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北国街道   (篠ノ井~善光寺)


平成28年8月14日(日) ☀  篠ノ井~善光寺  12.1㎞
本日は、一年前の平成27年9月に歩いた道であるが、一人ではなく連れがいる。季節はあまり変わらないが、また違った景色が見えることだろう。北国街道は新潟県出雲埼宿まで続くが、とりあえず善光寺を目指して行く。

日の出 布制神社 鼻顔稲荷神社 秋葉神社・天神さん
篠ノ井駅近くのホテルから見えた日の出は、やっと雲の上に顔を出したのが5時46分で、空は全体的に薄い雲がかかっており、天気予報通り明日からの雨を予感させている。 篠ノ井駅からの道と街道が交差するとこから歩き始めると、直ぐ先の左の脇道を入った芝沢公園に布制神社がある。
御祭神は天照大神・大彦命を祀っており、布制社殿の隣には西宮神社の社殿がある。
布制神社から篠ノ井駅方向に西に進んだところに鼻顔稲荷神社がある。
ここは日本五大稲荷の一つに数えられる佐久市岩村田の鼻顔稲荷神社の分霊を祀っている。御祭神は宇迦乃御魂命・猿田彦命・大宮能売大神の三神で、境内には蚕神・秋葉神社・天神宮などが合祀されている
布制神社から街道に戻ると最初の十字路右手に芝澤の秋葉神社と天神さんがある。
ここは北国街道に面する交通要衝の地であり、芝澤の安寧と開運を祈願して建てられたものである。

庚申塔 地蔵堂 井戸 金毘羅神社
芝澤交差点の手前に万延元年(1860)の庚申塔が建っている。
裏面に布施高田村と刻まれている。
街道を進んで高田交差点を越えると右手に地蔵堂があり、表札には高田公会堂とある。
ここには石造地蔵菩薩坐像・石造薬師如来坐像が安置されており、いずれも室町時代の作である。
地蔵堂の直ぐ先左手に井戸がある。
ポンプが付いた井戸で現在も使用されているものである。
井戸の先の右手民家の間の細い路地を入ると用水路の脇に金毘羅神社がある。
境内には、如意論観音坐像が安置された新しい御堂が建っている。

旧原村役場跡 茶屋本陣跡 蓮香寺 世茂井神社
街道左手の塀の手前に旧原村役場跡標柱が建っている。 街道を進むと右手に立派な旧家があり、旧家の手前を右に入ると塀の脇に明治天皇御小休所碑が2基建っている。
街道からは全く見えないところに建っている。
茶屋本陣跡の直ぐ先左手に浄土宗の光明山崇要院蓮香寺がある。
南北朝時代の貞治6年(1367)に川中島原の西畑沖に創建され、その後安土桃山時代の慶長元年(1596)に現在の地に移転再建され、平成10年(1998)の長野オリンピックでは、ドイツチームのゲストハウスとなっている。
境内の開山堂には月秀上人像、呑龍上人像が安置されている。
蓮香寺から街道に戻ると向かいの路地の奥に世茂井神社がある。
祭神は大国主命の子である建御名方神
(たけみなかたのかみ)である。
境内には猿田彦命・金剛明王・庚申塔・道祖神など多くの石造物がある。

明治天皇原御膳水碑 長野区裁判所中津出張所跡 中津村~昭和村役場跡 今井村役場跡
世茂井神社から程なく左手の連子格子の立派な家の前に明治天皇原御膳水碑が建っている。 長野市昭和小学校を過ぎると右手のアパートの前に長野区裁判所中津出張所跡がある。
明治23年(1890)8月、更級郡唯一の長野区裁判所中津出張所として更級郡中津村大字今井1853番地(現地)に開所された。
その後、機構改革等によって改称移り変わって行き、長野地方法務局川中島出張として昭和41年(1966)3月、川中島町原460番地へ移転された。
直ぐ先の長野市消防団川中島第2分団詰所の半鐘櫓の下に中津村~昭和村役場跡碑が建っている。
赤い消火栓の脇には風化した馬頭観音らしき石仏が建っている。
街道を進んで北原西交差点を渡ると左手に今井村役場跡標柱が建っている。
明治4年(1871)の明治新政府による地方制度改革の廃藩置県当時は、今井村と原村に分かれていが、今井村は明治9年(1876)に原村の飛び地(北原12戸45人)を編入、明治22年(1889)4月1日、市制・町村制の施行により、今井村と原村が合併し、中津村となった。

