歩道の広くなった部分にレリーフと解説がある
船橋の時代
昭和7年(1932)12月、全長541m、全幅12.2mで両側歩道付きのゲルバー型トラス構造の橋が総工費88万円で架けられた。
この橋は、昭和61年(1986)12月に総工費32億円で新橋が架けられるまでの54年間、厳しい風雪に耐えながら県都長野市の玄関口として重要な役割を果たしてきた。そして平成5年(1993)3月、旧橋の跡にさらにもう一本の橋が総工費37億円で架けられ、丹波島橋は全幅24.6m、車道部13.0mの4車線の橋へと生まれ変わった。
明治23年(1890)9月、丹波島地区の人々によって民間経営の丹波島橋(初代木橋)が架けられた。
この橋は、全長300間(540m余)、幅3間(5.4m)というもので、総工費は1万6,265円2銭5厘であった。その後、明治31年(1898)に9,500円で県に買い上げられ、明治35年(1902)・大正3年(1914)の二度の架け替えを経て、銅橋の4代目丹波島橋が架けられるまでの42年間、犀川を渡る人々を見守り続けてきた。
明治6年(1873)3月、民間の 「丹波島舟橋会社」 が設立され、渡し舟は舟橋へ代を譲ることとなった。
当時、付近の犀川は4本の川瀬に分かれていたため、舟橋はそれぞれの川瀬ごとに合計46隻の舟によって架けられていた。人々は人馬、物資に応じて定められた橋銭を支払い、4本の舟橋と中州を歩き、300間ほどもある幅広い犀川を渡っていた。この舟橋は、増水のたびに幾度となく流失し架け替えられながら、木橋の初代丹波島橋が架けられまで17年間にわたって使われ続けてきた。
鋼橋の時代
木橋の時代
渡し舟の時代
丹波島橋親柱
慶長16年(1611)、北国街道に善光寺宿、丹波島宿、矢代宿が開かれるとともに 「犀川の渡し」 が置かれた。この渡しは、千曲川に置かれた 「矢代の渡し」 とともに重要な役目を担い、これにより街道を往来する人々の流れは松代廻りから善光寺廻りへと変わっていった。
当時、附近の犀川は大水のたびに川瀬が変わり、渡し舟は川の状況によって 「丹波島の渡し」、「市村の渡し」、「綱島の渡し」 と位置を変えていた。そして明治維新に至るまでの約260年間、人々の文化と歴史を渡し続けてきた。
丹波島橋歩道部分
犀川上流域