱には、「麻績組合高等小学校坂北分教場跡」 と書かれており、その手前に 「縣道西街道」 と刻まれた小さな標柱がある。この先左手に枝ぶりの良い松が街道にせり出している。
更に街道を進むとY字路があり左は国道403号線に合流し、右は善光寺街道でJR篠ノ井線を跨ぐ県道467号線となる。
JR篠ノ井線を越えると筑北村中村地区に入り、右手の一軒目の角に享和元年(1801)の馬頭観音と甲子供養塔が建っている。
街道右手にある山清酒造は、創業300年余の伝統があり、 「山高く水清き信州」 から山清と命名したという。 山清酒造の斜向かいに旧家があり、正面右手に福田屋と書かれた門がある。
この家の右横は空き地になっており、ここに山崎良子氏宅地の標柱と石祠がある。
石祠の裏には「山崎良子先祖代々霊璽を合祀する」 と刻まれている。よく分からないが子供か親類縁者が建立したものと思われる。

一里塚跡 道祖神・庚申塔 腰の神 道標
福田屋の直ぐ先の旧坂北村役場 (現坂北歴史民俗資料館) の向かいの草むらに一里塚跡がある。
旧坂北村役場前には、「増田甲子七先生之像」 が建っている。台座には頌徳文が刻まれている。増田甲子七は明治31年(1898)坂北村に生まれ、内務官僚を経て吉田内閣の労働大臣、官房長官、建設大臣、初代北海道開発庁(現国土交通省)長官、自由党幹事長を歴任している。
一里塚跡跡の先右手に庚申供養塔・道祖神・獅子の像が建っている。 筑北村坂北小学校の向かいの土手に 「腰の神」 と書かれた標柱があり、脇に白い布巻きつけた石塔が建っている。
白い布を巻きつけて拝むと腰の痛みが取れると言われている。
坂北小学校の先でY字路となり、左はJR篠ノ井線の坂北駅へ向かい、右が善光寺街道である。
ここには中部北陸自然歩道の道標と青柳宿周辺案内図がある。

石塔群 桜清水 宿並み 石組用水路
青柳集落を進むと右手の山の斜面に墓地があり、その手前に石塔が並んでいる。
南無阿弥陀仏碑・二十三夜塔・馬頭観音などである。
石塔群の先に青柳宿の案内図が建っており、その先、右手の枝垂れ桜の前に共同井戸の桜清水がある。井戸の段上には2基の石碑が建っている。
桜清水から先は緩やかな坂道が続いている。
直ぐ右手の民家の間を入ると共同井戸の筒井の井戸があり、街道左手には市の神の石がある。
青柳宿は山裾の傾斜地にあるため、狭い敷地に石垣を組んで家が建てられており、その石垣の下を水路が通り灌漑用水・生活用水として使用されていた。

丹花の井戸 本陣跡 清長寺 切通周辺案内
石組用水のある民家の間を右に入ると林の中に丹花の井戸があり、その先に石塔群がある。その先には御堂があり、阿弥陀如来立像と位牌が安置されている。
登り詰めに近い処の右手に大きな黒い冠木門の本陣・問屋跡がある。
この青柳家は領主・青柳氏の子孫であり、横にあるお住いには問屋の屋号が架かっている。本陣の向かいには青柳宿の解説があり、斜向かいには馬の水飲み場、枡形の手前の座熊川に用水の取入口がある。
枡形道の右手にある屋号角屋を左折すると道標があり、真っ直ぐ進むと切通し、右に折れると青柳城址公園とある。
右に折れて坂道を上って行くと突当りに青柳氏の菩提寺でもあり、青柳氏滅亡後も小笠原氏の屋敷跡だったという清長寺がある。現在、廃寺になっており手入れはされていないが、周囲に侍屋敷跡、青柳学校跡の標柱などがある。
街道に戻ると右手に 「かじやまの井戸」 があり、その先に廃屋となった崩れかっかた家がある。その先の堂の沢川を超えると右手に切通周辺案内が建っている。案内には切通しと駕籠人足の絵が刻まれている。

