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北国西脇往還  (洗馬追分~松本)

 北国西脇往還は江戸幕府が制定した宿場街道ではないが、塩尻方面から善光寺へ到る街道で中山道と北国街道を連絡する別名善光寺街道と言われる道である。中山道の洗馬で別れて松本を経由し、刈谷原峠・立峠・中ノ峠・猿ケ馬場峠を越えて篠ノ井追分で北国街道に合流する。距離は64㎞と短いが、起伏に富んだ街道で途中に手頃な宿が無いのが難点である。

平成27年9月20日(日)  ☀   洗馬追分 ~ 松本   <歩き17.0㎞>
今回もいつも山越えを一緒に行っている友人と二人で行くこととし、新宿駅7:00発のあずさ1号で塩尻に向かったが4連休と言うこともあり車内は登山客が目立ち、自由席は通路が通れないほど混雑していたようである。9:30に塩尻に到着し、ここから洗馬まではタクシーを使って時間短縮である。9:50に洗馬追分に到着して、いざ出発である。これまでの雨の日々と打って変わって今日から4日間は天候がよさそうである。

道標 常夜燈 石碑石仏 コスモスの咲く街道
洗馬の新道とのY字路中央に道標が建っている。
この道標は元々はここら50m先の常夜燈の建つ中山道と善光寺道との分去れにあったが、昭和7年(1932)4月6日の洗馬の大火以後、新道が整備されたおりに移されたものである。道標には 「右中山道 左北国往還 善光寺道」 と刻まれており、傍らには南無阿弥陀仏碑、庚申塔などが建っている
中山道と北国西脇往還の枡形に常夜燈が建っている。
ここは北国西脇往還の始まりで、松本を経て麻績から善光寺へ向かう道で善光寺街道とも呼ばれている。善光寺へ17宿・19里余である。
この常夜燈は安政4年(1857)、天照皇大神宮と刻まれている。
追分から街道を進んで間もなく左手の民家の前に石碑石仏がある。
善光寺道と刻まれた明和3年(1766)の観音供養塔、文化8年(1811)の南無阿弥陀仏碑、馬頭観音などである。
街道を進むと季節がらコスモスがいたるところに見られ、この辺り特有の雀踊りの棟飾りの家が見られるようになってくる。

太陽光発電所 忠魂碑 道祖神 太田諏訪神社
街道を進むと左手畑の奥に松並木が見え、その先の街道沿いに太陽光発電所のパネルが並んでいる。 太陽光発電所のパネルの先に見えて来る大きな松の木の根元に塩原兄弟忠魂之碑がある。
漢字がいっぱいの碑であるが、日露戦役の戦没者のようで陸軍大将乃木希典などの文字が刻まれている。
忠魂碑の先のシオハラ時計店の手前の民家の庭先に大正9年(1920)の道祖神が建っている。 道祖神の直ぐ先の中原交差点を左に入って行くと坂の下の田畑の真ん中に太田諏訪神社がある。
太田諏訪神社の祭神は建御名方命(たてみなかたのみこと)で、由緒によると建御名方命は、出雲の国の御祭神、大国主命の御子神で水や風に直接関係のある農業の守護神である。境内には、津島神社、妙義神社の境内社がある。

道標 一里塚跡 中部電力変電所 街道風景
中原交差点を越えて直ぐ右手の民家の角にある赤い消火栓の前に道標がある。
道標には、「左善光寺道」 と刻まれている。
街道を進むと右手のブドウ畑の前に善光寺道一里塚跡碑が建っている。
一里塚碑は平成14年12月に建てられたものである。
一里塚の先で日本アルプスサラダ街道を横切り、ブドウ畑を見ながら進んで行くと左右に広がる中部電力の中信変電所がある。
鉄塔や電線などむき出し機器は長閑な街道に似合わず迫力がある。
中部電力の中信変電所を抜けると再び長閑な街道風景があり、街道脇には心を和ませてくれお花が咲いている。