茅葺屋根の民家 延命大仏殿 北原天満宮 北原警察分署跡
今井村役場跡の直ぐ先右手に気抜き屋根の付いた茅葺の民家が建っている。 街道左手の 「ひとミュージアム上野誠版画館」 を過ぎると、次の左手路地を進んだところに延命大仏殿がある。
寛政12年(1800)江戸の大輪坊が北国街道沿いの今井村北原地籍薬師堂沖に阿弥陀堂を建立し、寛政4年(1792)江戸で寄進した大仏を長い年月をかけて阿弥陀堂に遷座供養したのが始まりと云う。
大仏殿には、阿弥陀如来坐像と子安地蔵菩薩坐像が安置されている。
延命大仏殿を出て70m程進むと右手に北原天満宮がある。
ここはかつて薬師堂のあったところで、境内には顕彰碑、徳本の名号碑、三界萬霊塔などがある。
北原天満宮の隣に金網で囲われた広場があり、その角に北原警察分署跡の解説が建っている。
ここは明治14年(1881)機構改革により、塩崎警察分署が移設されたところである。
その後機構改革・町村合併などにより、今井警察分署、中津警察分署、中津村巡査駐在所、中津警察官駐在所と改称されてきた。

稲荷社 川中島町役場跡 御大典紀念碑 馬頭観世音
北原警察分署跡から程なく左手の塀の中の畑の隅に稲荷社が建っている。 街道を進んで行くと長野市川中島支所の植栽の中に川中島町役場跡標柱が建っている。
川中島支所前の交差点を越えて暫く進んで行くと小川の手前の路地角に道標を兼ねた御大典紀念碑が建っている。
文字がはっきりしないが 「大村ヲ経テ東福寺村松代町二至ル」 と刻まれている。
小川に架かる三俣橋を渡るとオートバイ販売修理の 「モトパーク・トラスト」 の横に昭和12年(1937)の馬頭観世音碑が建っている。
碑には 「支那事変昭和12年11月戦敞死」 と刻まれており、軍馬のための供養碑と思われる。

演習記念碑 道祖神 親鸞聖人御舊跡碑 唯念寺
長野南バイパスの高架下をくぐって先に進むと右手民家の植栽の中に 「第拾三師団秋季演習記念碑」 が建っている。 街道を進むと横断歩道の左にある消火栓の後ろに文化4年(1807)の道祖神が建っている。 街道が右カーブする場所で橋場交差点を越えると、間もなく左手に親鸞聖人御舊跡碑が建っており、その後ろに隠れるように昭和24年(1949)の道祖神が建っている。 親鸞聖人御舊跡碑の脇を左に入って行くと真宗大谷派の一重山唯念寺がある。
開祖は和田新四郎義包で和田義盛(鎌倉幕府の侍所別当)の嫡尊新左衛門尉常盛の4男である。境内には親鸞聖人像・南無阿弥陀仏碑・唯念寺由来碑などがある。

新田共同井戸 筆塚 伊勢社 観音堂
街道に戻ってどんどん進んで行くと左手に新田共同井戸がある。
明治10年代(1788~)に新田組二十三戸の共同井戸として掘削された釣瓶井戸である。
その後手押しポンプ、簡易水道となり、昭和30年(1955)県営上水道になるまで使用された。年一度の井戸がえ(整備と清掃)は村中総出の一大行事であった。深さは約13mで、現在も新田公民館と附近の住民が使用している。
新田共同井戸の向かいの細い路地を入って行くと新田公民館があり、庭先に嘉永6年(1853)の筆塚、天満宮、秋葉社、庚申石祠などの石造物がある。 新田公民館から東に見えるのが中氷鉋(なかひがの)伊勢社である。
伊勢社の創建年代等は不詳であるが、境内には石祠のほか目通り6mを超えるケヤキの大木が立っている。
街道に戻って先に進むと丹波島交差点の手前に観音堂がある。
元禄年間(1688-1700)仏門に帰依した問屋柳島市郎左衛門寛休により建立されたもので、
ご本尊は観音菩薩であるが、地蔵菩薩も併尊されている。境内には念仏行者徳本上人の名号碑と寛休の経塚がある。