大切通し 小切通し 鍾馗像 馬頭観音
街道を右にカーブすると大切通しである。
天正8年(1580)に青柳伊勢守頼長により切り開かれた。
その後、享保元年(1716)、明和6年(1769)、文化6年(1809)と3回に渡って切り下げられた。右側の岩面には普請記録と馬頭観音が刻まれ、周辺には百体観音などが安置されている。
大切通しを抜けて左右にうねった林の道を進むと小切通しがある。大切通しと同時期に開削されたという。
途中の林の中にも馬頭観音や供養塔が建っている。ここから先は麻績村である。
小切通しを抜けると目の前に長野自動車道のトンネルがある。
トンネルを抜けて下り坂を進むと左の林に百八十八所碑があり、麻績村の最初の集落に入ると右手の土蔵の屋根に鍾馗像が建っている。小さな集落で民家の切れるところに男女双体道祖神が建っている。
集落を抜けて左手に麻績川が近づいてきたところの右手に馬頭観音群がある。
昭和の時代のもので日支事変出征軍馬栄山号などの文字が刻まれている。

麻績大橋 道祖神 道祖神 嫁の泣石
左右に田圃の広がる女渕地区から砂原地区に入り、麻績川に架かる麻績大橋を渡ってJR篠ノ井線を越えると国道403号線に合流する。 国道403号線に合流して間もなく左手に道祖神と途中で折れた石碑が建っている。 先に進むと用水路の脇に道祖神碑と男女双体道祖神が建っており、左手斜面には馬頭観音・大乗妙典六十六部供養塔などの石造物がある。 道祖神の先に僅か100m位の旧道があり、更にその先の下井掘バス停のところにも旧道が残っており、入って行くと中ほどに嫁の泣石がある
昔、松本地方の嫁入り行列がこの石の前まできたとき、娘は石にかじりついて 「行くのは嫌だ」 と泣き、あまりに泣き叫ぶので家族は長野に連れて行くことをあきらめたという。このため石には嫁の泣石と刻まれた。

古峰神社 筆塚 高札場跡 一里塚跡
嫁の泣石の旧道を進んで行くと国道403号線に合流する手前の段上に古峰神社がある。
段上の覆屋の中に古峰神社社殿があり、境内には不動堂があるが、御堂には鍵が架かり厨子も閉じられているため不動明王は見ることができない。
国道403号線に合流して間もなく右手に筆塚がある。
筆塚は渡辺潔貞塚と刻まれており、傍らには市神の石祠と如意輪観音・地蔵尊が建っている。
筆塚の斜向かいに高札場跡があり、掲示板が建てられている。
この周囲には協志学校(南麻績学校)跡・郷蔵跡がある
高札場跡から程なく先左に稲荷神社があり、社殿前のコスモスの中に一里塚跡がある。
この10数メートル先に一口坂碑が建っている。

一口坂登り口 駒が石 廻國順拝塔 石塔群
一口坂碑の10メートルほど先に一口坂登り口がある。一口坂は、麻績合戦に向かう木曽義仲の軍馬が、この坂を登り、笹を一口食べて元気を取り戻したので、この名が付いたと言われている。坂を上って行くと斜面に馬頭観音が所々に建っている。 一口坂を更に上って行くと右手に駒が石がある。
木曽義仲軍の勢は強く、軍馬が通り過ぎた後、路上の石に蹄の跡が残っていたため、この石を駒が石と呼んだという。石には蹄らしき跡が残っている。
坂の頂上付近に宝永5年(1708)の西国秩父坂東百番廻國順拝塔が建っている。碑には具一切功徳・慈眼視衆生・福聚海無量・是古応頂礼の文字が刻まれている。 一口坂を登り詰めると左手に石塔群がある。
この石塔群は、天明6年(1786)の庚申塔・文久3年(1863)の如意輪観音などである。