馬頭観音 郷原宿 諏訪稲荷神社 郷原宿解説
黄色いお花の咲いている斜め向かいの中部電力中信変電所の敷地の角に慶応4年(1868)の馬頭観音が建っている。
馬頭観音の裏には郷原宿と刻まれいる。
馬頭観音の先の信号交差点の右手角に小公園があり、郷原宿の標柱や宿絵図が描かれている。 郷原宿に入って間もなく左手に郷原宿の鎮守の諏訪稲荷神社がある。
境内には、明治三十七八年の役の砲弾が奉納されている。
街道左手の火の見櫓の下に郷原宿の解説が建っている。
郷原宿は、時の松本領主・小笠原秀政公によって制定され、この火の見櫓から桔梗山郷福寺まで3町32間(385m)が郷原宿である。
火の見櫓の脇の用具入れのシャッターには狐の親子とブドウが描かれている。

川上屋 上問屋赤羽家 郷原の古井戸 下問屋赤羽家
街道を進むと右手に屋号川上屋が有り、屋根にはこの地特有の雀踊りの棟飾りが付いている。
この手前には屋号木屋が有り、家の前に二宮金次郎像が建っている。また川上屋の斜め向かいにも屋根に雀踊りの棟飾りの付いた屋号山城屋(本陣)がある。
屋号山城屋(本陣)の向かいに上問屋赤羽家がある。
冠木門の手前には郷原宿碑が建っており、隣の郷原簡易郵便局の入口には問屋の屋号が下がっている。
上問屋赤羽家の直ぐ先左手の屋号俵屋の前に郷原の古井戸がある。
郷原の古井戸は、郷福寺境内、お茶屋付近、そしてこの問屋付近の三ヶ所にあったと云われ、 地下水が非常に低いため深井戸を掘ったが、これの維持管理には大変な費用と労力を要したという。
古井戸の隣の家が下問屋の赤羽家である。この家も屋根に雀踊りの棟飾りを付けている。

郷原の古井戸 郷福寺 堅石三社神社 雀踊りの棟飾りの家
屋号の架かる家並みを進むと右手の郷福寺の前に郷原の古井戸がある。
ここには善光寺街道北国西脇往還の標柱、郷原宿碑、明治天皇御膳水の古井戸、高札場などが復元されている。
桔梗山郷福寺は、真言宗智山派の寺で本山は高野山金剛峰寺である。
郷原宿の北側で街道筋の東側にあり、現本堂は安政5年(1858)の大火以後の再建であるという。明治13年(1880)明治天皇御巡幸の際に御小休所となった。山門前には瑠璃光殿、庚申塔などの石塔群、山門を入ると弁財天堂、不動堂、芭蕉句碑などがある。
郷福寺を出て最初の左手の細道を進むと突当りに村社の堅石三社神社がある。
社標には諏訪稲荷神社にもあった神饌幣帛供進神社と刻まれている。明治から終戦に至るまで、郷社・村社を対象に勅令に基づいて県知事から、祈年祭、新嘗祭、例祭に神饌幣帛料を供進された神社を指している。
境内には男女双体道祖神、石祠などがある。
堅石村に入っても雀踊りの棟飾りの付いた家が続いている。
この写真の向かいには冠木門のある覚志館の標札の下がる家があり、更に隣には恩師郷原古統先生寿碑が建ち、先に雀踊りの棟飾りの旧家が続いている。

頌徳碑 冠木門の旧家 広丘駅 津島神社
雀踊りの棟飾りの付いた赤い屋根の空き地を挟んだ隣のアパート前に医師古厩勇一先生頌徳碑が建っている。 通行量の少ない長閑な街道を進むと立派な家が立ち並ぶ中、冠木門に雀踊りの棟飾りの付いた旧家がある。 真っ直ぐな街道をどんどん進むと原新田交差点で右手奥にJR篠ノ井線の広丘駅が見える。交差点の先の電柱に郷原宿の看板があり、「緋のつつじ咲ききわまれり郷原の宿の軒さへ花明かりする」 と歌碑が書かれている。 原新田交差点の直ぐ先の一本目の細道を進むと突当りに津島神社がある。
境内には奉納相撲の土俵があり、社殿周りには大日如来碑、庚申塔、養蠶守護神、秋葉大権現などがある。