於佐加神社 鍾馗像 高札場跡 問屋場跡
丹波島交差点を越えて枡形に突き当たる左手に於佐加神社がある。
この神社は丹波島宿の鎮守であり、健御名方神・八坂斗売神が祀られている。
境内には秋葉社・天満宮・金刀比羅社などの境内社の他、筆塚2基・庚申石祠・道祖神などがある。
枡形の突当りの家の屋根に鍾馗像がある。
丹波島宿には、宿場に入って来る邪鬼を追い払うため、街道の入口や脇道からの突当りの家の屋根に様々な形をした鍾馗像が鎮座している。
枡形から真っ直ぐな街道を進むと左手に丹波島宿の高札場跡がある。
丹波島宿は幕府と松代藩の二重支配下にあり、松代藩内41ヶ所の主要な高札場であった。地域住民への公示はもとより、街道を通る旅人への情報提供も担い、明治5年頃撤去された。平成23年、北国街道丹波島宿開設400年を記念して、当時の場所に復元された。
高札場の隣に丹波宿の問屋場跡柳島家がある。
柳島家は慶長16年(1611)丹波島宿が開設されて以来260年間問屋を務めた。建物は江戸中期に建てられたもので、脇本陣を兼ねた造りとなっていた。冠木門は松代藩廃止後払い下げを受け、移築したものである。
門前には明治天皇北陸巡幸の御膳水記念碑が建っている。

丹波宿並み 丹波島宿本陣跡 丹生寺 丹波島の渡し跡
丹波島宿の街道は於佐加神社前から真っ直ぐ東へ延びる道であり、振り返ると於佐加神社の鳥居が次の枡形まで見えている。
かつて、北国街道は松代道であったが、慶長16年(1611)幕府は善光寺~丹波島宿~矢代宿の道を正式な北国街道とし、丹波島宿を伝馬宿として認定した。
問屋場跡の直ぐ先に本陣跡柳島家がある。
柳島家は近江の国で武田信玄の家来として松代に入封し、川中島の戦い後、めまぐるしく代わる松代城主のときは物見役を務めていた。柳島家三代目柳島太郎左衛門政雄が、慶長15年(1610)松代城主松平忠雄の補佐役大久保長安に命ぜられ、北国街道丹波宿開設と本陣を務めた。門前には明治天皇巡幸を記念して建てられた明治天皇御小休所碑がある。
本陣跡柳島家の向かいの路地を進むと右手に浄土宗の一法山丹生寺がある。丹生寺は延徳2年(1490)生誉海底和尚により開山された浄土宗知恩院派の末寺である。本尊は阿弥陀三尊立像で、元禄年間に問屋の柳島市郎左衛門寛休により寄進された像である。丹波島で生まれた村寺であり、戦国時代の落ち着いていた天正年間に第二世善龍和尚を迎えるにあたって造営された。境内には2基の青面金剛を線刻した馬頭観世音碑がある。 街道に戻って本陣跡柳島家の先で十字路を左折して進んで行くと、犀川の堤防突当りに丹波島の渡し碑が建っている。
碑には小林一茶と十辺舎一九の句が刻まれている。

丹波島橋 丹波島橋竣功記念碑 水神宮 馬頭観音
土手道を進んで犀川に架かる丹波島橋を渡って行く。
欄干には渡しの時代から鋼橋の時代までの解説とレリーフが刻まれている。
丹波島橋を渡ると右手に丹波島橋竣功記念碑などがあり、渡り詰めの左に文政6年(1823)の常夜燈、右に文政3年(1820)の常夜燈が建っている。 丹波島橋を渡り右手の土手沿いを下って行くと公園の一角に水神宮がある。
公園の手前辺りが丹波島の渡し跡付近であり、水神宮の祠の中に新しい水神、男女双体道祖神が安置されている。
水神宮から国道117号線方向に進み、国道の手前の旧道を県道372号線を越えて進んで行くと右手の塀の奥に赤く塗られた馬頭観音が祠に安置されている。
帽子をかぶっていると地蔵菩薩にしか見えないが帽子を取ると頭に馬頭が乗っていた。