道祖神 麻績神社 姨捨山 ガッタリ
石塔群の先で川沿いの十字路になり、その左手角に道祖神と中部北陸自然歩道の道標が建っている。
道祖神の向かいの橋を渡ると正面に麻績神社の大きな常夜燈が建っている。
常夜燈を右に進むと麻績神社の鳥居があり、大きな木に囲まれた社殿がある。
麻績神社の先で右手に三角形の姨捨山が見えて来る。
正式名は冠着山(かむりきやま)と言い、山頂には冠着神社を祀る祠がある。冠着山の呼称は 「天照大神が隠れた天岩戸を手力男命が取り除き、九州の高天原から信州の戸隠に運ぶ途中、この地で一休みして冠を着け直した」 という日本神話によるという。
遠くに姨捨山を見ながら進むと右手にガッタリと書かれた標柱があり、隣に解説がある。
解説によると、木曽義仲の愛馬が長途の旅の疲れから、ここで 「ガッタリ」 と膝を折ったというので、この辺りの地名を 「ガッタリ」 と呼ぶようになったという。

冠着宮遥拝所碑 麻績宿碑 法善寺入口 瀬戸屋本陣跡
ガッタリ標柱の先で県道12号線に合流するところに明治27年(1894)の姨捨山冠着宮遥拝所碑が建っており、周りには馬頭観音が安置されている。
姨捨山は集落の奥に見えている。
県道12号線に合流して進むと右カーブに麻績宿碑が建っている。
麻績宿は慶長19年(1614)に松本藩主小笠原秀政の伝馬定書により藩内の他の宿場とともに制定されたという。
麻績宿碑の脇には、周辺の史跡図があり、街道は姨捨山に向かって上町、中町、本町と進んで行く。
上町に入ってすぐ左手に法善寺入口があり、角にいくつかの石造物がある。
元治元年(1864)の御嶽山座王大権現、不動明王、文政10年(1827)の反古塚(筆塚)、男女双体道祖神、馬頭観音、庚申塔などである。
法善寺入口の隣に 「うす井」 と書かれれた庵看板を出す臼井家(屋号瀬戸屋)がある
麻績宿では臼井忠兵衛家(屋号中橋)が代々本陣職を世襲したが、安政7年(1860)から幕末に架けてが本陣をめぐる紛争があり、この瀬戸屋も本陣職を名乗った。

中橋本陣跡 旧旅籠花屋 上問屋跡 麻績番所跡
姨捨山に向かって街道を進み中町に入ると左手に老松がせり出した中橋本陣跡がある
ここは代々本陣職を世襲した臼井忠兵衛家であり、元禄年間(1688-1703)から享保年間(1716-35)の頃は松本藩麻績組の大庄屋も勤めている。
中橋本陣跡の向かいに旧旅籠の屋号花屋がある。
この家の塀の角に芭蕉句碑が建っており、更科紀行の途中吟二句が刻まれている。
旧旅籠花屋の先左手の造り酒屋の大和屋前を通り過ぎると左手の中町公民館の前に道路元標があり、その先に上問屋跡がある。上問屋の向かいには高札場跡がある。 高札場跡を過ぎると中町の旧家真田屋の先で国道403号線を渡って行くと左手に麻績番所跡がある。

海善寺 豊受大神宮 聖高原駅
麻績番所跡を左折すると正面に真言宗の海善寺がある。古くは光明院戒全寺といわれたが、文亀元年(1501)に裏山が崩落し堂宇も倒壊したため、現在地に再建し、寺名も上野山海善寺と改められた。
境内には多宝塔・五輪塔があり、室町時代末期、麻績城主として入部した服部左衛門清信・加信斎兄弟の供養塔と伝えられている。
麻績番所跡を右折すると伊勢神宮外宮の豊受大神宮がある。
鳥居の前には嘉永6年(1853)の大きな常夜燈が建っている。
本日の行程はここまでで聖高原駅前からタクシーで15分程山道を登ったロッジ風ホテルのシェーンガルテンおみへ直行である。
友人は食事後、この聖高原駅から東京へ帰宅となった。

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