原新田第二公民館 道標 山ノ神社 平林家
津島神社の隣に雀踊りの棟飾りの付いた原新田第二公民館がある。
公民館の庭先には、原新田一里塚跡碑が建っており、傍らに道祖神碑・男女双体道祖神がある。
津島神社から街道に戻ったところに逆Y字路があり、この中央に道標が建っている。
写真の右がこれまで歩いて来た善光寺道で左がいなすわ道である。
明治2年(186)の道標には、「右京いせきそ道 左東京いなすわ道」 と刻まれている。
道標から間もなく右手の大きな民家の先の林の中に山ノ神社がある。
街道に面して鉄柵門があるが、鍵は架かっていらず中に入ることができた。どちらかと言うとあまり整備の手が入っていないが、社殿の前は清掃された感じであった。
広丘郵便局の斜め向かい側に冠木門の平林家があり、門脇に明治天皇広丘御小休所碑が建っている。

牛屋 塩尻短歌館 太田水穂生家跡 広丘小学校
平林家の斜め向かい側に 「赤彦下宿跡牛屋」 という表札を架けた旧家がある。
明治9年(1876)に旧諏訪藩士の四男として生まれた島木赤彦は明治・大正時代のアララギ派の歌人であり、この先にある広丘小学校の校長を勤めた際、この牛屋で下宿したという。
牛屋の先の左手の道を進んで行くと塩尻短歌館があり、一帯は公園になっており松林の中にいくつかの歌碑が建っている。 塩尻短歌館から街道に戻った突当りの家の玄関前に太田水穂生家跡碑が建っている。
失礼して庭に入ると太田水穂生家跡解説と水穂・五郎・青丘の三名の歌碑が建っている。
太田水穂生家跡から直ぐ先左手に広丘小学校がある。
校内には、「短歌と生きる」 と刻まれた碑や子供達の絵が刻まれた碑などが建っている

吉田横断地下道 旧道口 牛馬観世音 村井学校跡
広丘小学校を過ぎた先でJR篠ノ井線の踏切を越え、国道19号線に合流して暫く進み、長野自動車道の高速道路の手前で吉田横断地下道を抜けていく。
この地下道の壁には、塩尻市立丘中学校の制作した 「ふるさと」 と題した 「ものぐさ太郎」 の童話が絵になっている。
国道19号線の下吉田交差点で左に入る旧道口がある。 旧街道に入って間もなく右手の植栽の中に牛馬観世音碑が建っている。
碑の裏面には 「牛馬の霊に捧げ云々」 と刻まれている。
暫く街道を進んで行くと田中歯科医院の向かいに枝垂れ桜の木があり、根元に村井学校跡の解説が建っている。村井学校は明治維新の際、筑摩県第一小校として創設され、その後、幾多の変遷を経て明治44年に閉校となったという。
枝垂れ桜は当時からあったもので、傍らに自治功労者中村宗治郎翁の顕彰碑が建っている。

神明宮 村井番所跡 宿並み 脇本陣兼問屋の山村家
村井学校跡から程なく左手に神明宮の鳥居が見える。
鳥居脇に神饌幣帛料供進神社標があり、境内には天皇陛下御在位二十年記念植樹の榊が十本植えられている。また境内にある村井第一公民館の脇には村井番所跡から移した高札場跡がある。
神明宮を出た左の路地角に村井番所跡がある。村井番所は米穀・塩・材木の搬出入と女や馬の通行を改めた口留番所であった。
享保11年(1726)に水野氏の後を継いだ松本藩主戸田氏は、塩尻組・会田組・麻績組が幕府領に編入されたため、塩尻・本山・保福寺にあった番所を廃して、新たに村井・出川・岡田の番所を設置した。その後、再び幕府領が松本藩に戻ったため、享保7年(1732)に番所の幕を閉じた。
村井番所跡の先でJR篠ノ井線村井駅に向かう県道287号線を越えると海鼠壁の趣ある家が街道の両脇に並んでいる。 趣ある宿並みを進んで行くと右手に芳川地区景観整備委員会の標柱があり、脇に村井宿の解説が建っている山村家がある。
解説によると村井宿は慶長年間(1596-1614)に北国脇往還に開かれた宿場であり、松本から一里二十町、郷原宿へ一里十二町に位置し、元禄年間(1688-1703)の記録では82軒ほどの家があったという。