姫塚 吹上地蔵堂 蓮心寺 木留神社
馬頭観音の先の十字路を右折して信州大学工学部の手前の小さな墓地に姫塚がある。
この姫塚は、源氏の武将熊谷次郎直實入道蓮生法師が、文治4年(1188)愛娘玉鶴姫の亡骸を葬った遺跡である。
善光寺如来が老翁の姿となって舟綱を曳き、臨終の迫った姫を此の岸に渡したとき、折しも善光寺に参籠中だった蓮生法師はたなびく紫雲に導かれて市村の里に至り、父と娘の再開を果たした。
街道に戻って十字路を越えると左手に吹上地蔵堂がある。
この地蔵堂は、文政元年(1818)に再建されたもので、祀られている延命地蔵尊は安産、子育安穏、延命長寿にご利益があり、例大祭は毎年4月23日である。
境内には、天明2年(1782)の常夜燈、西国坂東秩父四国當国供養塔などが建っている。
吹上地蔵堂の直ぐ先左手に浄土宗の蓮心寺がある。
建久6年(1195)浄土宗の開祖法然上人が善光寺に参詣した時、蓮心というお坊さんの願いにより、この寺を建てて 「蓮心寺」 と名付けたという。
境内には南無阿弥陀仏碑・招魂碑・明治14年(1881)の常夜燈などがある
蓮心寺の隣に木留神社がある。
社名の由来は、善光寺再建のための材木を犀川丹波島の渡しで陸揚げし、境内に留め置いたからだと伝わっている。
鳥居を潜ると二股に分れた大きなケヤキの木が中央にあり、境内には庚申塔・行人塚・高札場が復元されている。

観音寺 跨線橋 糀屋本店 西光寺
長野駅が近づくと街道左手に観音寺がある。
御本尊は源頼朝公が善光寺佛参の折り、漆田出羽ノ守元春に自らの御守仏髻馬頭観音(六分五里)と智證大師御作ニ位禅尼政子の御持仏の厄除観音(一寸一分)を託した観音像ニ体と聖徳太子御作火防地蔵菩薩(五寸)である。
境内には宝篋印塔・子育観世音菩薩・二十三夜塔などがある。
観音寺の先でJR北陸新幹線・信越本線の跨線橋を渡って善光寺側に出ていく。
跨線橋からは長野駅が見える。
長野駅南交差点を渡ると左手に糀屋本店があり、屋根に小祠が乗っている。
頭には醤油製造所・種糀製造所などの年季の入った看板が下がっている。
善光寺参道に入ると右手に浄土宗の刈萱山西光寺がある。
正治元年(1199)善光寺如来に導かれて、高野山から信濃の地に下った苅萱道心が、この地に草庵を建立したのが始まりである。
御本尊は、開祖苅萱道心とその子信照坊道念上人(幼名石童丸)が刻んだ二体の親子地蔵尊である。

オリンピックモニュメント 北野文芸座 熊野神社 蔵造りの店舗
善光寺参道の中央通りに面したところに平成10年(1998)の長野オリンピックメモリアルパークがある。
ここは長野オリンピックで表彰式を行った会場跡である。
更に進むと左手に北野文芸座が建っている。東京の歌舞伎座風の外観に、日本瓦を使用した大屋根と曲線が美しい唐破風の銅板葺きの屋根を備えている。 続いて街道左手に熊野神社がある。
この神社は、竜と天女の彫り物が見事で日光東照宮の 「眠り猫」 で有名な左甚五郎が善光寺参りに来た時に彫ったと言われている。
大門南交差点を過ぎて坂道になると右手に蔵造りの店舗が並んでいる。

善光寺入口 善光寺
善光寺交差点の大きな常夜燈の前で北国街道は右に曲がって行くが、このまま直進して善光寺参りをして行く。 物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられた一光三尊阿弥陀如来像が、信濃国司の従者として都に上った本田善光によって持ち込まれ、これを祀ったのが始まりと云われる。
皇極天皇3年(644)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って 「善光寺」 と名付けられた。
詳細はホームページの名所・旧跡などで整理した 「善光寺御開帳」 を参照。

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