山村家稲荷社 本陣兼問屋の中村家 常照寺 村井町共同墓地
山村家の脇の山村小児科医院の看板の細い路地を進んで行くと右手に山村家稲荷社がある。
鳥居の奥の覆屋の中に文政2年(1819)の稲荷社社殿が保存されている。小さいながら全体に彫刻が施されており、向拝の木鼻には像・唐獅子が彫られている。
山村家の先の左手に立派な塀と大きな冠木門のある本陣兼問屋の中村家がある。
中村家の前には明治天皇村井御小休所碑が建っている。明治天皇は明治13年6月25日午後、松本を出発し木曽に向かわれる際に第一回目の休憩を中村家でとられている。
中村家の斜向かいの道を進んで行くと突当りに浄土宗の常照寺がある。
ご本尊は阿弥陀如来で天正年間(1573-92)の開山といわれている。
境内には賽の河原地蔵尊、三部妙典二万部供養塔などがある。
街道を進み右にカーブする逆Y字路があり、左に入って行くと村井町共同墓地がある。この辺りは、かつて交通の要衝で市場の跡と伝えられている。能登鰤が飛騨を経て運ばれ、明治中頃まで市が開かれたという。
墓地の入口には、ブリ場お標柱と解説が建っている。墓地の中央には地蔵堂があり、傍らには馬頭観音や百万遍供養塔などがある。

御嶽神社 一里塚跡 庚申塔・道祖神 茶屋神社
村井共同墓地の先を左に折れると右手に御嶽神社がある。
小さな鳥居を潜ると御嶽神社、覚明霊神、命覚霊神、延命霊神が祀られている。
街道に戻って村井下町交差点で国道19号線に合流する。合流して間もなく右手のファミリーマートの前に一里塚跡がある。
一里塚碑の脇には、文化10年(1813)の芭蕉句碑があり、「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」 と刻まれている。
国道19号線を進み平田駅東交差点を越えた右手に庚申供養塔と道祖神が安置されている。 国道19号線を更に進み右手の 「全身もみほぐし2,980円」 の看板下の細道を進むと突き当たりに茶屋神社がある。
茶屋と関係があるのだろうが、何を祀っているのか解説も無い。鳥居の先に茶屋神社と刻まれた石碑があるのみである。

道祖神 旧道分岐 道祖神・蚕玉神社 多賀神社
平田南交差点の右手角の日野自動車㈱のフェンスの前に道祖神が建っている。 平田南交差点の先の平田信号Y字路で右に入るのが善光寺道である。
このY字路の右手前のゲオ松本平田店の脇に筆塚がある。
街道は田川沿いを通っており、右手の土手上に道祖神と蚕玉神社がある。
田川は高ボッチ山に源を発し、みどり湖、塩尻市片丘、松本市街の西縁部を流れ、奈良井川へ合流している。
街道を進むと右手の出川変電所の先にこんもりとした林があり、ここに多賀神社がある。
この神社は滋賀県犬上郡多賀町の多賀神社より分霊を勧請して創建されたものである。御祭神は万物の産みの祖神として、生命の祖神といわれる。
境内には、風神、疱瘡の神、秋葉神社などの社や道祖神、天盃恩賜記念長寿碑などの石碑が建っている。

出川差矢場跡 石仏石塔群 寺子屋跡 出川町公民館
多賀神社の先左手の味噌醤油の丸正醸造㈱の隣の民家の角に出川差矢場跡地の標柱が建っている。
この標柱より西へ62m入ったところに広さ東西30間(25m)、南北110間(118m)の通矢の訓練場があったという。この標柱より手前にいちみち(市街道口)の標柱が建っている。
出川差矢場跡地標柱の先右手に南無妙法蓮華経題目碑、馬頭観音、庚申塔などの石造物が並んでいる。 街道左手の四角い赤いポストを過ぎた先の民家の塀の前に寺子屋跡の標柱が建っている。 街道左手の出川公民館の前に盛業学校跡地の標柱が建っており、この標柱の裏には出川町高札場跡とも書かれている。
公民館の横には六地蔵尊が並んでおり、奥に観音堂がある。

信楽村役場跡 中田家 信楽一里塚跡 豊田橋
出川町交差点を越えると右手の民家の前に信楽村役場跡標柱が建っている。
標柱には明治5年から明治14年迄と記されており、筑摩県筑摩郡両島村・出川町村・並柳村・平田村・野溝村・笹部村・高宮新田村が合併して信楽村となったようである。
街道右手に松本市重要文化財の中田家がある。中田家は江戸時代には出川組の名主役を勤め、役宅にふさわしい庭園を備えた上級民家を構えており、 江戸時代中期からは酒造業を営み、旧態を今日に伝えている。
庭園は平庭式池泉回遊様式であり、明治天皇の北国巡幸の際の御小休所になっている。
街道を進んで田川に突き当たる手前に信楽一里塚跡がある。
一里塚跡の標柱は、ほぼ消えかけていて辛うじて読める程度であり、脇に念仏供養塔と南無阿弥陀仏碑が建っている。
信楽一里塚の先で柳橋交差点を渡り、田川に架かる豊田橋を渡って松本宿に入って行く。

逢新神社 道祖神 緑橋 宗玄寺
豊田橋の先で小川に架かる城見橋を渡って間もなく右手の路地を入ると左手に逢新神社がある。
神社の脇には地蔵堂があり、アカク塗られた地蔵尊が安置され、脇に六地蔵尊や馬頭観音、子供を抱いた石仏がある。
境内には拝殿の脇に秋葉神社がある。
街道を進むと薄川(すすきかわ)に架かる栄橋を渡って松本市街へ入って行く。
この栄橋の手前に昭和9年(1934)の道祖神が建っている。
薄川は美ヶ原に源を発し、松本の市街地を通り、松本市中条で奈良井川の支流の田川に合流している。
市街地に入って松本ツーリストホテルの手前に緑橋と刻まれた石橋がある。
元和元年(1615)松本城主小笠原秀政が、長男忠修・次男忠政を伴い大坂夏の陣に出陣したが、忠政は若干18歳で乳母は別れを惜しむあまり、この橋で袖にすがって離さなかったという。忠政は陣羽織の袖を切って発った伝えられ、以後この橋を 「袖留橋」 と呼んだ。明治11年の架け替えの際、大手門の石材を利用して石橋になり 「緑橋」 と改名したという。
緑橋の先の太陽生命ビルの先に街並みにそぐわない宗玄寺の山門がポツンと建っている。
山門をくぐると参道脇になまこ壁の土蔵があり、その先に浄土真宗本願寺派の宗玄寺がある。

富士浅間神社 深志神社
宗玄寺の山門の先の路地を進むと突当りに深志神社があるが、その手前に富士浅間神社がある。
鳥居には文政12年(1829)と刻まれている。
拝殿から奥はブロック塀で囲まれており立ち入ることができない。
深志神社は、社伝によると信濃国府中の井川城に居館した小笠原貞宗公により、諏訪明神の霊夢を受けて社殿が造営されたという。
その後、幾多の変遷の後、松本城と城下町の鎮護の神社として歴代城主により篤く敬われ、天保12年(1841)に京都・神祇道管領長上吉田家の認可を受けて正式に 「深志神社」 と定めたという。境内はかなり広く、多くの建物・石造物がある。

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